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「ふぅ……。案外、空手も役に立つもんだな」
俺は深く息を吐き、全身の力を抜いた。
床に転がる電車男を見下ろし、落ちていたナイフを拾い上げ、誰も座っていない座席に置いた。
そして、呆然と立ち尽くす優等生のもとへ戻った。
「大丈夫だったか? 怪我はないか?」
「……は、はい。大丈夫です」
呆然としていた優等生が遅れて返事した。
「悪いな、避ける時、ちょっと乱暴に押したり引っ張ったりしてしまって」
「いえ、それも大丈夫です」
ほっとした瞬間、左腕に少し違和感を覚えたが、今は気のせいだろうと流す。
「そうか、怪我がなくてよかった」
俺は気絶している電車男を見たあと、優等生へ視線を戻した。
「それはそうと、次の駅であのオッサンを駅員に突き出さなきゃいけねーから、悪いけど、一人で帰れるか?」
「え……? あ、はい……。わかりました……」
優等生は少し心細そうな顔をするが、了承してくれた。
まぁ、危険な目に遭ってすぐに一人で帰るのは不安だろうな。
一緒に来てもいいけど、あの電車男の顔なんて見たくないだろうしな。
「それは、私に任せてもらえるかしら?」
人ごみの中から、鋭くよく通る女性の声が飛んできた。
人ごみの中からパンツスーツを着こなした美女が現れ、その後ろに、二人組の女子高生がついてくる。
「え、お母さん!?」
「は? お母さん?」
優等生が美女を見るや声を上げて驚き、優等生の発した言葉に俺が驚く。
母親? 嘘だろ? 姉じゃなくて?
と、ありきたりな反応をしてしまうほどに、優等生の母親は若くて美人だった。
優等生が大人になったら、こんな美女になるんだろうなと思うくらい似ている。
年齢不詳の美貌と、落ち着いた立ち居振る舞い。
その存在感だけで、場の空気が一変した。
「ごめんね、美緑。すぐに助けてあげられなくて……」
「ううん、大丈夫。陰浦さんが助けてくれたから……」
優等生とその母親は、互いに強く抱きしめ合った。
どうやら、親子というのは間違いないらしい。
「それで、あなたが陰浦くんね?」
「はい」
「陰浦くん。美緑を助けてくれてありがとうございます」
優等生の母親は、美しい所作で深々と頭を下げてくる。
「いえ、たまたまです。それより、任せてくれとはどういうことですか?」
「あぁ、それはね。あのゴミくず変態ストーカーを、駅員ないし、警察に私が突き出すから、あなたは美緑と一緒に帰ってもらっていい?」
優等生の母親は、電車男のことをボロクソにけなし、ゴミを見るような冷たい視線を向けて指差した。
「いや、それなら母親のあなたが、娘さんと一緒に帰った方がよくないですか? 当事者の自分が一番事情を知っていますし、気絶しているあの電車男を運ぶのは大変ですよね?」
「確かにそうだけれど、想像してみて? 申し訳ないけど、見た目がちょっと不良っぽい男子高校生のあなたが、アレを引きずって連れて行く姿を……。はたから見れば、駅で堂々とおやじ狩りをしている不良って思われるわよ?」
俺はもっともな意見を口にするが、優等生母は冷静に、しかし的確に俺へ返してきた。
「ちょっとお母さん、陰浦さんに失礼でしょ!!」
「確かに……。実際に狩ったわけだしな……」
「陰浦さんも否定して下さい!」
遠慮なくド直球でいろいろ言われたが、容易に想像できたので反論できなかった。
「それに引き換え、私は社会人で女……。はたから見れば痴漢を捕まえたように見える。しかも美人!!」
最後だけやたら強調して言ったなこの人。
確かにめっちゃ美人なのだが、自分で言うか?
「ま、それだけじゃないんだけどね。この女子高生ちゃんたちが、さっきの一部始終を撮っていたみたいで、その映像を私のスマホに転送してもらったの」
優等生母は、スマホ画面をこちらに見せて動画を流した。
動画には俺が電車男を蹴り倒す映像が流れていた。
あー、これは……確かにおやじ狩りだわ……。
はたから見ればこうなっていたのか……。
「それに……」
優等生母は持っているごつめのバッグから、金属質の小物を取り出し、スーツの胸元にピンでとめた。
「私、こう見えて弁護士なの」
光を受けてきらりと輝くそれは、弁護士バッジだった。
それを見やすく俺たちに見せつけてくる。
「なるほど、それなら任せた方がよさそうですね」
「そういうこと。あぁ、それと、あなたたち……」
「「は、はい」」
優等生母は女子高生たちの方を向いた。
「いい? 君たち。この映像をネットに上げたり、他の人たちに転送したりするのは絶対にやめてね? でないと、あなたたちと今度会う場所は裁判所になるから……ね?」
優等生母は女子高生たちに笑顔を向ける。だが、その目は笑っておらず、むしろ冷たかった。
その笑顔に凍り付いた女子高生たちは、必死に何度も頷いた。
優等生はよほど怖かったのか、いまだに子コアラのように、一方的に母親に抱き着いていた。
優等生の耳元に母親が顔を近づける。
「ほら、美緑。陰浦くんと先に帰って、腕を手当てしてあげて」
「……え?」
優等生の視線は自然と俺の左腕に移る。
俺も左腕へ目を落とす。いつの間にか切られていた。
流れ続ける血が制服を真っ赤に染めていた。
血で張り付いた袖を見て、優等生の目が見開かれた。
ゴリラに知られたら「まだまだね。明」と鼻で笑われてしまうだろうな。
「いや別にいいですよ。この程度なら自分で手当てできるんで」
「あら、まさかとは思うけど、さっき怖い目に遭った美緑を一人で家へ帰すつもり?」
優等生母は眉を寄せた。
確かに、母親にしがみついている優等生はまだ震えている。
「……」
「美緑を助けてくれて本当にありがたいのだけれど、ご覧の通り、この娘はまだ怖がっているから、家まで送ってくれない?」
「……わかりました。確かに、一人で帰したりなんかすれば、姉貴たちに、今度こそ殺されるかもしれないんで送っていきます」
「そう、よかった。それじゃあ、娘をよろしくお願いします」
優等生母はもう一度深々と頭を下げた。
次の停車駅で、優等生母と数人の乗客たちが降り、電車男を外へ運び出して行った。
優等生母に言い負かされた俺は、結局、優等生を家まで送ることとなった。




