第6話 風の兆し
翌朝。
七夕まで、あと二日。
窓を開けた瞬間、湿った風が部屋に流れ込んだ。
林田凛は、その風の冷たさに思わず目を細める。
昨日までとは違う――空の匂いが変わっていた。
どこか遠くから、見えない何かが近づいてくるような気配。
机の上には、一冊のノートが開かれていた。
ページの端がふわりと浮き、風がめくったように一枚だけ裏返る。
白いページの中央に、細い線で文字が滲んでいた。
《また風が吹いたら、そこにいる》
昴の筆跡。
まるで、昨夜夢の中で聞いた声が、そのまま紙に残ったみたいだった。
◇ ◇ ◇
学校では、七夕の飾り付けが少しずつ形を成していた。
笹の数が増え、短冊の色が増え、廊下を歩くたびに風の音が変わる。
「おはよ、リンリン!」
森永が弾む声で駆け寄ってくる。
「聞いてよ、昨日の夜、うちのベランダの短冊が勝手に鳴ったの! 風も吹いてないのに!」
「……本当に?」
「うん、まるで誰かが触ったみたいに。お母さん、びっくりしてた」
凛は小さく息をのむ。
昨日の観測所で見た光。
それが、この風を伝って街まで降りてきたのかもしれない。
日浦も加わり、三人で笹を運ぶ。
「なんかさ、この学校、風通し良すぎない? ずっと吹いてる気がする」
「七夕が近いからかな」
凛は微笑む。
でも、その笑みの奥に、ほんの少しの不安が混じっていた。
――風が強くなるたびに、昴の声が遠ざかる気がする。
◇ ◇ ◇
放課後。
昴の席に座り、凛はそっとノートを開いた。
ページの端に、うっすらと新しい文字が浮かんでいた。
《願いの風は、まだ途中》
ペン跡ではない。
まるで光が文字の形をとっているようだった。
「昴……」
呼びかけても、返事はない。
けれど、窓の外で風鈴がひとつ鳴る。
その音が、まるで彼の返事のように感じられた。
凛はペンを取り、ノートの隣に小さく書き足した。
> 「どこにいるの?」
書いた瞬間、紙が淡く光る。
だが、その答えは現れない。
ただ、風がふわりと吹き抜けた。
髪を揺らし、ページを一枚だけめくって去っていく。
その動きが、まるで誰かの手のようで――
凛は思わず胸に手を当てた。
◇ ◇ ◇
帰り道。
商店街の笹が夕陽を受けて揺れている。
短冊の音が風に混ざり、耳の奥でかすかに重なる。
その中に、聞き覚えのある声が混ざった気がした。
――凛。
ほんの一瞬。
足が止まる。
周囲には誰もいない。
ただ風だけが、前から後ろへと抜けていった。
「……幻聴、じゃないよね」
凛は自分に言い聞かせるように呟く。
風の中に、あの透明な温度を感じた気がした。
――まだ、いる。
その確信だけが、彼女を前へと歩かせた。
◇ ◇ ◇
夜。
机の上のノートが、静かに開かれていた。
ページの隅に、見覚えのない印がある。
小さな星のマーク。
その印が風を受けてかすかに光った瞬間、
窓の外で短冊が一斉に鳴った。
まるで、街全体が呼吸を合わせたかのように。
凛は立ち上がり、窓を開けた。
風が頬を撫で、髪をなで、部屋の中を巡る。
その風の中で、確かに誰かが囁いた。
――もうすぐ、願いが動く。
声は優しく、遠くから届いた。
凛は目を閉じて、その言葉を胸の奥に刻んだ。
まだ終わっていない。
彼の願いも、自分の願いも。




