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第5話 観測所への道

七夕まで、あと三日。

 林田凛は、朝の風の匂いが昨日と違うことに気づいた。

 湿った空気の中に、ほんの少しだけ金属のような冷たさが混ざっている。

 それは、風が高い場所へ流れるときの匂いだった。

 ――今日、行くんだ。

 胸の奥でそう呟く。



 学校では、七夕祭の準備が最終段階に入っていた。

 校門前には商店街から届いた笹が新たに並び、短冊の数が一晩で倍になっている。

 風が吹くたび、願いごとの群れがカラカラと鳴り、

 その音は、無数の小さな祈りが触れ合うようにも聞こえた。


 「リンリン、今日観測所行くんでしょ?」

 昼休み、森永が弁当の包みを広げながら訊く。

 「うん。昴くんと」

 「え、デートじゃん!」

 「ちがうってば」

 「観測所って、あの立入禁止の山の上のとこ? 気をつけなよ、夜は風が強いって」

 「わかってる」

 凛が笑うと、森永は納得したように頷いた。

 「じゃ、帰ったら連絡して。写真も!」

 「わかった。たぶん、空の写真になるけど」

 「さすがリンリン、詩人モードだね」

 軽口を交わしながら、昼休みは静かに過ぎていった。



 放課後。

 昴はいつものように窓際で空を見ていた。

 凛が近づくと、彼はノートを閉じて鞄にしまう。

 「風、変わったね」

 「うん。上向きになってる」

 「上向き?」

 「風が山の方へ流れてる。行こうか」

 昴が立ち上がる。

 その横顔には、覚悟というよりも、静かな確信のようなものがあった。

 凛は頷き、並んで教室を出た。



 学校を抜けると、夕方の光が街の色を変え始めていた。

 空は青から金へ、金から紫へ。

 商店街を通り抜け、住宅街を過ぎ、裏手の坂道を登る。

 途中に立つ古い標識には、かすれた文字が残っていた。

 「旧天文観測所跡地」

 錆びた矢印が、山の上を指している。


 「こんな近くにあったんだ」

 「知らない人が多い。空のことなのに」

 「空のこと、なのに?」

 「うん。人は空を見ながら、いつも地上のことを考えてる」

 「また詩人だ」

 「職業病みたいなもの」

 ふたりの笑い声が坂道に響き、風に溶けた。



 坂の上で、錆びた鉄門が待っていた。

 鎖は外れていて、風に合わせてかすかに軋む。

 昴がそっと押すと、門は驚くほど軽く開いた。

 その先には、草に覆われた空き地。

 中央に、石と鉄でできた円形の基礎が残っていた。

 それが、かつて望遠鏡を支えていた観測台だった。


 「ここが、観測所?」

 「うん。空を観るための場所が、今は風を通す場所になった」

 「屋根、嫌うから?」

 「そう。空は屋根を嫌う」

 昴が笑った。

 凛はその笑みを見ながら、胸の奥で何かがきゅっと締めつけられるのを感じた。

 ――この人は、本当に空の一部なんだ。

 そんな確信に近い感覚が、彼女の心に静かに沈んでいった。



 観測台の中央には、金属の輪が残っていた。

 かつて鏡筒を支えていた部品だろう。

 昴がしゃがみ込み、指先でその縁をなぞる。

 「これ、昔の天文部が使ってたやつらしい。

  もう誰も触らないけど、ここだけはまだ冷たい」

 凛も隣にしゃがみ、そっと触れてみた。

 指先に伝わる冷たさは、冬のような冷えではない。

 むしろ“温度の薄い”冷たさ。

 空気の向こう側にある感触。

 「……願いが、残ってるの?」

 「少しだけ。ここで空を見上げた人たちの願いが、風と一緒に残ってる」

 「消えないんだ」

 「願いは消えない。消えるのは、人のほう」

 昴の声が、風に乗って静かに響いた。

 凛はその言葉を心に刻む。

 ――消えるのは、人のほう。



 日が沈みかける。

 東の空に、星が一つ、また一つ灯る。

 昴は空を見上げ、低く言った。

 「風が整ってきた。願いの流れが戻ってる」

 「戻ってる?」

 「昨日、商店街で渡った願いが、今夜また空に返る」

 「……そんなふうに見えるの?」

 昴は頷き、指で空をなぞる。

 「見えるよ。ほら、あそこ」

 凛も目を凝らす。

 雲の隙間で、一つの光が脈を打つように揺れていた。

 他の星よりも柔らかい光。

 それは、誰かの願いの“名残”のようだった。


 「綺麗」

 「風が運んでるんだ。

  誰かの“想い”を、次の人のところへ」

 「……連鎖みたい」

 「そう。願いは、連鎖する」

 昴の声が穏やかに響く。

 凛はその横顔を見つめながら、言葉の重さを噛みしめた。

 “願いの連鎖”。

 それは、昴が消えていく理由でもあり、ここにいる理由でもある。


 「昴」

 凛は小さく呼ぶ。

 「なに?」

 「……怖くないの?」

 「もう、慣れた。

  消えることよりも、残るものの方が多いから」

 「残るもの?」

 「風とか、光とか、覚えててくれるもの」

 昴がそう言うと、頬をかすめた風がふわりと冷たくなった。

 その冷たさの中に、確かに温度の薄い気配があった。

 凛は無意識に、自分の手を胸に当てる。

 ――ここにある温度は、まだ濃い。

 それだけで、少し安心できた。



 観測所の片隅に、古いベンチが残っていた。

 木の表面は剥げ、苔が少し生えている。

 ふたりはそこに腰を下ろした。

 夜の気配が、静かに降りてくる。

 虫の声。風のうねり。遠くで列車の音。

 どれもが、時間の粒子になって混ざり合っていた。


 昴が空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。

 「願いがひとつ届いた」

 「誰の?」

 「君の」

 凛は驚いて彼を見る。

 昴の瞳が、星の光を映して揺れている。

 「“忘れませんように”って書いたでしょ」

 「……見たの?」

 「風が運んできた」

 凛の胸が熱くなる。

 「それ、ずるい。見ちゃだめ」

 昴は少し笑った。

 「でも、嬉しかった。

  “忘れない”って願われたら、僕は少しだけ“在る”になれる」

 「在る……?」

 「存在の重さ、みたいなもの。

  ほんの少し戻ってくる」

 昴は手を広げて、夜風を掬った。

 その手が、わずかに光を帯びていた。

 風の粒が手の中に集まり、淡い輝きの膜を作る。

 凛は息をのむ。

 その光が、彼の形を確かに“ここ”に留めていた。


 「昴……」

 「ありがとう、リンリン」

 「なんでお礼を言うの」

 「君の願いが、僕を少し引き戻したから」

 凛の胸に涙が滲む。

 「でも、それって、私のせいで昴が――」

 「違うよ」

 昴が首を振る。

 「願いは、消すためじゃなく、渡すためにある。

  君が願ってくれたから、風がまた流れた」

 その言葉が、凛の中に静かに沈んでいく。

 温かいのに、少し切ない。

 けれど、それは確かに“生きている”感触だった。



 観測所を出るころには、夜が深まっていた。

 門をくぐるとき、凛はふと後ろを振り返った。

 崩れた観測台の上、風がひときわ強く吹き抜ける。

 その風の中に、光の粒がいくつも舞っていた。

 まるで誰かの願いが、空へ還っていくように。


 ――願いは、渡る。

 昴の声が、風の奥から聞こえた気がした。


 凛は胸の前で手を組み、そっと目を閉じた。

 「また明日」

 そう呟いた声が、夜空のどこかに吸い込まれていった。



 家に帰ると、母がテレビの前でうとうとしていた。

 「おかえり。空、見えた?」

 「うん。たくさん」

 「願い、叶うといいね」

 「……うん」

 凛は笑って自室に入った。

 机の上には、昨日書いた短冊。

 その紙の端が、風もないのにわずかに揺れた気がした。

 ペンを手に取り、もう一枚の短冊に新しい言葉を書く。


 > 「願いが風になりますように」


 書き終えた瞬間、窓の外で風鈴が鳴った。

 音は短く、一度きり。

 けれどその余韻は、心の奥にずっと残った。

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