失敗だらけの記録の秘密
王都に着いたのは、出発から二日目の夕刻だった。
港町とは違う乾いた風が、石造りの大通りを吹き抜けている。高い建物の窓には公社や商会の紋章が掲げられ、人々は皆、急ぐように歩いていた。馬車を降りたリゼルは、胸の奥が固くなるのを感じた。
この街には、彼女がまだ公証院に勤めていた頃の記憶がある。
採用通知を受け取った日。初めて改ざんされた契約書を見抜いた日。そして、誰にも褒められず、むしろ余計なことをするなと叱られた日。
「無理に思い出さなくていい」
隣でユアンが言った。
「思い出しているのではありません。記録されている場所に来ただけです」
リゼルはそう答えたが、自分の声が少し硬いことに気づいていた。
二人が案内されたのは、王都開発公社に隣接する臨時審査室だった。室内にはすでに数名の役人と、黒い外套を着た公社の代理人が待っていた。壁際の机には、分厚い書類の束が積まれている。
「リゼル嬢、久しぶりですな」
代理人が書類をめくりながら言った。
「あなたの働きぶりは、こちらにも詳しく報告されています」
「それは光栄です」
「光栄?」
男は薄く笑った。
「契約の写しを紛失した記録。公証印を押し間違えた記録。商会の帳簿を無断で持ち出した記録。上司への反抗的な態度。おまけに、今回の水路契約では原本を盗み、領主をそそのかして開発公社の事業を妨害した疑いまである」
机の上に、一枚ずつ記録が並べられていく。
リゼルは手を伸ばさなかった。触れなくても分かることがある。紙の厚み、綴じ方、インクの匂い。これらはすべて、同じ時期にまとめて作られた書類の特徴を持っていた。
「随分とたくさんありますね」
「長年の積み重ねですからな」
「では、確認させてください」
リゼルは最も上にあった記録を指した。
「これは、私が公証院に採用された翌月に作成されたものですね」
「そうです」
「ですが、記録者の署名は、採用から半年後に異動した書記官のものです」
代理人の指が止まった。
リゼルは次の一枚を取った。
「こちらは、私が港町の商会で働いていた時期の失敗記録。日付は春の三日目。しかし添付された公証院の受付印は、冬季用の印章です。王都では冬の印章を春まで使うことがありますか」
向かいの役人が顔を見合わせた。
「印章の切り替えは、年始からです」
「そうでしょうね」
リゼルは紙を裏返した。
「それから、この報告書には『リゼルが本日、原本を紛失した』とあります。ところが、記録番号はその三日後に発行されたものです。後から番号を合わせたのでなければ、成立しません」
室内の空気が変わった。
ユアンは口を挟まず、彼女の隣に立っている。守るために前へ出るのではなく、彼女が示すものを皆に見せるための位置だった。
「細かな間違いでしょう」
代理人が言った。
「人が作る記録に、多少の誤差はつきものです」
「一枚なら、そうでしょう」
リゼルは書類の束を見下ろした。
「ですが、ここにある失敗記録は、すべて同じ筆圧で書かれ、同じ種類の紙に印刷されています。作成日が違うはずなのに、紙の裁断跡まで一致している」
彼女は一枚の端を示した。小さな裂け目が、別の書類にも同じ形で残っていた。
「さらに、記録の順番が逆です。後から作った報告書を、過去の日付の束に綴じ直している」
「それだけで偽造と決めつけるのは危険です」
「決めつけてはいません。確認しているのです」
リゼルは鞄から、港町で作成した自分の解雇記録を取り出した。
「私が商会を解雇された日は、こちらに記載されています。セド商会の記録では、私が帳簿を盗んだ後に解雇されたことになっている。しかし、解雇通知の控えには、帳簿を返却したことが明記されている」
「その通知も、あなたが作ったのでは?」
「ならば、商会の印章の欠け方を確認してください」
彼女は印影を並べた。
「解雇通知の印章は、商会が使っていた正規のもの。そちらの失敗記録に押された印は、欠けた部分が左右逆です。複製した印を使ったのでしょう」
代理人の表情から笑みが消えた。
役人の一人が、慎重に記録を取り上げる。
「この一連の文書は、誰が提出したのですか」
「王都開発公社の調査部です」
「調査部の責任者は」
問いに、代理人はすぐ答えなかった。
その沈黙が、書類そのものより雄弁だった。
リゼルはさらに束の下から、一枚の紙を抜き取った。そこには、彼女が公証院で犯したとされる失敗が箇条書きにされている。
最後の項目に、見覚えのない文があった。
『契約書の改ざんを見抜く能力を私的利益のために使用した』
リゼルの指先が止まる。
これは失敗ではない。彼女の特技そのものを、罪に変えようとしている。
「この記録だけ、書式が違います」
「何がです」
「作成者は、私の能力を知っている。けれど、私が公証院で何をしていたかは知らない」
彼女は紙の末尾を指した。
「署名欄の位置が、古い公証院の様式です。私が採用された年には、すでにこの様式は廃止されていました。つまりこれは、私の在職中に作られた記録ではありません」
役人が息を呑んだ。
リゼルは紙を机に戻した。
「誰かが、私の過去を調べて、失敗だけを集めた。そして実際の日付に合わせることを忘れたのです」
ユアンの手が、机の下でわずかに握られた。
そのとき、廊下の向こうで扉が開いた。
「その記録を作成した人物なら、私が知っています」
静かな声が響く。
リゼルは振り返った。
公証院の院長が、数人の役人を従えて立っていた。かつて彼女を採用し、誰よりも早く彼女の特技を見抜いた男だった。
院長は彼女を見て、穏やかに微笑んだ。
「リゼル。君は昔から、記録の間違いを見つけるのが得意だったね」
「ええ」
リゼルは立ち上がった。
「だからこそ、誰が間違いを作ったのかも、見つけられます」
院長の笑みが、ほんの少しだけ崩れた。




