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優等生は、電車を降りてからずっと黙ったまま、俺の手を引いて早足で自分の家に向かっていた。
「おい、引っ張らなくても付いて行くから……。お、おいって」
「……」
俺はもともと無口だから沈黙には慣れているが、さすがにこの状況は落ち着かない。
今、優等生はどんな表情をしているのだろうか?
怒っているのか、悲しんでいるのか、後ろをついていく俺にはそれすらわからない。
「……」
「……」
ただ靴音だけが並んで響く。
やがて住宅街に入り、ひときわ大きな家の前で優等生が足を止めた。
で、でけぇ……。
なんというか、簡潔に言うとおしゃれででけぇ家だ。
昔ながらの三角屋根ではなく、立方体が幾つも重なったようなモダンなデザインの豪邸で、外壁は白とグレーのコントラストで、無駄がなく、それでいて存在感がある。
それに、天井まで届きそうな大きな窓が塀の外からでも見えた。
「まさか、ここが家か?」
「……」
やっぱり喋らない。
門の前で優等生がなにかをかざすと、機械音とともに門扉が開いた。
玄関扉では電子ロックに数字を入力し、人差し指を指紋認証の機械にあてると、ピッと扉が音を鳴らした。
そのまま、優等生に手を引かれて家の中へ入った。
「お、お邪魔します……」
す、すげぇ……。とんでもねーな、コイツの家。
広い玄関で靴を脱ぎ、手を引かれたまま洗面所に連れていかれた。
若干顔を伏せがちな優等生は、俺に向かって鏡越しに静かに口を開く。
「左腕を見せてください」
ようやく口を開いたと思えば、普段より声は低く、少し震えていた。
優等生に言われるまま腕を出すと、皮膚にこびりついた血を洗い流してくれる。
幸い傷は深くないようだ。だが、思った以上に長く傷が走っていた。
固まった血がはがれ、再び赤がにじみ出てくる。
優等生は俺の腕が痛まないよう、優しく、繊細に洗ってくれた。
腕を洗い終わると、ふわふわのタオルで水気をそっとふき取ってくれる。
その高そうなタオルが、じわりと傷口から流れる血も吸い取り、赤く染まっていく。
それからまた手を引かれ、リビングへ。
広いリビング、高い天井、デカいテレビ、おしゃれなテーブル、座り心地のよさそうなソファ、よくわからないが高価そうな絵画が壁に掛けられていて、ザ、金持ちの家って感じだ。
「ホントすげぇな」
「……座ってください」
やはり、いつもより元気のない優等生がふかふかの本革ソファを指さす。
「あ、はい……」
優等生はどこかに行ったかと思いきや、すぐ戻ってきた。
救急箱を取りに行っていたみたいだ。
俺の隣に座り、黙ったまま消毒液やガーゼを取り出す。
なんのためらいもなく、まだ血がにじみ出ている俺の腕を自分に寄せて、手当てを始めてくれた。
シュッ、と消毒液の冷たい感触が、じわりと傷に滲みる。
「……どうして」
「?」
「どうして、あんなことをしたんですか?」
低く、押し殺した声。
「あんなこと?」
「ナイフを持っている相手に立ち向かったことです……」
んなこと言われてもな……。
「守るためだ」
短く答える。
「……」
優等生はなにも言わずに包帯を巻き始めた。
細くきれいな指先が過剰なほどにぐるぐると包帯を重ねていく。
広いリビングに響くのは、布のこすれる音だけ。
「ありがとな」
「……」
手当てをしてくれた腕を引こうとするが、俯いた優等生に両手で掴まれ、腕を放してくれない。
「?」
優等生の顔を覗き込もうとした瞬間、ぽたりと左腕の包帯に一滴の水滴が落ち、すぐさま包帯に吸収される。
「……っ、…うぅ…………」
優等生の手がかすかに震えているのが腕に伝わる。
!? 泣いているのか?
そう思った瞬間、優等生は堰を切ったように大粒の涙を流し始めた。
その涙が包帯を濡らし、白い布に赤がじわりと滲んでいく。
「そんなに怖かったのか? 大丈夫だ、あの男はもう――」
「違いますっ!!」
今までの沈黙が嘘だったかのように、優等生が声を張り上げる。
「っ…うぅ……。わ、わたしのっ、私のせいで……」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、それでも必死に言葉を絞り出す。
「……陰浦さんが……危険な目に遭って、それで、それで……」
嗚咽が混じり、震える声で続けた。
「グスッ……こんな怪我までさせてしまって……。っ、ぅ、うわーん……」
「……」
普段大人びた口調の優等生が子供みたいに泣きじゃくりながら、俺の肩に顔を埋めた。
俺のシャツがじわりと濡れていく。
* * *
「泣き止んだか?」
どのくらい時間が経っただろうか? 黙ってハンカチ代わりになっていた俺は、肩の震えが収まってきた優等生に声をかけた。
「……」
「悪いけど、泣き止んだのなら腕を放してくれないか? ちょっと痺れてきた……」
涙の跡を残したまま、優等生は俺の左腕にぎゅっと抱き着いていた。
普段、岳に抱き着かれても痺れたことはない。だが、今回は違う。
泣いている優等生の抱き着く両腕に力が入ることはわかる。
わかるのだが、問題は両腕ではない。俺の腕を挟んでいる、優等生のとある大きな「もの」だ。
優等生の体と両腕、「もの」によって俺の腕全体が圧迫され、もうほとんど感覚がない。
普通の男子高校生なら、柔らかいとか、デカいとか、邪なことを考えてしまうのだろう。
だが、痺れきってしまっている俺の腕には、そんな感触が全く伝わってこない。
「なぁ、離してくれないか?」
「……嫌です」
ぎゅう、とさらに締め付けられる。
痛い痛い痛い……。
なんなら、姉貴の蹴りによる一瞬の痛みより、じわじわとくるこっちの痛みの方が地味に効く。
「頼む……限界だ」
「じゃあ、私のお願い、聞いてくれますか?」
今すぐこの痛みから解放されるなら、なんでもいい……。
「なんだ?」
「私のこと、名前で呼んでください」
肩に顔を埋めたまま、美緑がこもった声で言った。
「は?」
「さっき、電車で私のことを美緑って呼んでくれたじゃないですか」
「いや、まぁ、そうだが……」
「もう、さすがに覚えてもらえたんですよね?」
「そりゃ、あの電車男が名前を連呼するからな」
「じゃあ、呼んでください。でないと、離さないです」
そう言って、優等生は俺の腕をより締め付けた。
いてててて……。マジで痛い。
「……美緑。これでいいか?」
「はい!」
目尻に涙を溜めたまま笑う。その笑顔がやたら眩しい。
「それじゃあ、離してくれるか?」
「もう一つ……お願いを聞いてくれますか?」
言いにくそうに上目遣いで懇願してくる。
「はぁ……今度はなんだ?」
「頭を撫でてください」
「は?」
またもや美緑がなにを言っているのかわからず聞き返した。
「なんでもお願いを聞いてくれるのですよね?」
「いや、なんでもとは言っていないぞ」
「いいじゃないですか。黄倉先輩だけズルいです」
以前、頭を撫でた猫先輩に対して羨ましがる。
「この前言ってたじゃねーか。女って気軽に頭を触られたくな――」
「いいですよ、触って」
不意に左腕が解放され、代わりに右手を美緑の両手に包まれた。
「私、陰浦さんになら、触られてもいいです。それに……」
ほんの数秒の沈黙。
美緑はいたずらっ子っぽい笑みを浮かべた。
耳元に顔を寄せられ、微かな吐息がかかる。
「私、陰浦さんのこと、結構……好きですよ」
顔を真っ赤にしてなにを言ってんだ?
……だけど、少し、ほんの少しだけ、不覚にもドキッとさせられてしまった。
美緑は俺の膝にそっと頭を預けてくる。
仕方なく美緑の頭を撫でた。
美緑のサラサラで艶のある髪が俺の掌をくすぐり、撫でるたびにふわりといい香りが漂った。
気づけば、美緑の顔を自然と認識できるようになっていた。
「本当だ。なんだか、陰浦さんに頭を撫でられると……安心、しま……す…………」
その言葉の最後はかすれていた。
ゆっくりと瞼が閉まり、呼吸が静かに整っていく。
泣き疲れたのか、あるいは、ようやく安心できたのか。
美緑は穏やかな寝息を立て始めた。
美緑の寝顔を眺めながら、張り詰めていた緊張が自然とほどけていく。
そして、俺も次第に意識が霞んでいった。




