第9話 七日の夏
七夕の夜。
空は、風に透けるような青をしていた。
昼間の熱を残したまま、街の屋根の上をゆっくりと風が渡っていく。
林田凛は、ノートを胸に抱えて立ち上がった。
今日が、昴と過ごす「七日間」の最後。
この一週間、ずっと彼の気配を追ってきた。
風の音、光るページ、残された文字。
そのすべてが――今夜のためにあったような気がしていた。
◇ ◇ ◇
街では、七夕祭の笹が夜風に揺れている。
短冊のひとつひとつが、星明かりを受けてきらめく。
「願いごと、書いた?」
森永が隣で笑った。
「うん。でも、ちょっと秘密」
凛は小さく答えた。
短冊に書いた言葉は、ただひとつ。
> 「願い:もう一度、彼に会えますように」
それを笹に結んだあと、風が一度だけ強く吹いた。
短冊が外れ、空へ昇っていく。
森永が驚く声を上げたが、凛はただ見上げていた。
――あれでいい。
あの風の向こうで、きっと彼が見ている。
◇ ◇ ◇
祭りの喧騒から離れ、丘への道を登る。
風が背中を押してくる。
まるで、“早くおいで”と呼ばれているようだった。
観測所の扉を開くと、そこには無数の光の粒が漂っていた。
天の川のかけらのような、淡い輝き。
その中心に――昴が立っていた。
「……昴」
声を出すだけで、涙がこぼれた。
昴はゆっくりと振り向き、微笑んだ。
「来てくれると思った」
「……どうして、ここに?」
「風が運んできたんだ。君の願いを」
◇ ◇ ◇
昴の姿は、風の粒に包まれていた。
その輪郭が少しずつ淡くなっていく。
凛は一歩、近づいた。
「消えちゃうの?」
昴は静かにうなずく。
「“願い星”は、人の願いを叶えるたびに少しずつ消えていくんだ。
でも、君の願いだけは……温かかった」
「温かい?」
「誰かを救う願いでも、誰かを癒す願いでもなくて――
“誰かを想う願い”だった。
それは、消える光を留める力を持ってたんだ」
凛は唇を噛み、言葉を失う。
風が吹き抜け、昴の髪を揺らす。
光の粒がふたりのあいだに漂い、まるで時間が止まったようだった。
◇ ◇ ◇
昴が一歩、近づいた。
「凛。君がこの一週間を覚えていてくれるなら、僕は消えても構わない」
「そんなこと言わないで……」
「君が風を感じるたびに、僕はそこにいるよ」
「それじゃ、また寂しくなるよ」
昴は少しだけ笑った。
「寂しさは、思い出の形だから」
その笑顔が、風の中に溶けていく。
凛は駆け寄り、彼の手を掴もうとした。
指先が触れた。
けれど、その感触は水面のようにやわらかく、すぐに崩れた。
「昴――!」
風が一瞬止まり、夜空が広がった。
◇ ◇ ◇
星が流れた。
天の川のひとすじが、空を横切る。
昴の声が、風に混ざって届く。
――願いは、渡る。
――だから、泣かないで。
凛は目を閉じ、胸の奥でその声を受け止めた。
「ありがとう。あなたに出会えて、よかった」
風が頬を撫でた。
その温度は、確かに昴のものだった。
彼は消えた。
けれど、風が吹くたびに、あの笑顔が浮かんだ。
夜空の星々が一斉に輝き、空全体が光の海に変わっていく。
七日の夏が、終わろうとしていた。




