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捨てられた契約監査官は、辺境領主と水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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9/20

失敗だらけの記録の秘密

 王都に着いたのは、出発から二日目の夕刻だった。


 港町とは違う乾いた風が、石造りの大通りを吹き抜けている。高い建物の窓には公社や商会の紋章が掲げられ、人々は皆、急ぐように歩いていた。馬車を降りたリゼルは、胸の奥が固くなるのを感じた。


 この街には、彼女がまだ公証院に勤めていた頃の記憶がある。


 採用通知を受け取った日。初めて改ざんされた契約書を見抜いた日。そして、誰にも褒められず、むしろ余計なことをするなと叱られた日。


「無理に思い出さなくていい」


 隣でユアンが言った。


「思い出しているのではありません。記録されている場所に来ただけです」


 リゼルはそう答えたが、自分の声が少し硬いことに気づいていた。


 二人が案内されたのは、王都開発公社に隣接する臨時審査室だった。室内にはすでに数名の役人と、黒い外套を着た公社の代理人が待っていた。壁際の机には、分厚い書類の束が積まれている。


「リゼル嬢、久しぶりですな」


 代理人が書類をめくりながら言った。


「あなたの働きぶりは、こちらにも詳しく報告されています」


「それは光栄です」


「光栄?」


 男は薄く笑った。


「契約の写しを紛失した記録。公証印を押し間違えた記録。商会の帳簿を無断で持ち出した記録。上司への反抗的な態度。おまけに、今回の水路契約では原本を盗み、領主をそそのかして開発公社の事業を妨害した疑いまである」


 机の上に、一枚ずつ記録が並べられていく。


 リゼルは手を伸ばさなかった。触れなくても分かることがある。紙の厚み、綴じ方、インクの匂い。これらはすべて、同じ時期にまとめて作られた書類の特徴を持っていた。


「随分とたくさんありますね」


「長年の積み重ねですからな」


「では、確認させてください」


 リゼルは最も上にあった記録を指した。


「これは、私が公証院に採用された翌月に作成されたものですね」


「そうです」


「ですが、記録者の署名は、採用から半年後に異動した書記官のものです」


 代理人の指が止まった。


 リゼルは次の一枚を取った。


「こちらは、私が港町の商会で働いていた時期の失敗記録。日付は春の三日目。しかし添付された公証院の受付印は、冬季用の印章です。王都では冬の印章を春まで使うことがありますか」


 向かいの役人が顔を見合わせた。


「印章の切り替えは、年始からです」


「そうでしょうね」


 リゼルは紙を裏返した。


「それから、この報告書には『リゼルが本日、原本を紛失した』とあります。ところが、記録番号はその三日後に発行されたものです。後から番号を合わせたのでなければ、成立しません」


 室内の空気が変わった。


 ユアンは口を挟まず、彼女の隣に立っている。守るために前へ出るのではなく、彼女が示すものを皆に見せるための位置だった。


「細かな間違いでしょう」


 代理人が言った。


「人が作る記録に、多少の誤差はつきものです」


「一枚なら、そうでしょう」


 リゼルは書類の束を見下ろした。


「ですが、ここにある失敗記録は、すべて同じ筆圧で書かれ、同じ種類の紙に印刷されています。作成日が違うはずなのに、紙の裁断跡まで一致している」


 彼女は一枚の端を示した。小さな裂け目が、別の書類にも同じ形で残っていた。


「さらに、記録の順番が逆です。後から作った報告書を、過去の日付の束に綴じ直している」


「それだけで偽造と決めつけるのは危険です」


「決めつけてはいません。確認しているのです」


 リゼルは鞄から、港町で作成した自分の解雇記録を取り出した。


「私が商会を解雇された日は、こちらに記載されています。セド商会の記録では、私が帳簿を盗んだ後に解雇されたことになっている。しかし、解雇通知の控えには、帳簿を返却したことが明記されている」


「その通知も、あなたが作ったのでは?」


「ならば、商会の印章の欠け方を確認してください」


 彼女は印影を並べた。


「解雇通知の印章は、商会が使っていた正規のもの。そちらの失敗記録に押された印は、欠けた部分が左右逆です。複製した印を使ったのでしょう」


 代理人の表情から笑みが消えた。


 役人の一人が、慎重に記録を取り上げる。


「この一連の文書は、誰が提出したのですか」


「王都開発公社の調査部です」


「調査部の責任者は」


 問いに、代理人はすぐ答えなかった。


 その沈黙が、書類そのものより雄弁だった。


 リゼルはさらに束の下から、一枚の紙を抜き取った。そこには、彼女が公証院で犯したとされる失敗が箇条書きにされている。


 最後の項目に、見覚えのない文があった。


『契約書の改ざんを見抜く能力を私的利益のために使用した』


 リゼルの指先が止まる。


 これは失敗ではない。彼女の特技そのものを、罪に変えようとしている。


「この記録だけ、書式が違います」


「何がです」


「作成者は、私の能力を知っている。けれど、私が公証院で何をしていたかは知らない」


 彼女は紙の末尾を指した。


「署名欄の位置が、古い公証院の様式です。私が採用された年には、すでにこの様式は廃止されていました。つまりこれは、私の在職中に作られた記録ではありません」


 役人が息を呑んだ。


 リゼルは紙を机に戻した。


「誰かが、私の過去を調べて、失敗だけを集めた。そして実際の日付に合わせることを忘れたのです」


 ユアンの手が、机の下でわずかに握られた。


 そのとき、廊下の向こうで扉が開いた。


「その記録を作成した人物なら、私が知っています」


 静かな声が響く。


 リゼルは振り返った。


 公証院の院長が、数人の役人を従えて立っていた。かつて彼女を採用し、誰よりも早く彼女の特技を見抜いた男だった。


 院長は彼女を見て、穏やかに微笑んだ。


「リゼル。君は昔から、記録の間違いを見つけるのが得意だったね」


「ええ」


 リゼルは立ち上がった。


「だからこそ、誰が間違いを作ったのかも、見つけられます」


 院長の笑みが、ほんの少しだけ崩れた。

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