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出口の向こうから、俺の悲鳴が聞こえる  作者: 雨宮 弦


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第2話 誰の声か

 残り時間は二十二秒だった。

 尚匡は受話器を握り直した。名前をもう一度言いそうになり、やめる。自分を知らないと答えた相手に、同じ名を繰り返しても時間がなくなる。


「右手。親指の付け根に、三日月の火傷は?」


『ある。……なんで。これ、いつ』


「見る、切る」


『もう一度、見る』


 返事はすぐだった。前の職場で、電源を落とす前と作業を始める前に交わしていた合図だった。口うるさい先輩が勝手に作った言い方で、正式な標語ではない。


「青いものはあるか」


 自分でも、なぜそんな訊き方をしたのか分からなかった。相手が返事の合間に、青い、と呟いたように聞こえたのだ。


『袖。持ってくるな』


「何の袖だ」


『青い……忘れろ、違う、置いて――』


 低い唸りが言葉に重なった。尚匡は口を開きかけ、零になった数字を見た。

 左の発信ボタンも灰色になった。

 尚匡は自分の袖を見下ろした。灰色の作業着。肘に古い擦れはあるが、青い部分はない。足元にも、誰かの上着にも、持ってくるなと言われて思い当たるものはなかった。

 今の相手は、自分の名前が分からず、職場の合図は知っていた。

 耳の中に、その組み合わせだけが残った。


「手、見せてもらえますか」


 先ほど時間を見ろと言った女だった。尚匡が右手を開くと、彼女は傷に触れず、火傷の痕を覗き込んだ。昔、熱い配管の陰に手を入れたときの傷だ。普段の仕事では手袋に隠れる。


「あの説明を知ってる人は?」


「今の合図ですか。前の会社なら。傷も、そのころ付いたものだから」


「じゃあ、あなたしか知らないとまでは言えない」


 尚匡は頷いた。偽物だと決めてくれるのを、どこかで待っていた。それも違うと分かって、喉の渇きが戻った。

 彼女は胸の札を指で押さえた。


「志摩野穂奈実(しまのほなみ)。音響の仕事をしています。声が似てるかより、どこで録ってるかを聞きたい」


「分かるんですか」


「分からないかもしれない。でも、今あるものを比べることはできる」


 若い女が携帯を差し出した。


「私、三戸部友乃葉(みとべともは)です。大学生。さっきの、両方録れてると思う」


 画面に二本の音声ファイルが並んでいた。通話が終わっても、それは消えていなかった。尚匡は意味もなく一度、自分の携帯の日付を見た。変わっていない。

 白いシャツの男は榎坂慎(えのさかしん)と名乗った。以前は消防にいたという。榎坂は説明を長くせず、六人とも立てるか、頭を打った者はいないか順に訊いた。

 紺の上着の男は笹倉壮平(ささくらそうへい)。眼鏡の男は御厨統吾(みくりやとうご)だった。


「会社で資材の調達を。見積もりの打ち合わせに来たんです」


 御厨はずれた眼鏡を直し、名札の端を爪で折った。笹倉は職業を言わなかった。尚匡も訊き返す余裕がなく、顔と名前を結びつけるので精いっぱいだった。

 友乃葉が携帯のメモに六人の名を打った。相良、志摩野、と苗字から並べ、同じ苗字はいないですね、と確認する。ここを出て誰かに説明するには、まずそれが要るのだと尚匡は思った。


「助けを呼べるもの、ほかにありますか」


 尚匡が訊くと、それぞれ携帯を見た。全員圏外だった。榎坂が天井の換気口に向かって呼びかけたが、返るのは自分たちの声だけだった。

 壁に非常ベルの押し板があった。榎坂が周囲の表示を読んで押してみた。薄い板が沈んだまま、音も灯りも変わらない。壊れているのか、外へ通知されているのか。ここからは確かめられなかった。

 尚匡は、押した時刻も記録してほしいと友乃葉に頼んだ。彼女は九時四分、と入力した。


「右の音、少しだけ再生して」


 穂奈実が言った。

 友乃葉は音量を下げた。小さな声で、自分が助けを求めた。尚匡は反射的に右の扉を見る。向こうから聞こえているのではない。友乃葉の手の中からだ。それを分けて考えるだけで、妙に力が要った。

 穂奈実は悲鳴の直前で止めてもらった。


「二つとも、低い機械音がある。左は少しはっきりしてる。距離か、部屋の違いかは、まだ言えない」


「同じ場所にいる?」


 御厨が訊いた。


「そうとも言えない。似た設備なら、似た音はするし。あと、携帯で録った音だから、元から鳴ってたのか、この部屋で拾ったのかも分けたい」


 穂奈実は自分の耳を過信している様子ではなかった。携帯を友乃葉に返し、壁の電話へ目をやる。


「次に使うなら、こっち側では皆が黙る時間を作りたいです。相手の答えが聞き取れないのが、一番もったいない」


 次があることを、尚匡はまだ考えていなかった。

 榎坂が扉の間の壁を照らした。携帯の光で、汚れの下に細い線が浮かぶ。避難経路図だった。尚匡は袖で拭きかけ、粉を吸い込ませないよう手を止めた。光を斜めに当てるだけで読めた。

 現在地の赤い丸から、二本の通路が延びている。左は空調区画、右は排水区画。それぞれ観測区画へ続き、その奥に中央設備室があった。さらに細い線が一本、外周へ伸びている。


「これ、地上ですか」


 友乃葉が指した。


「保守口。たぶん、人も通れる。ただ――」


 線の途中に、工具庫の印と資格照合の文字がある。尚匡は携帯で図を撮った。自分の工具袋はない。資格の種類も、図では読み取れなかった。

 図の隅の改訂日には、古い数字が印刷されていた。紙の上に透明な板が被せてあり、後から書き足したらしい短い配管の線も見える。今の設備と全く同じとは限らない。尚匡はその日付も写真へ入れた。見慣れた図面があると、実物を見たような気になってしまう。その失敗なら、未来と話したことのない自分にも覚えがあった。


「近道なのに、誰でも開けられるわけじゃなさそうです」


「じゃあ、まず普通の出口を探す」


 榎坂はそう言ってから、尚匡の顔を見た。


「左でいいと思うか」


 返事を待たれていると分かった瞬間、尚匡の視野が狭くなった。

 前の現場でも、似た質問を受けた。止めなくていいか、と。上司が予定を詰めていて、尚匡は先に頷くほうを選んだ。作業をするのは自分ではなく、後輩だった。事故のあと、確認しましたと書いた自分の文字を、何度も見た。

 今も、誰かに左でいいと言ってほしかった。

 名前を忘れるのと、悲鳴を上げるのと、どちらがましか。そんな問いで選べるはずがない。左の男が名前を否定した理由も、右の男が声を上げた理由も、まだ一つも分かっていない。


「安全かは分かりません」


 尚匡は言った。


「右の相手は、すぐ助けが要る状態だった。左は話ができた。その差で、今は左を見たい。でも、俺が聞いたからって、全員一度に入らないでください」


「入口を確かめる、でいいな」


 榎坂が確認した。尚匡は頷いた。

 笹倉が地図の右側を見たまま、腕を組んだ。


「左が塞がってたら、引き返すんだぞ」


「はい。そのために扉を見ていてほしいです」


 尚匡が言うと、笹倉は短く息を吐いた。反対していたのではなく、置いて行かれるのを警戒していたようにも見えた。

 榎坂が先に進み、尚匡が設備と足元を見る。友乃葉は記録を持ち、御厨と笹倉は通路を塞がない位置で待つ。穂奈実が入口の外に残り、異音や皆の様子を見て退く合図を出すことになった。


「止めるって言ったら、理由は戻ってから聞いてください」


 穂奈実が言った。

 尚匡は、分かった、と答えた。

 九時五分。

 榎坂が左の押し棒をゆっくり押した。鍵の解ける音はしなかった。最初から、閉じ込めていたのは錠ではなかったらしい。

 隙間から、冷たい風が来た。

 尚匡は入口の床を照らした。黒い線が二本、壁際へ続いている。配管ではない。電話のケーブルだった。足の置き場を確かめ、その脇へ身体を通す。

 友乃葉、御厨、笹倉が続き、入口に残っていた穂奈実が最後に扉を抜けた。振り返ると、誰もいない覚醒室の二台の電話が見えた。

 どちらにも、もう白い光は残っていなかった。

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