最終話 願いの続き
翌朝。
風は、昨夜よりもずっと穏やかだった。
七夕の喧騒が過ぎた街は、まるで深い眠りに落ちたように静かで、
空は澄んだ青をしていた。
林田凛はベッドから起き上がり、窓を開ける。
朝の風が頬を撫でた。
その瞬間、胸の奥が少しだけ痛む。
――あの声がもう聞こえない。
でも、風の温度だけは確かに残っていた。
◇ ◇ ◇
机の上に置いたノートを開く。
何度も昴の言葉を見返したページ。
昨日までは光の粒が揺れていた場所が、
今日はただの静かな紙になっていた。
まるで、彼が本当にどこかへ行ってしまったことを示すように。
けれど、一枚だけ違うページがあった。
ページの端に、小さな星の印。
そこには、見覚えのない行がひとつだけ増えていた。
> 「願い:君が、君自身の願いを見つけられますように」
凛はそっと指先を触れた。
“君自身の願い”。
それは、この七日間の中で一度も考えなかったことだった。
いつも昴のこと、風のこと、消えていく光ばかりを追っていた。
――私の願いって、なんだろう。
◇ ◇ ◇
その答えを探すように、凛は学校へ向かった。
七夕飾りの残骸が校門の隅に寄せられ、
短冊の紙片が風に乗って校庭を転がっていく。
森永と日浦が、校舎裏で片付けをしていた。
「おはよ、リンリン!」
「昨日、ちょっと泣いてた?」
森永の言葉に、凛は小さく笑った。
「ううん。少しだけ、風に当たってただけ」
「へぇ……なんか大人になった感じ」
「そう見える?」
「見える見える。昨日のリンリン、なんかさ……背中が強かった」
その何気ない言葉が、凛の胸の奥に残った。
“強かった”。
――私、強くなれたのかな。
◇ ◇ ◇
放課後。
凛は一人、観測所へ向かう坂道を歩いた。
昨日と違い、風はほとんど吹いていない。
それでも、時折ゆるく流れる風の温度に、
昴の気配を探そうとする自分がいた。
観測所の扉は開いていた。
夕陽が差し込む中、丘の空気はどこまでも透明で、
ベンチの上には、もう何も残っていなかった。
――いないんだ。
その事実がようやく、胸に優しく落ちてきた。
凛はノートを開き、最後のページにそっと書いた。
「願い:私が、誰かの風になれますように」
昴がそうしたように。
誰かの願いに気づき、寄り添えますように。
誰かの心に、やわらかい風を届けられますように。
書き終えたとき、風がひとつ吹いた。
ページが揺れ、ノートの隅の星の印が光った気がした。
幻かもしれない。
でも、凛は迷わず微笑んだ。
「行ってきます、昴」
◇ ◇ ◇
帰り道。
風鈴の音が遠くで鳴った。
その音の向こうで、
ほんの一瞬だけ、あの声が聞こえた気がした。
――うん、いってらっしゃい。
振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、夏の夕暮れの風だけが通り過ぎていく。
凛は歩き出した。
七日の夏は終わった。
けれど、願いは続いていく。
これから始まる日々の中で、
風の記憶とともに――。




