第1話 二つの電話
頭上の配管で、きゅ、と音がした。
相良尚匡はその音で目を開けた。頬の下は冷たいコンクリートだった。掌をついて起きると、作業着の胸から灰色の粉が落ちた。床の粉には身体を引きずった跡がある。自分でここへ横になったにしては、踵が揃いすぎていた。
腰の工具袋に手をやった。なかった。
昨日、会社から渡された依頼書を思い出した。廃止施設の設備点検。現地で鍵を受け取り、止水状態と電源の残りを確認する。今朝、その住所で請負先の担当者に案内され、紙コップの水を飲んだ。その先がない。
尚匡は唇を舐めた。渇いている。頭を動かすと、首の奥が鈍く痛んだ。
向かいの壁の下で女が咳き込んだ。少し離れたところで、眼鏡の男が靴を探している。白いシャツの男は膝を立て、扉を見ていた。若い女と、紺の上着を着た年配の男もいた。尚匡を含めて六人だった。
「ここ、どこですか」
若い女が訊いた。誰も答えなかった。
尚匡は立ち上がり、頭上を見た。換気口はある。人が通れる幅ではない。窓はなく、天井の蛍光灯が一本おきに点いていた。出口らしいものは正面の二枚の扉だけだった。
腕時計は九時一分。扉の間のデジタル時計も同じ時刻を示している。その下の小さな表示には、十三時〇〇分、冷却限界とあった。
「あと四時間って、何の」
眼鏡の男が言いかけ、口を閉じた。
尚匡の胸で、何かが剥がれかけていた。紙の名札だった。
本人照合済。相良尚匡。
二十九歳の自分の名前を読んで、遅れて腹が冷えた。点検先へ来るときは会社の身分証を出す。しかし、こんな名札を付けた覚えはない。周りの五人も、それぞれ胸元を見ていた。若い女が自分の札を引っ張り、剥がす寸前で手を止める。
「勝手に触らないほうがいい」
白いシャツの男が言った。命令する声ではなかったが、女の手は下がった。
尚匡は二枚の扉を調べた。取っ手はごく普通の押し棒で、外側から施錠されているかまでは分からない。蝶番に新しい油が光っていた。左の扉の脇には左、右には右と、わざわざ白い文字がある。その下に一台ずつ電話が据え付けられていた。
黒い受話器。掌を置く形に窪んだ銀色の板。白く点った発信ボタン。
二台の上に、同じ説明が貼られている。
『この扉を開けた場合の、十分後のあなたに接続します』
『一つの扉につき発信は一度。通話は三十秒』
『本人以外には接続できません』
尚匡はもう一度、十分後、という部分を読んだ。
「録音だろ」
紺の上着の男が言った。
「こっちの名前を知ってるなら、そういう声くらい作れる」
実際に作れるのか、尚匡には分からなかった。それでも、未来よりは考えやすかった。依頼元と会社を調べれば、名前も年齢も分かる。水に何かを入れ、人を運ぶことだって、腹立たしいが説明はつく。
ただ、目的だけが分からない。
携帯を取り出した。圏外だった。緊急通報を試しても接続しない。端末自体は動く。会社の連絡先も、昨晩の妹からの短いメッセージも残っていた。来週なら空いてる、と返そうとして、返していない。
「まず、電話を使わず開くか確かめよう」
白いシャツの男が扉に近づいた。
尚匡は半歩、横へ退いた。取っ手を押す前に枠の継ぎ目を見たかったが、声を掛けるのが遅れた。男は力を掛ける前に尚匡の視線に気づき、止まった。
「何かある?」
「足元に粉がない。最近、開け閉めしてる」
床全体に灰色の粉があるのに、二つの扉の下だけ、弧を描いた薄い筋があった。壁の汚れは古く、電話のケーブルを留める金具は新しい。
「使ってない施設、とは限らないです」
「分かった。急に押さない」
男が手を離した。聞いてもらえたことに尚匡は少し驚いた。その驚きを隠すように、扉の隙間へ耳を寄せた。
水の音はしない。低い振動が、靴の底に僅かに来る。モーターか、空調か。この部屋だけを見て、電源を切ればいいとは言えなかった。
背後で若い女が、帰りたい、と小さく言った。
それで尚匡は顔を上げた。ここで設備の名前を数えていても、誰も外へは出られない。電話の表示が嘘なら、声の向こうに仕掛けた人間がいる。苦情でも、要求でも、一度は伝えられるかもしれなかった。
「俺が先に聞きます」
「右から?」
咳をしていた女が訊いた。
尚匡は右の受話器を見た。右が安全だと思ったわけではない。二つのうち、ただ近かった。
「使う前に、時間を見てください」
女は壁の時計を指した。
「三十秒って書いてあるから。途中で分からなくならないように」
尚匡は頷いた。若い女が携帯を出し、録音の画面を開いた。受話器の口を皆に向けてよいか訊かれ、線の届く範囲でそうした。
九時二分。
銀色の板に手を載せた。冷たいはずの金属が、掌の形に沿って温かくなった。本人照合、の文字が点く。受話器を上げても、まだ音はしない。尚匡は発信ボタンを押した。
呼出音はなかった。
いきなり、耳のすぐそばで息が潰れた。
『誰かいるか。上、開けろ!』
尚匡は肩を引いた。五人がこちらを見た。受話器から聞こえた声は、自分が仕事中に人を呼ぶときの声だった。こんな大声を出せば喉の奥が擦れる、という感触まで知っていた。
「相良。何があった」
『上だ、違う、聞こえてるなら誰か呼んでくれ!』
「どこにいる。扉の右側か」
激しい金属音がした。何かを叩いている。間隔が揃わない。低い駆動音の中で、相手が息を吸い損ねた。
受話器の横に、接続先〇九時一二分、という文字が出ていた。
尚匡の腕時計は、まだ九時二分だった。
「名前を言ってくれ。相良尚匡か」
『待て、まだ、そこに――』
言葉が悲鳴に変わった。
大きな音ではなかった。人の声を人の声のまま引き伸ばして、切れるところまで細くしたような音だった。尚匡の膝が曲がった。受話器を落としかけ、もう一方の手で押さえる。
無音になった。
表示の残り時間は、零だった。発信ボタンが白から灰色に変わった。
紺の上着の男が右の押し棒から手を離した。触っていることさえ自覚していなかったように、掌を自分の服で拭いた。
「今の、何」
若い女の携帯には、録音中の赤い点がまだあった。
尚匡は答えられなかった。喉がひりつく。自分は叫んでいない。それなのに胸の奥では、さっきの息継ぎが続いていた。
咳をしていた女が、尚匡ではなく灰色のボタンを見た。
「切れたのは、三十秒」
彼女は言って、言い直した。
「その人がどうなったかは、まだ分からない」
尚匡は受話器を戻した。もう一度持ち上げても何も聞こえず、ボタンは灰色のままだった。一度だけ。少なくとも、その部分は表示と合っていた。
受話器の線を目で追った。壁の金具から天井へ入り、蛍光灯の脇を二本並んで走っている。引き千切れるような細さではない。壊したところで普通の電話に変わるとも思えず、尚匡は手を出さなかった。代わりに壁の説明を携帯で撮った。さっきは荒唐無稽に見えた文章の、一つ一つが急に重くなっていた。
左の電話には、白い光が残っている。
右を避けるには、左を選ぶしかないのか。だが、右の悲鳴を聞かせたのが、左へ誘導するためだったら。自分の声が、初めて知らない誰かの声のように思えた。
若い女が録音を止めた。その指が震えていた。
尚匡は左の前へ移った。
「こっちも、聞くだけです。まだ開けない」
白いシャツの男が押し棒から離れた。皆の靴が、床の粉を引きずる。尚匡は銀色の板へ掌を置いた。
九時三分。
本人照合の文字を確かめ、白いボタンを押した。
「相良です。聞こえますか」
今度の相手は、息を乱していなかった。
『相良?』
まったく同じ声が、困ったように聞き返した。
『知らない。そんな人、ここには』




