下車後の車内
「母さん」
一人分の荷物を手に母さんの隣へ座る。
「あなたの席は後ろの車両でしょう」
「車掌さんに変更してもらったよ」
あら、そんなことができるの? と驚いているが、高齢の母の隣の席が空いているのなら移動したいと申し出たことは口にしない。
「あなた達夫婦も心配性ね。
お家に泊めてくれて朝に駅まで送ってくれるだけでも十分過ぎるぐらいだったのよ?
それに、まだしっかりしてますから、一人で博多まで行けますよ。
荷物だって先に送ってあるのだから。あなたが付き添わなくても本当に大丈夫だというのに」
駅でのことを忘れたかのような口ぶりに内心苦笑いして頷く。
母さんの切符は妹が前もって手配したものだ。
俺の分は後から手配することになったため、乗車前に並んで座れるように座席を変更しようとしたのだが、あいにく隣り合って空いている席がなかった。
「母さんがしっかりしているのは知ってるって。
それだけ、俺たち夫婦は感謝してるんだよ母さんに」
「そんな感謝されるようなことはした覚えはないわよ」
そう言って小首を傾げる仕草は、本当に心当たりがないようだ。
「長男なのに家を継がないで良いと言ってくれただろう。子供も長くできなかったけど何も言わないでいてくれたし」
「長男だから家を継ぎなさいだなんて言わないわよ。
私の父は母と一緒になるために家を飛び出して、連れ戻されても逃げ出して母のところへ帰って実家との縁を切ったのだもの。
昔のことを話す父は、とても寂しそうだったの覚えているのよ。
親を捨てて、妹を捨てて、幼馴染みの親友も捨ててきたって。
だからね、縁を切るくらいなら、縁を繋いだまま自由に生きてほしいわ」
母さんが思い出したように語る、いつもの昔話だ。
「子供のことだって、授かりものでしょう。
周りがあれこれ言って授かるものではないもの。
それこそ夫婦の問題なのだから改めて口にする必要なんてないでしょうに。
家のことだって、どうしても継がなきゃいけないような家でもないもの」
けらけらと笑う母さんは本気でそう思っているのだろう。
「母さん」
俺が呼びかけた声が少し咎めるような声音になってしまったのか、困ったような笑みを浮かべてから、母さんは笑うのを納める。
「あのね? 田んぼだ、畑だ、お墓だってあるから、管理するという意味では継いでくれると嬉しいし助かるわ。そのほうが楽だし確実ですもの。
老いれば一緒に住んでくれるなら心強いわ。
でも、それは私の理由だもの。子供に孫に強制するものではないわよ」
「―― には言うなよ」
弟が、一人実家に残る母を想って、家に戻ったことを知っている兄としては複雑だ。
「あら、同居するって言ってきたときに伝えたわよ。向こうにもメリットがあったから同居は私だって納得したのだもの」
悪気があるのかないのか、ときどき母さんの言動がわからなくなる。
狙ってやっているのか、そうでないのか。
そんな母さんの大ファンだというのが嫁さんとその親友だ。
結婚して数年たった頃、訪ねてきたときに、嫁さんの親友の夫婦を紹介する流れになったことがあった。
確か母さんが嫁さんの親友に会ってみたいわという言葉から始まった気がする。
家に招いてお茶をしていたところ、せっかくだから女性同士で嫁さんの親友の義母も呼んで、一緒に外でお食事しましょうと母さんが言い出した。
決めたら行動は早い。電話をつないでもらうと、嫁さんの親友の義母とご機嫌に話をして、このあとの食事の約束を取り付けていたが終始目が笑っていなかったのをしっかりと覚えている。
連れてきていた子供は、父親なんだからお世話できるわよねと、嫁さんの親友の旦那に有無を言わせず頷かせていた。
旦那同士は顔を見合わせ震え上がった。親友の旦那は、自分の母親の嫁いびりを知ってはいるけど何もできていなかったし、俺の母と結託されたらという不安からだろうし。
俺は母が失礼なことを言いかねないと考えていたからだ。
まぁ、母のことだから嫁さんと親友の仲が拗れるような言動はしないと思っていたが、その食事会以降、母さんのファンだと言い始め、親友のところの嫁いびりも収まったのだという。
『嫁いびりをするのは構いませんけれどね、誰がお義母さんの老後の世話、介護をするのか理解しているのかしら? ふふ、その時が楽しみですわね』
と笑顔でばあちゃんに言っているのを聞いたのは小学校の時だが、未だにあのときの凍り付いた空気は忘れることができない。
それ以来、ばあちゃんの母さんに対する態度は柔らかくなった気がするので、子供心ながら、もっと早く言えば良かったのにとおもったものだが、大人になった今なら、地域での自分の足場を固め終わったから口にしたのだと想像がついた。
嫁さんたちは教えてくれなかったが、おそらく、あのときと似たようなことを形を変えて食事会の席で言ったのは間違いない。
「とても素直な、優しいお嬢さんでしたよ」
母の言葉に、過去へと引っ張られていた意識が引き戻される。
あぁ、あの中学生か。
「私を席に案内した後、あなたが戻ってきて、隣が若い女性だから席を交換して欲しいと言われたときは、少しあなたのことが心配になりましたけど」
「私みたいなおじさんが隣に座るより、母さんが座った方が女子中学生は気持ちが楽でしょう?」
俺の言葉に、母さんの目が細く笑みを描く。
「気持ちが楽になるのは、お嬢さんではなくてあなたでしょう。
隣に座ったら、夏休みになってもいないのに新幹線にのっている見知らぬお嬢さんにお説教でもしてしまいそうだったのかしら?」
母さんの指摘に、肩を竦める。
「普通に心配だろう? だからといってこんなおじさんが声でもかければ通報されそうだし」
「自分の娘と同じ年頃ですもの、心配なのはわかるけれど、よその知らないお嬢さんのことに口を出すのは駄目よ。
お嬢さんが、なにか事件に巻き込まれているようなら口出しするのも年長者の役目ですけれど、そういった様子ではなかったもの」
「不登校なのかね?」
「さぁ?
お嬢さんが自分から話してくれるならともかく、こちらから聞き出すことでもないでしょう。
他にお嬢さんを守ってくれる大人がいないならともかく、話していた限りそうではないもの」
「多いよな。今はさ……」
「そうねぇ。でも理由も事情も様々でしょう?
あなたが想像している理由と、お嬢さんが一人で新幹線に乗っていた理由と事情は違うかもしれないし同じかもしれない。もしかすると、想像している理由とまったく関係ない事情でかもしれない。
それに、周りが思っているより、子供って想像以上に色々と考えているものよ。
あなただってそうだったでしょう?」
確認されれば、小中高とと色々なことを考えていたような気がする。
「―― ちゃんも、色々と悩んで考えて、どうにかしないとって足掻いているわよ」
娘の名前に、思わず母さんの顔を凝視する。
「嫁から聞いた?」
「いいえ」
ゆっくりと首を振る返事の意味は、娘から聞いたということだ。
「理由も聞いた?」
「そうねぇ。でも教えませんよ。
かわいい孫が、私を信じて話してくれたのですもの。
パパとママには言わないでと本気で念押しされたもの」
「そこを何とか……」
「なりません。
ほら、連絡先も交換したから、いつでも会話できるのだけれど、やっぱりおばあちゃん同士のやりとりと違うのね。私も高校生になった気分だわ」
「母さん」
弱り切った俺の声に、母さんは困ったように大きなため息を吐いた。
「話し合いなさい。それと理由よりも、どうしたいのかを聞いてあげたらどうかしら? 私から言えるのはそれだけよ。女同士のが話しやすいかもしれないわね? ちょうど今なら邪魔もはいらないし? 美味しいケーキとお茶をお供にするのも良いわね」
母さんの言葉に頷きながら嫁さんにメッセージを打っていく。
「どうするの? ではなくて、どうしたいのかってことなのよ。大切なのは」
それは似ているようで違う意味を持つ。




