第16話 助けた結果
友乃葉が滑ったのは、低い段を下りたときだった。
試料観察室の先の通路が、中央側へ向かって一段下がっていた。段の端は見えていた。穂奈実が先に降り、光を向け、友乃葉も足を置く場所を見ていた。
それでも、靴底が横へ流れた。
穂奈実が友乃葉の腕を取った。身体が床へ倒れるのは防げたが、残った足が段の角で捻れた。友乃葉は小さく声を上げ、その場にしゃがみ込んだ。
尚匡は立ち止まり、まず後ろの御厨を止めた。通れる幅があるからといって、誰もが周りへ集まると光を塞ぐ。榎坂が友乃葉の前へ膝をつき、どちらが痛むか訊いた。
「足首。大丈夫、立てます」
友乃葉は壁に手をつき、身体を持ち上げた。すぐに顔が歪んだ。
「歩けるかと、歩かせていいかは別だ」
榎坂が言い、腰を下ろしてもらった。
尚匡は床を照らした。水が流れているわけではない。段の下に、濡れた足形が薄く残っていた。排水槽を渡り、防水扉の下を抜けてきた靴の水と泥を、五人とも持ち込んでいる。
危ない段が突然現れたのではなかった。
尚匡は自分の靴底を見た。さっき確かめたつもりだったが、溝の奥には泥が残っていた。拭いたところだけ乾いている。電話に、次にどの足が滑るか訊く前に、見続ける必要のあるものだった。
榎坂は友乃葉に、無理に足を動かしてみせなくていいと言った。穂奈実が手提げを預かり、床の乾いたところへ置く。友乃葉は申し訳ないと二度言い、三度目は声にせず口を閉じた。
「荷物、持つから」
穂奈実はそれだけ答えた。
友乃葉は預けた手提げを見ていた。排水槽で出した座布団は、もう中にない。役立ったものを一つ置き、今度は自分が運ばれる側になる。その変化を気にしているようにも見えたが、尚匡には口にできなかった。
榎坂は痛む足へ無理に体重を掛けさせず、座って待つ位置を決めた。自分たちに診断ができるわけではないと言い、ひどくならないことを確かめながら進むしかない、と続けた。
「いま判断できることだけで、決めよう」
その言葉は友乃葉だけでなく、尚匡にも向いていた。助けられなかったことを抱えたままでも、次の一人の扱いは決めなければならなかった。
御厨は廊下の先を見ていた。尚匡は彼へ、通れる幅を見てほしいと頼んだ。時間を気にするだけの場所に立っていられると、自分も急がなければならない気がする。具体的に手を動かしてもらいたかった。
中央へは、ここからまた道が分かれていた。
広い外周路は段が多い。狭い連絡路は平らな区間が長く、図の上では中央の外縁へ近かった。ただし、水圧で動く仕切りが途中にある。戻り方向の閉鎖表示とも連動していた。
尚匡は先ほど撮った通行可の文字を見た。写真を撮ったときは通れた。今もそうだと確かめなければ、ただの過去の表示になる。
穂奈実が角まで見に行き、戻ってきた。まだ通行可。閉鎖中の灯りは点いていない。尚匡はその時刻も友乃葉の代わりに書いた。
友乃葉は自分の携帯を出した。
「私、書けます」
「足のことを優先してください」
「書くのは、座ってできるから」
尚匡は少し迷い、今の時刻を伝えた。友乃葉の指が動くと、いつもの記録の画面が戻った。
榎坂が連絡路の電話へ立った。
「どこまで通れるか聞く。運ぶときに止まれる場所も」
尚匡は頷いた。白いボタンがある。こちら側の人数は五人。友乃葉の足は、電話を使う前に痛んでいる。向こうがそのことを知っているかも確かめる必要があった。
十時四十八分。
榎坂が発信した。
「出られたか」
『出た。連絡路は通れる。長く止まるな』
「三戸部さんを連れてるか。足を痛めた」
『後ろは、見てない。俺は出た。今、戻れば――』
「途中で止まれるところは」
低い音が言葉を覆った。榎坂が聞き返す。向こうで足音がし、次の返事が来る前に三十秒が尽きた。
榎坂は受話器を置き、友乃葉を見た。
「担いで行けば速い。俺はこの道を抜けてる」
尚匡は口を開いた。
「抜けたのは、電話の向こうのあなたです。ほかの人は見てないと」
「だから、俺が見る」
返答は速かった。
尚匡は目を逸らさなかった。榎坂が間違っていると決めることもできない。彼が友乃葉を運ぶつもりでいることは、置いて来いと言った自分の声とは違う。その違いを、安全の証拠へ変えてはいけなかった。
「途中で止まるなとも言われました。受け渡す幅は、ありますか」
榎坂が図を開いた。途中に退避用の窪みが一つ、中央側に踊り場がある。尚匡は窓から見える最初の部分と照らした。窪みは図にあるが、今も使えるかは分からない。終わりの踊り場までは、こちらから見通せなかった。
友乃葉が顔を上げた。
「私、置いていかれないために、通れるって言ってほしくないです」
尚匡は言葉を失った。友乃葉は榎坂も見ていた。
「歩けるって、さっき言ったけど。途中で歩けなくなったら、ここより困ると思うから」
榎坂は友乃葉の足を見た。少し待ち、分かった、と答えた。
「背負う。足で支えてもらうのを当てにしない。止まる場所まで無理なら、そこで退く」
榎坂は友乃葉を背負う前に、持ち物の分担を確認した。電話の録音が入った携帯は尚匡へ預けることにし、友乃葉の手提げは穂奈実が持つ。御厨には先で受け取る場所の高さを見ておくよう頼む。自分が運べるという一言だけで済ませようとはしていなかった。
だから尚匡は、反対する言葉を見つけにくかった。計画がある。運ぶ経験もある。その二つがあることと、目の前の道が計画を許すことを、分けて考えなければならない。
尚匡は地図を指して、退避の窪みが使えなかったら、と訊いた。
「そこまでで、もう一度決める」
榎坂が答えた。尚匡は了解した。無理なら退くという言葉を、曖昧な励ましではなく、次に確認する場所へ繋げたかった。
穂奈実が図へ指を置いた。
「水位と閉鎖の表示を見て、戻れるところまで。閉まるときに人で支えないで」
「分かってる」
榎坂は頷いた。
尚匡はその返事を聞いても、まだ足場の幅を見ていた。笹倉も安全のための扉だと言った。その笹倉を助けられなかった榎坂は、今度こそ先へ運ぼうとしている。そこには尚匡自身も逆らいにくい願いがあった。
榎坂は紙の地図を畳み、友乃葉へ預けた。友乃葉は上着のポケットへ入れてから、背中へ乗る位置を確かめた。
背中へ乗る前に、友乃葉は携帯を尚匡へ渡した。自分で持って落とすより、こちらのほうがよいと言った。尚匡は録音を止め、記録が保存されているのを確かめてからポケットへ入れた。
榎坂が友乃葉を背負って立つ。穂奈実が手提げと自分の鞄を別々に持った。御厨は先へ出て、表示を読む役になった。
「変わったら、色だけじゃなく、文字も言ってください」
御厨は表示器を見上げ、今は通行可だと読んだ。下の小さな目盛りも読んでほしいと言うと、しばらく目を近づけ、まだ範囲内です、と答えた。
「どの範囲か、分かりますか」
「警告線より下、という意味です」
尚匡はそれを自分でも見た。線より下に光がある。ただ、上がる速さも、線を越えてから何秒で閉まるかも、まだ知らない。後で御厨に訊こうと思いかけ、今訊かなければ手遅れになると考え直した。御厨も、そこまでは読めないと答えた。
尚匡は穂奈実へそのまま伝えた。分からない部分を御厨の落ち着いた声で埋めるつもりはなかった。
連絡路の入口を開けた。前半の床は乾いている。歩く幅は一人分で、横へ並んで支えることはできない。尚匡は榎坂の背中の高さと、天井から出た管の位置を見た。友乃葉の頭が当たらないよう、近づいたら声を掛けることにした。
御厨、榎坂と友乃葉、尚匡、穂奈実。
五人で入った。
友乃葉の靴は、榎坂の腰の脇で宙に浮いていた。その位置が分かるよう、尚匡は光を足元だけへ落とさずに持った。自分の右手で受けられる重さには限りがある。支えるつもりの手を出すなら、どこで役に立てるのかを考えながら歩いた。
背後で穂奈実が、入口はまだ通れる、と言った。
尚匡は短く返事をした。どの未来が正しいかではなく、今の五人がどこまで進んだかを、一つずつ互いに伝えていた。




