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出口の向こうから、俺の悲鳴が聞こえる  作者: 雨宮 弦


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第17話 戻れない救助

 連絡路は途中で狭くなった。

 図では一定の幅に見えたが、後から足したらしい管が壁から出ている。榎坂が肩を斜めにし、友乃葉の足がぶつからない向きへ身体を変えた。尚匡は背後から照らし、友乃葉の顔が管の下を抜けるのを見届けた。

 御厨が角の向こうから、中央側が見えると言った。

 すぐ着けるような言い方だった。しかし、榎坂は一度止まった。片足の置き場を確かめ、友乃葉を背負い直す。友乃葉が腕に力を入れようとすると、動かなくていいと伝えた。

 そのやり取りの間、尚匡と穂奈実も止まっていた。

 十時五十五分。

 退避用の窪みの前まで来た。壁の一部が浅く凹み、そこだけ幅がある。だが、床へ配管の覆いが増設され、座れるほどの奥行きはなかった。図に描かれた場所と、いま休める場所は同じではない。


「ここでは、下ろせない」


 榎坂が言った。

 尚匡は先を照らした。中央側の踊り場は、もう見える。御厨がその手前の段へ上がっていた。そこなら友乃葉を座らせられそうだった。

 穂奈実が後ろの表示を見た。まだ通行可。しかし、水位の目盛りは最初に見た位置より上がっている。彼女が時刻を言い、尚匡は繰り返して前へ伝えた。

 榎坂が頷き、足を動かした。

 尚匡は少し後ろへ退き、戻る場合の幅を確かめた。

 穂奈実が後ろから、止まっている理由を訊いた。尚匡は窪みに設備が増えていて、友乃葉を下ろせないと伝えた。彼女は一歩前へ寄り、自分でも形を見た。


「そこが使えないなら、いったん戻る話でした」


 榎坂が頷いた。それでも、目は前の踊り場へ向いている。


「ここで向きを変えるより、あっちで下ろす。前は、もう見えてる」


 尚匡は乾いた床の端を見た。確かに見えていた。御厨はそこからこちらへ光を向けている。引き返すときの遠さと、見えている目的地の近さが、図の長さよりずっと強く感じられた。

 友乃葉が、下ろせるところならどちらでもいいです、と言った。榎坂はあと少しだと返した。その言葉を聞いて、尚匡も前へ光を向けた。決めた条件を変えたことを、そのとき言葉にできなかった。すれ違えない。榎坂が友乃葉を背負ったまま向きを変えるには、さっきの管のないところまで戻る必要がある。入る前には図で考えられたことが、今は身体の位置を伴っていた。


「いったん、戻りますか」


 尚匡が訊いた。


「下ろしてからだ。あそこなら、受け渡せる」


 榎坂が中央側を指した。声は乱れていない。その落ち着きに、尚匡はまた頼りそうになった。

 十時五十八分になった。

 電話の榎坂は、もう出たと言った。その時刻に、今の榎坂は友乃葉を背負って、まだ連絡路にいる。

 尚匡が口を開きかけたとき、御厨が水位の表示へ顔を寄せた。


「上がっている」


 それだけ言った。

 警告音が鳴った。

 床の隅から水が来た。細い流れが一筋、靴の脇へ伸びる。高い位置の仕切りで、金属のこすれる音がした。下端が動き始めていた。


「戻る!」


 穂奈実が言った。

 尚匡は背後を見た。入口までの床にも水が走っている。閉鎖表示が点滅し、戻り方向の通路が暗く見えた。身体を返すために足を一つ置いたとき、榎坂の声がした。


「先へ。ここなら、二歩だ」


 中央側の踊り場を指している。御厨は既にそこへ立っていた。榎坂が背中の友乃葉を横へずらし、受け取れるかと呼んだ。

 尚匡は二つの方向を見た。穂奈実も中央側の高さを確かめ、先へ行く、と声を変えた。退けと決めた方向を守るために、長い道へ戻るわけにはいかなかった。

 御厨が膝をつき、友乃葉の上半身を受けた。榎坂が腰を落とす。友乃葉が痛む足を床へつこうとしたので、尚匡は足を上げたままでいいと伝えた。御厨の服を掴み、友乃葉が踊り場へ移る。

 尚匡は彼女の身体が安定するまで待った。

 その数秒の間に、水が足首へ来た。

 御厨が友乃葉を引き寄せた。痛む足が段の端へ当たりそうになり、彼女が声を上げる。穂奈実が手提げを奥へ投げるように置き、手を空けた。四人がそれぞれ次にどこを掴むかを探していた。

 尚匡は一度に全員へ指示を出せなかった。友乃葉の足、榎坂の足元、頭上の仕切り。そのどれを見ても、別のものが光の外へ出る。ひとりなら早く通れる、という条件が、いま目の前の何度もの立ち止まりへ分かれていた。

 榎坂が壁の枠へ片手を掛けた。退避用の支えと書かれた短い金具だった。身体を寄せると、尚匡と穂奈実が通る幅ができた。


「二人、先に」


 尚匡は穂奈実を先へ送ろうとした。穂奈実は床の高い側を指し、尚匡が先に上がって友乃葉を受けて、と言った。尚匡は踊り場へ片足を上げ、手をつく。掌の傷が痛んだが、今はそれに構っていられなかった。

 友乃葉をもう少し奥へ寄せ、御厨と場所を替わった。穂奈実が続いて上がる。尚匡は榎坂を振り返った。

 彼はまだ枠の脇にいた。


「支えないで、出てください!」


 尚匡が言った。榎坂は頷き、足を抜こうとした。短い支えに掛けた手を離しかけたところで、金属が曲がった。

 水の力で身体が壁へ寄った。榎坂が空いた手で枠を掴む。足を戻して踏ん張ろうとしたが、靴が滑った。肩と胸が枠へ押し戻され、仕切りの動く隙間で止まった。

 尚匡は腕を掴んだ。

 穂奈実も隣から榎坂の服を掴む。引いた。動かない。

 御厨が踊り場の端へ寄ろうとした。尚匡は友乃葉を見ていてほしいと叫んだ。ここへ全員が集まれば、足場まで塞がる。御厨は止まり、友乃葉の肩を支え直した。

 友乃葉が御厨へ、外に電話を、と頼んだ。御厨は自分の携帯を出した。画面に緊急通報の数字が並ぶ。電波は戻っていない。それでも押して、繋がらない表示を見て、もう一度押した。尚匡はそれを止めなかった。自分も腕を引くこと以外、今すぐできるものを持っていなかった。尚匡は足の位置を変え、もう一度引いた。榎坂が顔を歪め、首を振った。


「待って、いま」


 尚匡は言った。何を待つのか、自分でも分かっていなかった。別の角度なら外れるかもしれない。それなら試す。今、掴めている腕を離すことはできなかった。

 榎坂が低く息を吐いた。


「俺は、出たって」


 電話の返事を確かめるような声だった。

 尚匡は、その言葉へ違うと言えなかった。向こうの榎坂は出た。後ろを見ていないと言った。今の榎坂は友乃葉を運び、後ろを見て、尚匡と穂奈実を通した。その違いが、掴んだ腕の向こうにあった。

 十一時二分。

 榎坂の指から力が抜けた。

 尚匡は名を呼び、引き続けた。隣で穂奈実も呼んだ。返事はなかった。水が踊り場の端へ当たり、二人の靴を濡らす。尚匡は枠を見上げた。どこかを動かせば身体が外れるのではないかと、目で追った。

 曲がった支えは、こちらから押し戻せる位置にはない。重い仕切りの機構へ手を入れれば、自分も引き込まれる。分かった。それでも掴んだ腕を離せなかった。

 友乃葉が後ろで、相良さん、と呼んだ。

 尚匡は振り返らなかった。

 穂奈実が彼の腕へ触れた。引き剥がすのではなく、掴んでいる場所を指で一度押さえた。それから友乃葉のいるほうを示す。

 尚匡は最後に、もう一度榎坂の名を呼んだ。

 答えはなかった。

 自分の指を一本ずつ外した。榎坂の腕を放す。軽くなるはずの手は、何も掴んでいないほうが重かった。

 四人で中央側へ退いた。友乃葉を乾いた壁際へ座らせ、穂奈実が隣にしゃがむ。御厨は戻る通路を見ていた。尚匡は自分の手を見た。濡れた指に、掴んでいた布の感触が残っている。

 携帯を出そうとすると、指が滑った。穂奈実が布を差し出した。尚匡は借りて拭き、友乃葉の携帯を返した。

 彼女は榎坂の名を消さなかった。その横へ、十一時二分、連絡路、と書く。

 尚匡は自分の名も、その下にあるのを見た。

 返事のできる者が、四人になっていた。

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