第25話 【番外編】黒木奏の恋愛事情2(前編)
フレーム寮一階にある大浴場には、なぜかイベント風呂というのがある。普通の浴槽の隣にある小さな浴槽のことで、そこは、たまーに泡風呂になったり、ゆず湯になったり、バラ風呂になったりするのでそう呼ばれている。これは他の寮にはないらしい。なんでうちの寮にだけあるのかは知らない。
さっとシャワーを浴びて、浴槽の方へ行くと、イベント風呂にはただの透明なお湯が入っていた。今日はイベントは特にないらしい。実際のところはこういう日がほとんどだ。隣の広い方の湯船に浸かり、ゆっくりと白い天井を見上げた。正直暑くてもう上がりたいくらいだけど、もう少しだけ。今日の風呂はいつもよりゆっくり入ってこいと言われているのだ。
言ったのは俺のルームメイトの三人。玲ちゃん、初芽、智輝。理由はだいたい想像がつく。なんてったって今日は俺の十八回目の誕生日。あの三人とルームメイトになって三回目の誕生日だ。過去二回、盛大にサプライズを仕掛けてくれたあいつらのことだから、きっとなにか準備してくれているのだろう。俺はこのあとのことを想像してふっと微笑むと、お湯から出た。
ガラにもなく、すごーく丁寧に顔に化粧水を塗って、すごーく時間をかけて髪の毛を乾かした。さすがにもう戻ってもいいだろうか。
大浴場を出て、エレベーターは使わず階段で四階まで上る。共用の冷蔵庫から、予めキャップに名前を書いておいたミネラルウォーターのペットボトルを取って、一口二口飲みながら自室の方へとゆっくり歩いた。
と、突然廊下に並んだ扉の一つが開いた。たぶんあそこは四〇七号室。俺の部屋だ。案の定、ルームメイトの三人が出てきた。どうしたんだろ、と思っていると、向こうも俺に気づいて近寄って来た。
「あ、奏ー。俺ら、浜崎たちの部屋へ遊びに行ってくるから!」
玲ちゃんが笑顔で言う。浜崎といえば、天馬と一色のルームメイトだ。
「え? あ、うん」
突然のことに、俺はキョトンとして頷いた。
「じゃーねー」
「いってきまーす」
初芽と智輝まで。ポカンとしている俺を素通りして、三人はスタスタと歩いて行ってしまった。
え? まさかのお祝いなし⁉︎ 忘れられた⁉︎ おいおい、一応俺、お前ら三人の誕生日祝っただろ……。見返り目当てで祝ったわけじゃないけど、さすがに寂しいぞ……。てか、じゃあ風呂ゆっくり入ってこいっつったのはなんだったんだよ⁉︎
俺はちょっと落ち込みながら、四〇七号室の扉を開けた。
「あ! おかえり〜」
誰もいないはずの部屋から声、しかもすごく聞き慣れた声がして、俺は慌てて顔を上げた。
「え⁉︎ な、なんで⁉︎」
声の主は、俺の勉強机の椅子に座って、ビックリしている俺の反応を楽しむみたいににこにこしてこっちを見ていた。向こうも風呂上がりらしく、ミルクティー色のだぼっとしたスウェット姿で、いつものコンタクトを外して丸メガネをかけている。
「えへへ〜、来ちゃった〜」
天馬は小悪魔っぽくにこっと微笑んで、小首を傾げた。
「来ちゃったって……」
ビックリしたのと嬉しいのとメガネ姿の天馬の微笑みがかわいいのとで俺が混乱していると、天馬は俺の回転椅子でくるくるまわりながら続けた。
「今出てったばっかだから、もしかして長谷川たちとすれ違った? 誕生日忘れられたと思ってビックリしなかった? ふふ、大丈夫、みんな覚えてたよ〜」
長谷川というのは玲ちゃんの名字だ。よかった、忘れられたわけじゃなかったのか。俺はほっと胸を撫で下ろした。
「昼休みにさあ、プレゼント渡しそびれちゃったでしょ? だからさっき渡しに来たんだけど、そしたら長谷川たちがちょうど誕生日パーティーの準備しててさあ。『じゃあ、俺は明日渡すからいいや』って言ったんだけど、三人が『カレシが優先だから!』って言ってくれて。部屋空けてくれるって言うから、お言葉に甘えて奏の誕生日の夜、ありがたく譲ってもらっちゃったの」
「なるほど、そういうことね」
天馬とはいつもお昼を一緒に食べるから、おそらくその時にプレゼントを渡してくれるつもりだったんだろう。けど、こんな日に限って、一緒に食べることが叶わなかった。というのも、飼育小屋の魔法動物ミミールが逃げ出して、飼育委員の天馬は昼休み中ずっとミミールを箒で追っかけ回すハメになったのだ。結局、ミミールは天馬が捕まえたらしいからよかったけども。
とにかく、気を利かせてくれたルームメイトたちにはあとでお礼を言わないと。あと、ちゃんと準備してくれてたのに、忘れたとか疑ってごめんな〜!
「ごめんね〜。長谷川たちじゃなくて俺でがっかりした?」
ふいに、天馬が俺の正面でぴたりと回転椅子を止め、くりくりの目で見上げてきた。俺には天馬の欲しい言葉が手に取るようにわかる。そしてそれは、俺の本心でもあった。
「がっかりなんかしないよ。天馬が来てくれてスゲー嬉しいよ」
俺は言った。天馬が嬉しそうに微笑む。
「ふふふ、ほんと〜? ありがと」
そう言うと、天馬はくるっとまた椅子をまわして、俺の机に向かった。
「ねーねー、これ、初デートの時の写真だよね? 奏、こんなとこに飾ってたんだ」
「ちょ、恥ずかしいって」
天馬が指さしたのは、机の上の写真立て。お気に入りだったので、わざわざ現像して、大事に飾ってあったのだ。
「ふふ、大丈夫。机の中とかは勝手に開けたりしてないよ」
天馬が微笑む。
「そう? まあ見られて困るようなもんは入れてないけどさあ」
「ほんと〜?」
天馬がニヤニヤして言う。
「うん。見てもいいよ。グチャグチャだけど」
「あはは、いいよ。家探しにきたわけじゃないから!」
天馬はくすっと笑って椅子から立ち上がると、座卓の前にストンと腰を下ろしてあぐらをかいた。
「ふふ、無駄話しすぎちゃった。プレゼント渡すね」
「やった〜」
俺も天馬の側にあぐらをかいた。天馬が、さっきから抱えていた、赤いリボンのかかったブラウンの袋を俺に差し出してくれる。
「お誕生日おめでとう、奏!」
「ありがとう〜!」
天馬が優しく微笑む。今この瞬間、俺のためだけに向けられた笑顔に鼓動が速くなった。
「開けてみてもいい?」
俺が尋ねると、天馬は「うん」と頷く。俺はワクワクしてリボンを解いた。
「おー! いいじゃ〜ん!」
中に入っていたのは、黒いペンケースとシャープペンシルだ。
「このペンケースかっけー! シャーペンも、これ書きやすいって話題のやつだよな⁉︎ ありがと〜。俺がペンケースぼろいからそろそろ買い替えなきゃって言ってたの覚えててくれたの?」
俺が言うと、天馬は照れくさそうに頷く。
「一応、使いやすそうなの選んだつもりなんだけど、気に入らなかったらムリして使わなくてもいいからね」
「ううん!」
俺は大きく首を横に振った。
「絶対明日からこれ使う! 超嬉しい! ありがとな〜!」
俺は一度プレゼントを座卓に置くと、両手を天馬に向けて広げた。天馬はちょっとビックリしたように目を丸くしたあと、ふふっと微笑んで近づいてきて、俺の腕の中にすっぽり収まった。
「ありがとなー天馬。大事に使うな」
俺が言うと、天馬の腕がそーっと俺の背中にまわってくる。
「うん。おめでとう、奏」
俺は左手で天馬の身体を抱きしめたまま、右手で天馬の頭をさらさらと撫でた。天馬が俺のトレーナーの背中のところをきゅっと掴んで、甘えるみたいに俺の肩に顔を埋めてくる。シャンプーだろうか、天馬の首元からふわっと優しい匂いがした。
俺が天馬の体を解放すると、天馬は耳を赤く染めて、恥ずかしそうに視線を落としたまま、くいっと丸メガネを押し上げた。
「ふふふ、嬉しいな〜。早く明日学校で使いたいな〜」
俺は上機嫌でもう一度もらったものをじっくり見た。と、急に天馬が口を開く。
「あのね、奏」
「ん? どうした?」
「あのね、もう一つ、渡したいものあって」
「えー! なになに?」
天馬はなにかをズボンのポケットから取り出して、俺に手渡してきた。
それは、封筒だった。小さく犬の絵がついている可愛らしいデザインだ。天馬も俺も犬が好きで、天馬はよく、将来一緒に住む時は絶対わんちゃん飼おうね、なんて可愛いことを言う。封筒には美しい字で『奏へ』と書かれていた。この字、よく知ってる。天馬の字だ。
「誕生日だから、手紙書いてみた」
天馬がはにかんで言った。
「マジ? いま読んでいいの?」
俺が聞くと、天馬は「うん」と頷く。俺は胸を高鳴らせ、封筒の中から便箋を取り出した。封筒とお揃いの、わんちゃんの便箋だ。そこには天馬の綺麗で丁寧な字で、こう綴られていた。




