不器用な領主と収穫祭
秋の風が、谷あいの村々から乾いた麦の匂いを運んできた。
リゼルが領主館の広間に入ると、長机の上には村ごとの水路図と、聞き取りを終えた帳簿の写しが並べられていた。灰原村、南丘村、葦原村、石見村。四つの村を結ぶ水路は、途中で崩れた石垣に遮られ、古い水門のひとつは錆びた鎖で固く閉じられている。
「修繕に必要な石材は、近くの採石場から運べます。ただし、運搬には人手が要る。水門の板は作り直さなければなりません」
リゼルが報告すると、ユアンは図面の端を指で押さえた。
「費用は」
「領主家の蔵から全額出せば、冬を越すための薪が足りなくなります」
「なら、税を前倒しで――」
「それでは、収穫の少ない家ほど苦しくなります」
ユアンは口を閉じた。
以前なら、彼は自分で決め、足りない分をどこかから借りようとしたかもしれない。だが今は、帳簿を見つめながら長いこと考えている。
「村ごとに負担を分ける。労働を出せる家は労働を、石材を持つ者は石材を。出せない者には、来季の水路維持で返してもらう」
「誰が配分を決めるのですか」
「君が決めればいい」
「私一人では公平性を証明できません」
リゼルが即座に返すと、ユアンは少しだけ眉を下げた。
「……そう言うと思った」
「では?」
「明日の集会で、村人たちに決めてもらう」
それは、ユアンにしては大きな変化だった。領主が命じるのではなく、村人の前で議論をする。しかも、彼は人前で話すのが得意ではない。
「集会に出席されるのですか」
「領主が出なくて、何を決める」
「前回のように、黙って座っているだけでは困ります」
「努力する」
「努力で済む話ではありません」
「……努力では足りないのか」
あまりに真剣な顔で問われ、リゼルは返事に詰まった。ユアンは冗談を言ったつもりなどないらしい。
翌日、四村合同の集会が開かれた。
広場には、収穫を終えた麦束が積まれ、仮の屋台には焼き菓子や干し果物が並んでいる。水路の修繕を話し合うだけの予定だったが、誰かが「せっかくの収穫時期だ」と言い出し、いつの間にか小さな祭りのようになっていた。
ユアンは広場の中央に立ち、集まった村人たちを見渡した。
「本日は、水路の修繕について――」
そこで言葉が止まる。
後ろにいたリゼルが小声で促した。
「まず、集まってくれたことへの礼を」
「分かっている」
「分かっている方の顔ではありません」
ユアンは一度咳払いをした。
「……集まってくれて、感謝する」
短い言葉だった。だが、広場の空気は少し和らいだ。
南丘村の老女が手を挙げた。
「領主様、うちの村は石材を出せる。ただし、運べる若い者が少ない」
「灰原村から人を出そう」
灰原村の農夫が答えた。
「その代わり、冬の水門番は俺たちの村で引き受ける」
「葦原村は板を作れる。水車場の番人が木を見てくれるだろう」
「石見村は記録の写しを保管する人を出す。水路の作業だけでなく、帳簿も必要だ」
意見は次々に出た。リゼルは一つずつ書き留め、負担の内容と期限を確認した。ユアンは時おり口を挟もうとしたが、そのたびに誰かが先に話し始めるので、結局は黙って聞いていた。
しばらくして、若い農夫が彼に尋ねた。
「領主様は、何を出すんです?」
広場が静かになった。
ユアンは視線を水路図へ落とした。
「領主家は、鉄具と板を買う費用を負担する。それから、修繕が終わるまで領主館の馬車を運搬に使う」
「領主様ご自身は?」
別の声が飛んだ。
「働く。石を運ぶ」
今度は、あちこちから笑いが起こった。
「その細い腕でかい?」
老女がからかうと、ユアンは真顔で答えた。
「見た目よりは運べる」
「なら、明日の朝から来な」
「分かった」
また笑いが広がる。
リゼルは帳簿に視線を落としたまま、口元が緩むのを隠せなかった。領主が領民の前で笑われることを、ユアンは以前なら屈辱と受け取っただろう。けれど今は、笑いの中にある親しさを、少しずつ理解し始めている。
集会の終わりに、老女がリゼルの腕を引いた。
「せっかくだ。あんたも何か食べな」
「私は記録を――」
「記録は逃げない。焼き菓子は逃げるよ」
渡された菓子は、蜂蜜で固めた麦の塊だった。硬そうに見えたが、噛むと香ばしい甘さが広がる。
隣ではユアンが、子どもから赤い実の入った飲み物を差し出されていた。
「領主様もどうぞ」
「これは酒か」
「少しだけ」
ユアンは慎重に口をつけ、すぐに顔をしかめた。
「酸っぱい」
「文句を言うなら返して」
「言っていない」
「顔が言っています」
リゼルが笑うと、ユアンは困ったように彼女を見た。
「君は、よく笑うようになった」
「そうでしょうか」
「最初に会った時は、書類を見て怒っていた」
「改ざんされていましたから」
「今も、怒ると怖い」
「褒めているつもりですか」
「……たぶん」
不器用な答えに、リゼルはまた笑った。
翌朝から修繕が始まった。
村人たちは石を運び、板を削り、崩れた水路の底をさらった。ユアンも袖をまくり、重い石を抱えた。二つ目の石で腰を痛め、三つ目で足を滑らせ、四つ目を運ぶころには無言になっていた。
「領主様、無理はしないでください」
リゼルが声をかけると、ユアンは息を切らしながら首を振った。
「皆が働いている」
「だからといって、倒れては困ります」
「君に叱られる方が困る」
思いがけない言葉に、リゼルの手が止まった。
ユアンは自分でも何を言ったのか分からないように、慌てて石へ視線を戻す。
「……監査役に倒れた領主を記録されたくないだけだ」
「そういうことにしておきます」
数日後、水門の板が新しくはめ込まれた。
まだ本格的な通水は先だ。だが、修繕の第一段階を終えた祝いとして、村人たちは広場に集まった。麦束を飾り、古い水路の歌を歌い、子どもたちは水桶を抱えて走り回った。
ユアンは広場の端で、焼き菓子を三つも手にしていた。
「それほど気に入ったのですか」
「労働の後には必要だ」
「一つは私の分です」
「分かっている」
彼は一番形の整った菓子を、リゼルへ差し出した。
「修繕計画をまとめた礼だ」
「礼なら、村人全員に」
「もちろん、全員にもある」
「では、これは?」
ユアンは少し黙った。
「……君の分は、先に確保した」
祭りの音が、風の向こうで弾んでいる。
リゼルは菓子を受け取った。指先が触れたのは一瞬だったが、なぜか帳簿のどんな文字よりも鮮明に残った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「何に対してですか」
「まだ、うまく言えない」
ユアンは水路の方を見た。
「だが、君が来てから、領地の人々が自分の声を聞くようになった。私も、聞くべき声を聞けるようになった」
リゼルは答えず、祭りの広場を見渡した。
収穫は多くない。水路もまだ完全には戻っていない。王都の大商会が何を企んでいるのかも、手がかりさえ掴めていない。
それでもこの日、村人たちは自分たちで計画を立て、自分たちの手で石を積み、同じ火を囲んで笑っている。
小さな祭りだった。
けれど、閉ざされていた水門を開くには、これで十分な始まりだった。




