第3話 十分の記録
空調区画へ続く通路は、図で見るより狭かった。
尚匡が壁を擦らないよう肩を寄せると、後ろの御厨も同じほうへ避けた。人がすれ違うには片方が止まらなければならない。戻ることになったら最後尾から退く、と榎坂が皆に伝えた。
通路の途中には排気用らしい格子があり、短く震えていた。震えが止まると、床の下から低い音が一つ残った。さっきの電話を思い出す。尚匡は足を止めかけたが、音が似ているというだけでは、何も選べなかった。
突き当たりの扉には、空調機器室とある。ここにも電話が付いていた。
「またかよ」
笹倉が言った。
白い発信ボタンの下に、掌の窪みがある。説明も覚醒室と同じだった。この扉を開けた場合の、十分後の本人。三十秒。一度。
友乃葉がメモを開いたまま、尚匡の横に立った。
「私がかけてもいいですか」
榎坂がすぐに返事をしなかった。尚匡も、代わると言いかけた。二度とも自分の声を聞いたから、三度目も自分でなければいけない気がしていた。
「理由、訊いても?」
穂奈実が友乃葉に尋ねた。
「相良さん、さっきからずっと周り見てるから。話してる間、それができなくなる」
友乃葉は携帯を持った手を下げた。
「あと、私の声が聞こえたら、私も少し、信じられるかもしれない」
最後の部分は小さかった。尚匡は彼女の顔を見た。誰かを助けるためだけの申し出ではない。それがかえって、止める理由をなくした。
「質問、先に決めよう。三十秒、すぐ終わるから」
尚匡が言うと、友乃葉はメモの新しい行に、どこ、何が危ない、皆、と打った。
御厨が表示へ顔を近づけた。
「本人しか接続できないなら、質問するのも本人でないと?」
「そこは書いてないです。でも、聞こえにくくなるから、まず三戸部さんだけで」
穂奈実は皆に半歩下がるよう頼んだ。携帯の録音を始め、友乃葉の近くに持つ。今度は穂奈実が記録の係を引き受けた。
九時八分。
友乃葉が掌を載せた。本人照合が点いた。押された白いボタンの横に、〇九時一八分の数字が出る。
「私、友乃葉。そっち、どうなってる?」
『水、踏まないで。受け皿、もう外れてる』
短い返事だった。今の友乃葉より息が上がっている。携帯を持つ穂奈実の手が、僅かに受話器へ寄った。
「どこの受け皿?」
『機械の下。銀色の。入口から奥に、水が広がって』
「皆は?」
『声はする。でも、ここから見えない』
「私、何すれば――」
低い音が三つ、続けて鳴った。少し間が空いて、また三つ。尚匡は天井を見た。現在の部屋からではない。受話器の先だった。
『足元、照らして。私、気づかなくて』
それで切れた。
灰色になったボタンを、友乃葉はじっと見た。自分の声を聞けば少し信じられると言っていた。その顔に、安堵はなかった。
「受け皿が外れて、水がある」
榎坂が繰り返した。
「じゃあ、まず入口から。それでいいか」
友乃葉が頷いた。穂奈実が録音を止め、九時八分、三戸部友乃葉、空調機器室、と読み上げた。友乃葉は携帯を受け取り、文字にした。尚匡は通話の終わった時刻と、相手のいる時刻を混同しそうになった。画面には九時八分と九時十八分が、別々の行に並んだ。
榎坂が押し棒へ手を掛けた。尚匡は蝶番側から離れ、床の見える角度に立つ。
「少しだけ、開けてください」
扉が手の幅ほど動いた。冷たい風が尚匡の指の間を抜ける。最初の部屋とは違う、湿った風だった。
携帯で照らすと、床が鈍く光った。薄い水の膜が、敷居の少し先まである。右の壁に機械が並び、その下に浅い金属の受け皿があった。銀色というより灰色に曇り、端に茶色い筋が出ている。
「ある」
友乃葉が囁いた。
皿はまだ落ちていなかった。片側を支える金具が曲がり、下から見た縁が斜めになっている。水滴が一滴、縁を伝って床へ落ちた。
尚匡は敷居を越えずに膝を折った。濡れた床の上に何かの細い線が見える。電線なのか、汚れなのか、光を変えないと区別がつかない。工具も絶縁を確かめるものもない。足で皿を押し戻すことだけは、しなかった。
「笹倉さん、まだ入らないで」
言い終わる前に、笹倉の靴の爪先が敷居へ来た。榎坂が腕を伸ばす。強く掴まず、前腕を壁のように置いた。
「見えてる。止まって」
金属が、こ、と鳴った。
右端の金具が外れた。皿が傾き、水が一度に流れ出す。床を打つ音に遅れて、皿が落ちた。尚匡は身体を引いた。銀色の端が跳ね、敷居の手前で止まった。
笹倉の靴は、榎坂の腕の後ろにあった。
六人とも黙った。水の流れる音だけが、低い機械音に重なる。尚匡は自分の膝を見た。床についていない。無意識に、敷居を越えないまま浮かせていた。
「言ったとおりだ」
笹倉が言った。
彼の声には、さっきまでなかった強さがあった。怖さに、掴める縁ができたような声だった。
「受け皿が落ちるって、言っただろ。ほんとに見えてるんだ」
友乃葉が自分のメモに目を落とした。文字を足そうとして、指が止まった。
「落ちる、とは言わなかった。もう外れてる、って」
尚匡は彼女を見た。
「九時十八分のほうでは、そうなってる、ってことか」
「はい。今、九時九分だから」
友乃葉が時計を示した。尚匡は数字を見て、皿を見た。予告は合った。少なくとも、十分後だという相手が説明した状態へ、目の前の機械は近づいた。
それを認めた途端、左の電話で聞いた名前の否定まで、現実のものになりそうだった。尚匡は作業着の袖口を引いた。灰色だった。
「私、皆の声がするって言ってましたよね」
友乃葉が顔を上げた。
「じゃあ、十分後も皆――」
「見えない、とも言ってた」
穂奈実は急がずに答えた。
「声がした、は残しておこう。誰がどこにいるかは、空けておいて」
友乃葉は唇を噛み、メモへ三文字打った。未確認。その文字が尚匡の位置からも見えた。
笹倉は何か言いたそうにしたが、落ちた皿を指すだけでやめた。榎坂が再び扉の中を照らす。水を踏まずに通れる場所は左側に細く残っている。奥には次の扉があり、その上で緑の避難表示が点いていた。
尚匡は頭上の配管を辿った。水は右の設備の下から来ている。左側を通れば、今のところ水膜には触れずに済みそうだった。ただし、広がっている。待ち続けるほど通れる幅は狭くなる。
「左の壁沿い。床の光り方を見て、一人ずつ。濡れてるところへは出ないでください」
尚匡は自分から入口を越えた。榎坂が扉を支える。穂奈実が背後で、まず相良さん、次に三戸部さん、と名を呼んだ。一人ずつ呼ばれると、誰がまだ廊下にいるか分かる。
室内の空気は湿っていた。尚匡は機械に手を置かず、左の壁からも少し身体を離した。水を避けると、目線が下がりっぱなしになる。次の扉を見て、足元を見て、もう一度、人を見る。
奥の棚に何枚かの衣類が畳まれていた。その下に、試料作業用、と書いた札がある。
手前の通路には、靴底の跡が残っていなかった。覚醒室の粉もここまでは来ていない。誰かが先に通ったという手掛かりを探していたのだと、見つからずに初めて気づいた。案内する職員でも、悪ふざけを撮る人間でもいい。六人以外の誰かがいれば、この施設が何なのか説明を求められる。尚匡は奥の避難表示の下を照らしたが、動く影はなかった。受話器の先の声だけが、六人以外の居場所を持っていた。
棚は灯りの切れ目にあり、服の色までは見分けられなかった。天井の灯りが一本、短く瞬いた。
最後に榎坂が入口を離れ、六人が部屋の左側に並んだ。友乃葉が人数を声に出して数えた。尚匡は返事をした。
友乃葉が携帯を見た。接続先、九時十八分。
あの声は、十分後もまだこの部屋にいた。




