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捨てられた契約監査官は、辺境領主と水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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6/20

不器用な領主と収穫祭

 秋の風が、谷あいの村々から乾いた麦の匂いを運んできた。


 リゼルが領主館の広間に入ると、長机の上には村ごとの水路図と、聞き取りを終えた帳簿の写しが並べられていた。灰原村、南丘村、葦原村、石見村。四つの村を結ぶ水路は、途中で崩れた石垣に遮られ、古い水門のひとつは錆びた鎖で固く閉じられている。


「修繕に必要な石材は、近くの採石場から運べます。ただし、運搬には人手が要る。水門の板は作り直さなければなりません」


 リゼルが報告すると、ユアンは図面の端を指で押さえた。


「費用は」


「領主家の蔵から全額出せば、冬を越すための薪が足りなくなります」


「なら、税を前倒しで――」


「それでは、収穫の少ない家ほど苦しくなります」


 ユアンは口を閉じた。


 以前なら、彼は自分で決め、足りない分をどこかから借りようとしたかもしれない。だが今は、帳簿を見つめながら長いこと考えている。


「村ごとに負担を分ける。労働を出せる家は労働を、石材を持つ者は石材を。出せない者には、来季の水路維持で返してもらう」


「誰が配分を決めるのですか」


「君が決めればいい」


「私一人では公平性を証明できません」


 リゼルが即座に返すと、ユアンは少しだけ眉を下げた。


「……そう言うと思った」


「では?」


「明日の集会で、村人たちに決めてもらう」


 それは、ユアンにしては大きな変化だった。領主が命じるのではなく、村人の前で議論をする。しかも、彼は人前で話すのが得意ではない。


「集会に出席されるのですか」


「領主が出なくて、何を決める」


「前回のように、黙って座っているだけでは困ります」


「努力する」


「努力で済む話ではありません」


「……努力では足りないのか」


 あまりに真剣な顔で問われ、リゼルは返事に詰まった。ユアンは冗談を言ったつもりなどないらしい。


 翌日、四村合同の集会が開かれた。


 広場には、収穫を終えた麦束が積まれ、仮の屋台には焼き菓子や干し果物が並んでいる。水路の修繕を話し合うだけの予定だったが、誰かが「せっかくの収穫時期だ」と言い出し、いつの間にか小さな祭りのようになっていた。


 ユアンは広場の中央に立ち、集まった村人たちを見渡した。


「本日は、水路の修繕について――」


 そこで言葉が止まる。


 後ろにいたリゼルが小声で促した。


「まず、集まってくれたことへの礼を」


「分かっている」


「分かっている方の顔ではありません」


 ユアンは一度咳払いをした。


「……集まってくれて、感謝する」


 短い言葉だった。だが、広場の空気は少し和らいだ。


 南丘村の老女が手を挙げた。


「領主様、うちの村は石材を出せる。ただし、運べる若い者が少ない」


「灰原村から人を出そう」


 灰原村の農夫が答えた。


「その代わり、冬の水門番は俺たちの村で引き受ける」


「葦原村は板を作れる。水車場の番人が木を見てくれるだろう」


「石見村は記録の写しを保管する人を出す。水路の作業だけでなく、帳簿も必要だ」


 意見は次々に出た。リゼルは一つずつ書き留め、負担の内容と期限を確認した。ユアンは時おり口を挟もうとしたが、そのたびに誰かが先に話し始めるので、結局は黙って聞いていた。


 しばらくして、若い農夫が彼に尋ねた。


「領主様は、何を出すんです?」


 広場が静かになった。


 ユアンは視線を水路図へ落とした。


「領主家は、鉄具と板を買う費用を負担する。それから、修繕が終わるまで領主館の馬車を運搬に使う」


「領主様ご自身は?」


 別の声が飛んだ。


「働く。石を運ぶ」


 今度は、あちこちから笑いが起こった。


「その細い腕でかい?」


 老女がからかうと、ユアンは真顔で答えた。


「見た目よりは運べる」


「なら、明日の朝から来な」


「分かった」


 また笑いが広がる。


 リゼルは帳簿に視線を落としたまま、口元が緩むのを隠せなかった。領主が領民の前で笑われることを、ユアンは以前なら屈辱と受け取っただろう。けれど今は、笑いの中にある親しさを、少しずつ理解し始めている。


 集会の終わりに、老女がリゼルの腕を引いた。


「せっかくだ。あんたも何か食べな」


「私は記録を――」


「記録は逃げない。焼き菓子は逃げるよ」


 渡された菓子は、蜂蜜で固めた麦の塊だった。硬そうに見えたが、噛むと香ばしい甘さが広がる。


 隣ではユアンが、子どもから赤い実の入った飲み物を差し出されていた。


「領主様もどうぞ」


「これは酒か」


「少しだけ」


 ユアンは慎重に口をつけ、すぐに顔をしかめた。


「酸っぱい」


「文句を言うなら返して」


「言っていない」


「顔が言っています」


 リゼルが笑うと、ユアンは困ったように彼女を見た。


「君は、よく笑うようになった」


「そうでしょうか」


「最初に会った時は、書類を見て怒っていた」


「改ざんされていましたから」


「今も、怒ると怖い」


「褒めているつもりですか」


「……たぶん」


 不器用な答えに、リゼルはまた笑った。


 翌朝から修繕が始まった。


 村人たちは石を運び、板を削り、崩れた水路の底をさらった。ユアンも袖をまくり、重い石を抱えた。二つ目の石で腰を痛め、三つ目で足を滑らせ、四つ目を運ぶころには無言になっていた。


「領主様、無理はしないでください」


 リゼルが声をかけると、ユアンは息を切らしながら首を振った。


「皆が働いている」


「だからといって、倒れては困ります」


「君に叱られる方が困る」


 思いがけない言葉に、リゼルの手が止まった。


 ユアンは自分でも何を言ったのか分からないように、慌てて石へ視線を戻す。


「……監査役に倒れた領主を記録されたくないだけだ」


「そういうことにしておきます」


 数日後、水門の板が新しくはめ込まれた。


 まだ本格的な通水は先だ。だが、修繕の第一段階を終えた祝いとして、村人たちは広場に集まった。麦束を飾り、古い水路の歌を歌い、子どもたちは水桶を抱えて走り回った。


 ユアンは広場の端で、焼き菓子を三つも手にしていた。


「それほど気に入ったのですか」


「労働の後には必要だ」


「一つは私の分です」


「分かっている」


 彼は一番形の整った菓子を、リゼルへ差し出した。


「修繕計画をまとめた礼だ」


「礼なら、村人全員に」


「もちろん、全員にもある」


「では、これは?」


 ユアンは少し黙った。


「……君の分は、先に確保した」


 祭りの音が、風の向こうで弾んでいる。


 リゼルは菓子を受け取った。指先が触れたのは一瞬だったが、なぜか帳簿のどんな文字よりも鮮明に残った。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


「何に対してですか」


「まだ、うまく言えない」


 ユアンは水路の方を見た。


「だが、君が来てから、領地の人々が自分の声を聞くようになった。私も、聞くべき声を聞けるようになった」


 リゼルは答えず、祭りの広場を見渡した。


 収穫は多くない。水路もまだ完全には戻っていない。王都の大商会が何を企んでいるのかも、手がかりさえ掴めていない。


 それでもこの日、村人たちは自分たちで計画を立て、自分たちの手で石を積み、同じ火を囲んで笑っている。


 小さな祭りだった。


 けれど、閉ざされていた水門を開くには、これで十分な始まりだった。

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