王都へ向かう契約
見知らぬ金色の印が押された封書は、翌朝になっても領主館の机の上に置かれていた。
蝋封に刻まれているのは、王都開発公社の紋章だった。港町の商会とは比べものにならないほど大きな組織で、王国内の街道、水路、鉱山開発を一手に引き受けている。その名を知らない者は、辺境の村にさえいない。
リゼルは封書を指先でなぞった。
紙は厚く、表面には細かな光沢がある。王都の公的な用紙に似せているが、繊維の揃い方がわずかに違っていた。公証院が使う紙なら、端に製造所を示す小さな透かしが入るはずだ。
「偽物ですか」
ユアンが向かいから尋ねた。
「いいえ。紙そのものは本物です。ただ、正式な裁定所の呼び出し状ではありません」
リゼルは封書を裏返した。
「王都開発公社が独自に送った出頭要請です。裁定所の名は使っていない。でも、こちらが拒めば不利益があるように読ませている」
「脅しということか」
「正確には、脅しに見える契約への誘導です」
同封された書面には、三日後までに王都へ出頭し、水路使用権に関する資料を提出するよう記されていた。応じた場合は、領地の開発計画について優先的な協議権を与えるともある。
だが、その協議権には小さな但し書きがついていた。
『出頭者は、開発公社の審査に従い、当該水路および付随する土地の利用許可について、必要な委任を行うものとする』
リゼルはその一文を指で叩いた。
「これに署名すれば、水路の調査を認めるだけでは済みません。土地の利用許可を、彼らに委ねることになります」
ユアンの眉間に皺が寄った。
「領民の畑までか」
「おそらく。開発公社は、水路沿いの土地をまとめて買い上げる計画を立てています」
その推測を裏付けるように、書面の末尾には地名が並んでいた。修繕を終えた水門の周辺、収穫祭で村人たちが集まった畑、そしてまだ水が届いていない北側の低地。
リゼルは胸の奥が冷えるのを感じた。
彼らは水路を必要としているのではない。水路を口実に、土地を手に入れようとしている。
「セド商会は、単独でこの話を動かしていたわけではないのですね」
「最初から、背後に別の相手がいた」
ユアンは書面を手に取った。
「セドがこの領地の水路契約を欲しがった理由も、これで分かる。商会が直接土地を奪うのではなく、開発公社へ渡す仲介役になるつもりだった」
「それなら、私たちが見つけた古い契約書は、彼らにとって邪魔です」
「だから君を盗人に仕立てた」
ユアンの声に怒りが混じった。
「私を黙らせ、水利権の原本を偽物にすり替え、領地を開発公社へ差し出す。筋は通っています」
「筋が通っているからこそ、厄介だ」
彼はしばらく黙り、窓の外を見た。
冬の気配を含んだ風が、修繕された水路の上を渡っていく。まだ水門の一部には新しい木材の色が残っている。村人たちは、来季の種を選び始めていた。今ここで権利を失えば、彼らの努力も計画も、すべて誰かの書類一枚で奪われる。
「王都へ行く」
ユアンは言った。
「呼び出しに従うのですか」
「従うのではない。こちらから出向いて、何を企んでいるのか確かめる。正式な裁定所に回答を出す前に、開発公社の名でどんな契約が作られているか調べたい」
リゼルは書面を見つめた。
王都には、彼女がかつて働いていた公証院がある。そこには、自分を採用してくれた院長もいる。港町を離れてから一度も戻っていない場所だった。
戻れば、過去と向き合うことになる。
「私も同行します」
口にした瞬間、ユアンが顔を上げた。
「危険だ。公社はセド商会より大きい。向こうには役人も弁護士もいる」
「だから行くのです。契約書を読む人が必要でしょう」
「君でなければならないのか」
「私でなければ、あなたは相手の言葉を信じて署名してしまうかもしれません」
少しだけ、ユアンの口元が動いた。
「否定できないな」
「それに、これは私の問題でもあります。私が盗人だという訴えを受けたまま、領地の外へ逃げたくありません」
「逃げるとは思っていない」
「ですが、王都ではそう見せようとするでしょう」
リゼルは自分の鞄を開いた。古い契約書の写し、資料庫の入退室記録、セド商会の解雇通知、そして村人たちから聞き取った記録を一冊ずつ確認する。
「王都へ行くなら、私たち自身の契約も見直しましょう」
「今の契約に問題があるのか」
「問題がないように、問題を残さないのです」
彼女は新しい紙を取り出し、題名を書いた。
『王都出頭および水路権利調査に関する共同委任契約』
ユアンが覗き込む。
「共同委任?」
「私があなたの代理人になるのではありません。あなたは領主として領地を代表し、私は記録監査役として契約と証拠を確認する。どちらか一方の判断だけで、資料の提出や権利の放棄をしないための契約です」
「私が君に、領主としての判断を縛られる」
「はい。私も、監査役として勝手に資料を持ち出さないと約束します」
ユアンは黙って条文を読み進めた。
やがて彼は、紙の余白を指で示した。
「報酬の項目が空いている」
「王都での働きに応じて、別途協議します」
「また君は、自分の分を後回しにするつもりか」
思いがけない言葉に、リゼルは顔を上げた。
「……以前より、ずいぶん細かいところを見るようになりましたね」
「君のせいだ」
ユアンはペンを取り、空欄に自分で書き入れた。
『共同調査に伴う報酬は、領地の水利権が確定した場合、監査役に領主と同等の決定権を持つ共同運営者として付与する。報酬額および権限の詳細は、帰還後に別途定める』
「同等の決定権は、今の私には重すぎます」
「君が重いと思うものを、私が勝手に軽くするつもりはない」
「領主として、後悔しませんか」
「領主だから決めるのではない。君と一緒にこの領地を守るために決める」
リゼルは返す言葉を探したが、見つからなかった。
窓の向こうで、朝の鐘が鳴った。村人たちが水路のそばへ集まり、修繕した堰の点検を始める時間だ。
彼女は契約書に署名した。
続いてユアンも、自分の名を記す。
二つの署名の間に、もう誰かが一方的に決めた条件はなかった。
出発は翌朝と決まった。
王都へ向かう馬車を手配するため、ユアンが使用人を呼びに行く。リゼルは机の上の書類をまとめながら、最後に金色の封蝋を見つめた。
遠くで、村人たちの笑い声が聞こえる。
この地に戻ってくるためにも、王都で真実を示さなければならない。
そして、誰がこの水路を奪おうとしているのか、その名を契約書の上に残さなければならなかった。




