盗人と呼ばれた元婚約者
収穫祭から三日後の朝、領主館の門前に見慣れない馬車が止まった。
黒塗りの車体には、港町で名を知られたセド商会の紋章が刻まれている。御者が降りるより早く、扉が開いた。
「リゼル・アーデンはいるか!」
響き渡った声に、館の使用人たちが一斉に振り返った。
降りてきたのは、仕立てのよい外套をまとったセドだった。かつて婚約者だった男は、以前よりも顔色が悪く、口元だけが妙に強張っている。その後ろには、商会の書記と、王都風の衣服を着た年配の男が二人続いていた。
リゼルが玄関へ出ると、セドは彼女を指差した。
「その女を捕らえろ。商会の契約書を盗み、領主をそそのかして商会の権利を奪っている」
使用人たちの間にざわめきが走った。
ユアンは少し遅れて姿を現した。手には、修繕計画の写しが握られている。
「ここは私の館だ。用件は順序立てて話せ」
「ユアン領主。これは王都の商事裁定所に提出する訴状の予告です。彼女は我が商会の機密書類を持ち出し、契約の一部を書き換えた」
年配の男が一歩進み出て、封蝋の押された書面を差し出した。
リゼルは受け取らなかった。見ただけで、紙の縁に残る薄い擦れが目に入った。封を切った形跡はない。だが、書面の中央には、何度も折り直した筋がある。
「その書面は、いつ作成されましたか」
「昨日だ」
「では、なぜ折り目に古い帳簿の煤が付着しているのでしょう」
男の眉がわずかに動いた。
「何を言っている」
「港の倉庫で使う帳簿台は、冬になると暖炉の煤が紙に付着します。商会の保管庫で整理されていた書類なら、そのような汚れ方はしません。これは古い書類を取り出し、昨日の日付で包み直したものです」
「言いがかりだ!」
セドが怒鳴った。
リゼルは彼を見た。婚約していた頃、彼は彼女が書類を読むのを嫌がった。細かな違いを指摘されるたびに、仕事の流れを止めるなと言った。だが今、彼が恐れているのは仕事の流れではなく、書類の中身だ。
「私が盗んだという契約書は、何という名称ですか」
「水路使用契約だ」
「番号は?」
セドは答えなかった。
「保管場所は?」
「そんなことは重要ではない!」
「盗難を訴えるなら、何を盗まれたのか特定する必要があります」
リゼルは淡々と続けた。
「契約書の作成日、署名者、保管番号。その三つを言えないなら、あなたは契約書を盗まれたのではなく、私を盗人と呼びに来ただけです」
ユアンの隣で、従僕が小さく息を呑んだ。
セドの顔が赤く染まる。
「貴様は商会の書類を持ち出した! 解雇された腹いせに、領主へ売り込んだのだろう。おまえが持っている水路契約も、商会の所有物だ」
「解雇された記録なら、こちらにあります」
リゼルは胸元から一枚の紙を取り出した。
先日の集会の後、商会の古い保管箱から見つけた解雇通知の写しだった。日付、理由、署名。そこにははっきりとこう記されている。
『リゼル・アーデンを、本日付で商会の業務および書類管理から除外する。以後、商会所蔵の文書を扱う権限を認めない』
セドは一瞬、言葉を失った。
「これは……正式なものではない」
「あなたの署名があります」
「印が違う!」
「では、商会の印章台帳を確認しましょう。私が在職中に使っていた印は、退職の三日前に返却されています。返却記録にも、あなたの立会い署名があります」
リゼルは別の紙を差し出した。
彼女は解雇された日から、商会の書類に触れていない。触れる必要もなかった。あの時、役立たずだと言われ、目の前で机を片づけさせられた。その屈辱を、忘れたことはない。
「私は商会を辞めた後、あなた方の契約書を一枚も持ち出していません」
「ならば、その水路契約はどこから出てきた!」
セドが叫ぶ。
「領主館の資料庫に保管されていた記録です。私が入手したのは、領主の正式な依頼を受け、領主館の鍵で入った場所からです」
リゼルはユアンを見た。
「契約書の管理責任者は、ユアン領主です。私が盗んだというなら、領主館から書類が消えた証拠を出してください」
セドはユアンに向き直った。
「領主様、騙されているのです。この女は人の弱みを見つけ、もっともらしい理屈で取り入るのが得意だ。商会でも、帳簿の細部をあげつらって――」
「その話は聞いた」
ユアンの声は低かった。
「彼女が帳簿の改ざんを指摘したため、君は彼女を解雇した。今、同じ彼女を盗人と呼んでいる」
「領主様、これは商会同士の問題です。辺境の領主が口を挟むことではありません」
「私の領地に関わる契約を巡る話だ。口を挟む権利はある」
ユアンはリゼルの前に立った。
守るために遮ったのではない。彼女の隣に並ぶために立ったのだと、リゼルには分かった。
「訴えるなら、正式な手続きを取れ。ここで人を侮辱し、脅し、私の館から追い出そうとするな」
年配の男が冷笑した。
「正式な手続きになれば、この領地の水路契約も調査されます。偽造と判断されれば、領主家はさらに苦しい立場になるでしょう」
「望むところだ」
ユアンは即答した。
「正しい記録なら、調査に耐える」
セドの視線がリゼルへ戻る。
「後悔するぞ。商会を敵に回せば、港町で誰もおまえを雇わない。おまえはまた、役立たずとして捨てられる」
胸の奥に、古い痛みが蘇った。
机を片づけた日の冷たい床。誰も彼女の説明を聞かなかったこと。婚約者だった男から向けられた、面倒な荷物を見るような目。
けれど、今の彼女の背後には、修繕を終えた水門がある。広場で笑った村人たちがいる。自分で作った契約書と、自分で選んだ仕事がある。
「捨てられたのではありません」
リゼルは静かに言った。
「私は、あなたの商会から出たのです。あなたが私の価値を知らなかったからといって、私の価値が消えるわけではありません」
セドの顔から、怒りだけでなく余裕まで消えた。
「訴状への回答は、三日以内に王都の裁定所へ送る」
ユアンが告げた。
「それまでに、あなた方が何を盗まれたのか、誰がいつ持ち出したのか、証拠を揃えてこい」
セドは何か言い返そうとしたが、結局、書面を握り潰すようにして馬車へ戻った。
馬車が門を出ていくのを見送った後、リゼルは長く息を吐いた。
「大丈夫か」
ユアンが尋ねる。
「ええ。少し手が冷たいだけです」
「なら、火のそばへ行こう」
「その前に、解雇記録を整理します。あの訴えは、契約書を取り戻すためではありません」
「脅しだな」
「はい。私たちが見つけたものを、見つけなかったことにさせたいのです」
ユアンは門の向こうを見つめた。
「それでも、退かない」
「私もです」
二人の間に、収穫祭で交わした菓子の甘い匂いが、まだわずかに残っていた。
やがて王都から、正式な呼び出しが届く。
その封蝋には、セド商会の紋章とは異なる、見知らぬ金色の印が押されていた。




