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第8話 風の記憶

七夕まで、あと二日。

 朝の空は、淡い灰色をしていた。

 雲は薄いのに、光がやけに遠い。

 林田凛は、通学路の途中で足を止めた。

 川沿いの並木道――そこにある古い電柱に、何枚もの短冊が引っかかっている。

 昨日の強風で飛ばされたのだろう。

 一枚を拾い上げると、そこに見覚えのある筆跡があった。


 > 「願い:また、あの丘で風が吹きますように」


 それは昴の文字だった。

 凛の胸が静かに震える。

 ――あの丘。観測所のある場所。

 彼が最後に残した“場所の記憶”。

 そこへ、また風が吹く。

 それは、彼がまだこの世界に触れている証のように思えた。


   ◇ ◇ ◇


 学校の中庭では、七夕飾りの最終調整が進んでいた。

 凛は一人、昴の席のそばに立ち止まる。

 窓から吹く風が、ノートのページを一枚だけ開いた。

 そのページには、昨日までなかった新しい行が刻まれていた。


 > 「願い:風の記憶を、君に残す」


 その文字は、まるで呼吸するように光っていた。

 凛は唇を噛みしめる。

 昴は今も、何かを伝えようとしている。

 彼がいないのに、世界が少しずつ“彼の方へ”動いている。


 「風の記憶……」

 呟いたとき、背後で森永が声をかけた。

 「リンリン、帰りに寄り道しない? みんなで屋上の飾り、仕上げるんだって」

 「……ごめん。今日、行きたい場所があるの」

 森永が首をかしげる。

 「もしかして、また……あの丘?」

 凛は小さくうなずいた。

 「風が、呼んでる気がして」


   ◇ ◇ ◇


 放課後。

 観測所への道は、いつもより強い風が吹いていた。

 木々がざわめき、草が一斉に傾く。

 風が“何かを語っている”ような気配。

 凛はノートを胸に抱きしめながら、坂を登った。

 途中のベンチの下に、何かが落ちている。

 拾い上げると、小さなメモ帳だった。

 ページの端が風でめくれ、そこに短い文章が記されていた。


 > 「願い星は、願われるほど薄れていく」

 > 「でも、風が吹く限り、消えない」


 凛の心臓が跳ねた。

 間違いない。昴の文字。

 彼は消えながらも、自分の存在を“風の層”に刻んでいた。

 願われるほどに消えてしまう――それでも、誰かを願い続けた少年。


   ◇ ◇ ◇


 観測所の扉を開けると、夕陽が差し込んだ。

 ベンチの上には、彼がいつも読んでいたノートが置かれている。

 それは、彼のものか、自分が持つものと対になるような気がした。

 ページを開くと、風が吹き抜ける。

 次の瞬間、光の粒が立ち上がり、空間に映像のような景色が浮かび上がった。


 ――昴が笑っていた。

 風の中で、誰かの願いを聞き、頷いている。

 そして、その願いを風に乗せて空へ放っていた。

 その光景は、まるで記録された記憶。

 彼が“願い星”として生きていた時間の断片。


 凛は涙をこらえながら呟いた。

 「昴……これが、あなたの“風の記憶”なんだね」


   ◇ ◇ ◇


 丘を包む風が、やさしく鳴った。

 ベンチの上のノートが光り、ページの隅に小さな文字が浮かぶ。


 > 「願い:君が、風を覚えていますように」


 凛はそっとページに触れる。

 「覚えてるよ。風の匂いも、声も、全部」

 その声に応えるように、風が静かに吹いた。

 木々がざわめき、短冊が一斉に鳴る。

 夜が近づく空の下、凛はノートを胸に抱き、目を閉じた。

 風の音が、まるで昴の笑い声のように優しく響いた。

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