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ナイフを取り出したストーカー男が振りかぶった瞬間、明はいち早くそれを察知し、美緑を抱き寄せて距離を取った。
「きゃっ……!?」
その勢いで美緑のスクールバッグが宙を舞い、床に落ちた。
「「「「「……キャーー」」」」」
巻き込まれたくはない。だが、明たちの様子は気になっていた乗客たちは、数瞬遅れて悲鳴をあげた。
ストーカー男から離れようと、我先に車両の両端へ逃げ、身を寄せ合う。
「はぁ、はぁ。……あっぶねぇー。おい、大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫です……。陰浦さんは?」
咄嗟に明に守られた美緑は、明から離れて自分の体に怪我がないか確かめて答えた。
「俺は大丈夫」
「フーッ、フーッ……。おいっ!! 僕の美緑ちゃんから離れろ!! 美緑ちゃんは僕のものだ!!」
ストーカー男は刃物を人に向けたことがないのか、ナイフを構える手が目に見えるほど震えていた。
「はぁ……。悪いなおっさん。さっきも言ったが、コイツ……えー……」
「……陰浦さん……?」
一瞬、美緑に胡乱な目で見られた明は、少し離れていた美緑の腰に手をまわしてもう一度抱き寄せた。
「えっ――!?」
「……美緑は俺のものだ。だから二度と近寄るな! この変態ストーカー」
「こ、このクソガキッ、死ねぇぇ!!」
ストーカー男は明に駆け寄り、明の肩から腰めがけて切りつける。
だが、明はストーカー男の手を払っていなした。
手を払われたストーカー男は、体勢を崩したまま真横にナイフを振り切る。
「きゃっ……」
明は美緑を後方へ押し、自らも後ろへ下がって躱す。
「クッ……」
ストーカー男は何度も明に向かって切り付けるが、明はそのすべてを避け、躱し、いなす。
「クソッ、なんで当たらないんだっ!? チッ、死ねぇ!!」
自棄になったストーカー男は明の心臓めがけ両手でナイフを突き出す。
だが、明はその手首を掴み、軌道をずらしつつ、美緑を庇うように半身になって躱した。
そして、がら空きになったストーカー男の顔面を、あらん限りの力で殴りつけた。
「ブフッ……!?」
ストーカー男は痛みに顔を歪めて数歩よろめき、手からナイフを取り落とした。
明は好機とばかりに、ナイフへ踏み出した。
だが、ナイフはストーカー男の後方へ落ちていた。
(チッ……)
ナイフがストーカー男の後方へ落ちたことに、明は内心舌打ちする一方、ストーカー男は鼻を押さえながら慌ててナイフを拾い、もう一度構えた。
「なぁ、そろそろ諦めたらどうだ?」
仕切り直しとなってしまった今、もう一度、明が説得を試みる。
「うっ、うるさいっ!」
ストーカー男は鼻を押さえていた手を勢いよく振った。
すると、ストーカー男の足元に血が飛び散った。
どうやら、明の強烈な一撃で、ストーカー男の鼻が折れて出血してしまったようだ。
「今なら、俺たちもなにもなかったことにするから……だから――」
「うるさいっ! うるさいうるさいうるさい!! 全部お前が悪いんだ! お前みたいな奴が……!」
ストーカー男は明へ怒りをぶつけるように、言いがかりを並べた。
「今までまじめに働いてきたのに! お前みたいな奴に失敗を押し付けられて、会社をクビにされ、その上、財布を落として絶望してたところに、天使が――美緑ちゃんが現れたんだ!!」
ストーカー男は独白し始めた。
「それなのに……それなのにっ!! 僕の一番嫌いなタイプのお前が、美緑ちゃんの彼氏だとぉ!? ふざけるな!! 美緑ちゃんは僕のものだ!!」
明はため息を吐く。
「その同僚のせいで会社をクビになったことには同情するが、他はお前の言いがかりだろ? 俺、関係ねーじゃん」
明の率直な感想に、ストーカー男が叫んだ。
「うるさい!! 全部お前が悪いんだ!」
(ダメだ。頭に血が上り過ぎて話が通じない)
「諦める気はないのか?」
明はストーカー男に最終確認を取った。
「当たり前だろ! お前を殺して、美緑ちゃんは僕と一緒になるんだ!!」
「そうか……」
そこで、ふと五年前の記憶という名のトラウマを思い出した。
□ □ □
「明。もし、手ぶらの状態で、凶器を持った相手に遭遇した時はどうしたらいいと思う?」
明は通っていた空手の道場で、姉の沙織といつも組手をさせられていた。
「そんなもん、相手の攻撃をくらわないようにボコればいいんじゃないのか?」
急な質問に明は適当に答える。
「ハズレ」
「うっ……いってーな」
望む答えとは違う答えを返すと、沙織の問答無用の蹴り技が襲い掛かった。
同じ道場の屈強な男たちを何人も沈めてきた蹴りを両腕で防ぐが、沙織の蹴りの威力の前では、ガードなど無意味だった。
「悪くはないけど、最善ではないわね」
「じゃあ、どうすればいいんだよ?」
「簡単よ。相手を一撃で再起不能にすればいいのよ」
「結局ボコるんじゃねーか」
明が腕をさすりながら反論した。
「なに言ってんの? ボコるのと一発で相手を沈めるのでは全く違うわよ」
「そりゃ、それが出来たら一番いいけど、具体的には?」
「まぁ、見てなさい……」
沙織が実際に技を披露しようとした。
「お、おい、待――」
「フッ……!」
明は沙織の攻撃から逃れようとするが、すでに遅かった。
沙織は明の構えていた手を蹴り、そのまま半回転したのち、流れで跳び上がる。
威力を乗せた回し蹴りが、明の顎をかすめた。
沙織がやった技は回転跳び回し蹴りだった。
「チッ、避けるな、明」
「あっぶねー……。避けなきゃ死ぬだろ!」
「死にはしないわよ、たぶん……。でも分かった? まず、相手の手首を蹴って凶器を落とさせるのよ。そして、動揺している相手の顎を蹴り砕いて脳を揺らす。これで相手は再起不能。ね、簡単でしょ?」
「簡単じゃねーよ。そんな都合よく顎を狙えるか」
「それじゃあ、今からその練習ね。顎以外の場所を蹴るごとに、私が蹴りをお見舞いするから覚悟しておいてね」
その後、明は繰り返し練習をさせられ、そのたびに沙織の蹴りで気絶をさせられた。
□ □ □
(はぁ……嫌なことを思い出してしまった。だけど、これしかないか……)
明はいつもの気怠そうな雰囲気からガラッと変わり、ストーカー男を鋭く睨みつけた。
「人を殺そうとしたんだ、死んでも文句言うなよ?」
「ひ、ヒィィ……」
ストーカー男は、まるで蛇に睨まれた蛙のように体を硬直させた。
「陰浦さん……」
明が一歩踏み出そうとした瞬間、その裾を美緑が心配そうに力なく掴んだ。
引き留められた明は安心させようと微笑む。
「大丈夫だ」
一言告げ、裾を掴む美緑の手にそっと触れる。すると、美緑は不安そうに手を離した。
そして、明はもう一度歩き始めた。
「く、来るな!」
明が再び動き出したことで、硬直が解けたストーカー男は、近寄らせまいとナイフを振り回した。
だが、明は構わず一歩、また一歩と距離を詰める。
そして――最後の一歩を強く踏み込んだ。
ダァン!!
踏み込みと同時に、車両内へ鈍い衝撃音と振動が走る。
成り行きを見守っていた乗客たちや美緑は、思わず肩を震わせた。
まして真正面で対峙するストーカー男が平静でいられるはずもない。
背筋をこわばらせ、振り回していた手が止まり、思わず半歩後ずさった。
その一瞬の隙を、明は見逃さなかった。
踏み込んだ左足を軸に体をひねると、右足を鋭く振り抜く。
狙いはただ一点――ナイフを握る手首。
「いっ……」
手首を蹴り抜かれた衝撃で、ナイフが乾いた音を立てて床へ落ちた。
だが、明は止まらない。
回転の勢いをそのまま乗せて跳び上がり、威力を乗せた回し蹴りをストーカー男の顎へ叩き込んだ。
「ふっ……」
蹴りは寸分違わず、顎先を捉えた。
「うっ……」
ストーカー男の焦点が揺らぐ。
足が二、三歩もつれる。
やがて膝から崩れ落ち、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。
車両内を重い沈黙が包む。
明はゆっくりと息を吐き、力んでいた全身の筋肉を弛緩させた。
そして倒れた男を一瞥した。
その瞳には、怒りも興奮もなく、ただ静かな冷たさだけが残っていた。




