第4話 迎えの約束
川瀬文は、写真の中央に立っていた。
隣の女性より少し顎を引き、カメラを見据えているせいか、他の二人よりも厳しい顔に見える。
交換室で撮られた写真ではなく、背景には植木鉢と、外へ立て掛けた長い板が写っていた。
鷹雪は図書館の閲覧席で証言集を開き、写真の下に添えられた「中央が姉の文です」という一行を指で辿った。
手記の題は『柳橋で待つ』だった。
母と姉と三人で暮らしていたこと、夜勤明けの姉を橋まで迎えに行くのが楽しみだったことが、家の間取りや近所の店の話に交じって綴られている。
後半は空襲の晩の記憶だったが、電話局の様子には触れられていなかった。
千代は母に連れられて避難し、姉の死を知ったのは数日後だったという。
末尾には、勤めから帰る姉の足音を長く覚えていたと書かれていた。
鷹雪はもう一度写真へ戻り、電話口の声を思い出そうとしたが、耳に蘇るのはガラスの砕ける音ばかりだった。
必要なページを複写してもらい、証言集を編んだ市の資料館へ連絡した。
寄稿者に話を聞きたいと伝えると、担当者は先方へ問い合わせてくれることになった。
返事を待つ間、鷹雪は講義へ出て、三宅さんの餌を買い、隣室に預けたスマホの様子を一日に何度も尋ねた。
三度目には、大家から「鳴れば聞こえるよ、君の部屋でも」と言われたので、それ以上は聞かなかった。
千代の娘から連絡があったのは二日後だった。
母は家におりますから、午後でしたら、と告げられた時、鷹雪は慌てて手帳を膝の上へ広げた。
書き損じた住所を一文字ずつ直しながら、まだ会える人なのだとようやく実感した。
◆ ◆ ◆
丸山家は、川から少し離れた住宅街にあった。
門の内側には鉢植えが並び、玄関の脇に畳んだ傘が何本も掛けてある。
鷹雪が呼鈴を押すと、電話で話した娘が戸を開けてくれた。
「草壁さんですね、お待ちしていました」
挨拶をして頭を下げた鷹雪の隣で、大家も軽く会釈した。
今日は髪を結び、普段より皺の少ない着物を着ている。
「そちらは、大学の先生でいらっしゃいますか」
「いえ、草壁氏に部屋を貸している者です」
娘は少し意外そうな顔をしたものの、母も楽しみにしていたんですよ、と二人を座敷へ案内した。
大家が余計な説明を始めなかったことに、鷹雪はひとまず安堵した。
丸山千代は庭に面した椅子へ座り、膝の上で眼鏡の紐を直していた。
紹介されると、鷹雪の顔を見上げて目を細めた。
「まあ、背の高い方」
腰を浮かせようとしたので、鷹雪は急いで座卓の前へ膝をついた。
「そのままで大丈夫です、今日はお時間を頂いてありがとうございます」
「若い方が読んでくださるなんて、書いておくものですねえ」
千代は差し出された複写を両手で受け取り、眼鏡を掛けた。
紙面に顔を寄せてから、ふっと笑った。
「姉は、この写真が嫌いだったんですよ」
鷹雪も身を乗り出した。
「睨んでいるみたいだから、誰にも見せないでくれって言ってね」
写真の中央を、爪の短い指が撫でた。
「え、と……失礼かもしれませんが、……怒っているわけじゃないんですか?」
「何か見る時には目を細める人だったんです、少し離れると誰だか分からないこともあって」
千代は眼鏡の位置を直し、それから鷹雪を見た。
「私が橋で手を振っても、すぐには気がつかないのよ」
鷹雪は写真へ目を落とした。
顔の印象が、さっきまでとは違っていた。
「夜勤の翌朝は、いつもお迎えに?」
「ええ、学校へ行く前にね」
千代は紙を膝へ置き、柳橋の方へ歩いていくように指先を動かした。
「家から電話局へ行く途中に橋があるでしょう、私は南側の袂で待つんです」
鷹雪は図書館で描いた地図を開き、橋の端へ小さな丸を付けた。
「見つけてもらえないから、途中まで走っていくんですよ」
千代の話し声には笑いが残っていたが、鷹雪の耳には電話の向こうで聞いたサイレンが響いた。
ペンを止め、次の言葉を待った。
「姉は疲れているから、帰ったら起こすなって先に言うんです」
「お仕事の後ですもんね」
「ええ、でも寝ている顔を触ると面白くてね」
娘が茶を置きながら、そんなことをしていたの、と笑った。
「鼻を摘まむと怒るのよ、当たり前ですけど」
鷹雪もつられて笑いかけ、写真を見た。
電話口の悲鳴を思い出す時より、今の話を聞いている方が落ち着かなかった。
写真の顔をした女が、布団の中で妹の手を払いのける。
その家へ帰る途中に、あの橋があった。
「西村米穀店というお店も、近くにありましたか」
「ありましたよ、うちから三軒先だったかしら」
千代は娘へ顔を向けたが、娘は知らないというように笑って首を振った。
「そこに電話があったと番号簿で見たんです」
「ああ、うちにはありませんでしたから、姉の勤めが延びると西村さんが知らせに来てくれました」
鷹雪は手帳へ書き加えた。
西村米穀店から川瀬家への取次ぎ。
耳で聞いた名前と、古い紙の上の住所の間に、ようやく人の行き来が見えた。
「お迎えに行く時間を教えてもらっていたんですね」
「そう、それで先に学校へ行きなさいって叱られることもありました」
千代は茶碗へ手を伸ばし、一口飲んでから両手で包んだ。
鷹雪は手帳のページを押さえ、尋ねる言葉を探した。
「空襲の前の日もお姉さんとはそういうお話をされたんでしょうか」
茶碗を持つ手が、少し止まった。
「夜のお勤めに行く前、明日の朝も来て良いかって聞いたんです」
庭で物音がして、鷹雪は一瞬そちらへ目を向けた。
雀が鉢の縁から降りただけだった。
「姉は良いよって、橋を渡らずに待っていなさいって」
千代は膝の上の写真へ視線を戻した。
「空襲警報で起こされた時、迎えに行かなくちゃと思ったんですよ」
鷹雪はペンを動かさなかった。
「まだ朝じゃないんですけどね、姉が帰ってくるなら橋で会えると思って」
茶碗が皿へ戻され、小さな音がした。
「母が放してくれなくて、引っ張り合いになったのを覚えています」
千代は自分の手首へ片方の手を添えた。
「道へ出たら橋の方が赤かったんです」
それきり少し黙ったので、鷹雪は返事をせずに待った。
娘も茶の盆を持ったまま座っていた。
「姉が、私を待っていたらどうしようと思いました」
千代はゆっくりと写真を撫でた。
「……でも、怖くてね」
眼鏡を外し、膝の上へ置く。
「母に連れられて逃げたら、そのまま朝になっていました」
鷹雪は手帳に書きかけた「迎え」という字を見た。
あの声が文だと決まったわけではない。
けれど、千代を呼んでいたのは、彼女の姉だったのかもしれない。
今ここで伝えてしまえば、千代はどんな顔をするだろう。
来させ、という半端な言葉しか聞けていないことを思い出し、鷹雪は口を閉じた。
「何を考えていたんでしょうねえ、最後は」
千代は写真を鷹雪の方へ差し出した。
受け取ろうとして、紙の端をうまく掴めなかった。
隣から大家の手が伸び、複写を座卓の上へそっと置いた。
「――少し休みましょうか、お茶が冷めてしまう」
大家が自分の茶碗を持ち上げると、千代も頷いて茶へ手を伸ばした。
鷹雪はペンを置いた。
庭の雀が、今度は二羽で鉢の周りを跳ねていた。
◆ ◆ ◆
丸山家を出た後、鷹雪はしばらく手帳を開けなかった。
門の内側で手を振る千代に、角を曲がるまで何度も頭を下げた。
鷹雪は鞄の中で、複写した紙を折らないよう手帳の位置を直した。
「……家に帰りたかったんでしょうね」
隣を歩く大家は、前を向いたまま頷いた。
「そうだろうね」
「千代さんに来てほしかったのか、来るなって言いたかったのか、そこさえ聞けてたら……」
道路の先で自転車のベルが鳴り、鷹雪は歩道の端へ寄った。
「今夜、続きを聞こうか」
大家の声に足が止まった。
「今度も窓の外がああなったら、俺は話を聞くどころじゃありませんよ!」
「窓はボクが見てる」
鷹雪は大家を見たが、男は涼しい顔で歩き続けていた。
「聞けた所は書いたし、千代さんにも会えた」
大家は振り向かずに続けた。
「分からない所まで、君一人で埋めなくて良いんだよ」
鷹雪は肩へ掛けた鞄を持ち直し、二、三歩遅れた距離を詰めた。
◆ ◆ ◆
夕食の後、鷹雪は三宅さんの食器を洗い、自分の部屋の窓と玄関を確かめた。
猫は何も知らず、畳の上で前脚を伸ばしている。
「かわいこさんは、お留守番でお願いします」
撫でようとすると顔を背けたくせに、手を引いた途端、白い前脚で袖を引き留めてきた。
鷹雪は少しの間そのままでいたが、隣室の戸が開く音に顔を上げた。
「草壁氏、寝るには早いよ」
「起きてます!」
三宅さんから袖を返してもらい、手帳と複写を持って隣へ向かった。
大家の部屋はカーテンが閉まっており、座卓には白い紙の包みと、見慣れた和綴じの手帖が置かれていた。
灰皿に伏せてあったキャメルの箱を片づけ、大家が向かいを示す。
鷹雪は畳へ座り、手帳の新しいページを開いた。
丸山家で聞いた話を書き直す作業は、帰宅してすぐに済ませてある。
それでももう一度読み返し、今夜の日付を記した。
「千代さんに、電話のことは話さなかったんだね」
大家が包みの端へ指を掛けながら言った。
「……最後まで聞いてからにしようと思って」
写真の複写を手帳の横へ置くと、大家はちらりと目を向けて頷いた。
紙の上では、文が少し顎を引いてこちらを見ていた。
カメラの向こうに何があるのか、見定めようとしている顔だった。
鷹雪は蓋を抜いたペンを握り、白い包みを見つめた。
細い紙が、大家の指先に挟まれて離れる。
黒い画面が点いた。
柳町交換台。
七度目の呼出音が、閉め切った部屋に響き始めた。




