特技を利用した公証院長
院長は崩れかけた笑みを、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻した。
「相変わらず、勇ましいことを言う。だが、記録の誤りを見つけることと、誰かを罪人にすることは別だよ」
「罪人にしたのは、私ではありません」
リゼルは机の上の書類を見た。
「この記録を書いたのは院長ですね」
室内に、短い沈黙が落ちた。
代理人が慌てて口を挟む。
「院長は、公証院の記録を管理する立場にある。作成したとしても、それが偽造だとは限らない」
「では、確認させてください」
リゼルは院長に視線を向けた。
「私が公証院に採用された年、古い様式の記録用紙はすべて廃棄されたはずです。廃棄台帳には、院長ご自身の署名があります」
「長い年月のことだ。記憶違いもある」
「記憶ではなく、台帳の話をしています」
彼女は鞄から小さな帳面を取り出した。王都へ来る前、港町の公証院から写しを取り寄せておいたものだった。
「廃棄された用紙は三百十二枚。ところが、ここにある失敗記録のうち、少なくとも九枚はその用紙と同じ繊維を含んでいる。廃棄されたはずの紙が、なぜ存在するのでしょう」
役人の一人が書類を持ち上げ、光に透かした。
院長は眉ひとつ動かさなかった。
「古い紙が、倉庫の隅から出てくることはある」
「その紙に、私の特技についての記述まであるのは偶然ですか」
リゼルの声は震えていなかった。
「私は公証院に入った初日、院長に呼ばれました。契約書の折り目やインクの濃淡から、書き換えられた箇所を見抜けるかと尋ねられた」
「職務上、適性を確かめただけだ」
「その日から、私は非公式の確認係にされました」
誰も口を挟まない。
「表向きは普通の受付業務。けれど、院長は毎週、誰にも見せない契約書を私の机に置いた。ここに署名を書き足した者がいる。印章をすり替えた者がいる。日付を改めた者がいる。私はそれを見抜き、印をつけて返した」
「それは、公証院のために働いたということだろう」
「いいえ。私が示した箇所を、院長は別の記録に利用した」
リゼルは一枚の報告書を取り上げた。
「改ざんを発見した契約の多くは、正式な調査に回されませんでした。代わりに、相手方との非公開の和解に使われた。公証院が問題を処理したという名目で、当事者から手数料を徴収していたのです」
院長の目が細くなった。
「根拠はあるのかね」
「この記録です」
彼女は報告書の余白を指した。
「私が付けた印は、契約の本文には使わない青いインクでした。ところが院長が作成した報告書には、その印の位置を示す小さな点が残っている。私の確認結果を写し取るため、下に報告書を重ねていたのでしょう」
リゼルは別の紙を重ねた。二枚の端に残った点が、ぴたりと重なった。
「私の特技は、改ざんを見抜くために使われたのではありません。誰がどこを改ざんしたかを院長が把握し、都合の悪い契約を隠すために利用された」
「証拠にならない」
院長の声が、初めて硬くなった。
「君は当時、正式な職員ではなかった。記録を扱う権限もなかった。勝手に書類へ印をつけたなら、それこそ職務違反だ」
「だから、私を解雇したのですね」
リゼルはまっすぐ院長を見た。
「私が、ある開発契約の中に同じ改ざんを見つけたから」
ユアンがわずかに顔を上げる。
リゼルは続けた。
「港町の水路契約と同じ種類の紙。同じ印章の欠け方。そして、契約を結んだはずの領主が知らない追加条項。あの契約の写しを見つけた私は、院長に報告した」
「覚えていないな」
「院長は言いました。『これは君が触れてはいけない記録だ』と」
その言葉を聞いた瞬間、院長の表情が変わった。
「そして翌日、私の机には『契約書を私的利益のために調査した』という注意書きが置かれていた。私は抗議した。すると、院長は私を公証院から追い出し、記録を消した」
「君が勝手に騒ぎ立てたからだ」
「ならば、なぜ今になって、私の特技を知る者だけが書ける記録が出てきたのですか」
答えは返らなかった。
役人の一人が、慎重な声で尋ねた。
「院長。開発公社へ提出した記録の原本は、どこにありますか」
「公証院の保管庫に」
「保管庫の入退室記録を確認しても?」
院長の沈黙が長くなる。
リゼルはその沈黙を聞きながら、胸の奥にあった古い痛みが、少しずつ形を変えていくのを感じていた。自分が役立たずだったのではない。役立つ力を、誰かに都合よく使われていたのだ。
ユアンが静かに言った。
「院長。あなたはリゼルの失敗を集めたのではない。彼女が見抜いた改ざんの記録を、彼女自身の罪に作り替えた」
「辺境領主が、公証院の内部事情に口を出すのかね」
「領民の土地を奪う契約に関わることなら、口を出します」
ユアンの声には、揺るがない重さがあった。
院長は彼を睨み、やがてリゼルへ向き直った。
「君は何も分かっていない。記録は、力のある者が使うものだ。正しいかどうかではなく、誰が信じさせるかで決まる。君のような者は、ただ間違いを見つければいい。意味を決めるのは、私たちだ」
「違います」
リゼルは書類の束を閉じた。
「記録の意味を決めるのは、そこに署名した人たちです。あなたが勝手に書き換えられるものではない」
院長の顔から、穏やかさが完全に消えた。
「それなら、君も同じ罪に問われる。非公式の調査を行い、記録を持ち出し、公証院の信用を傷つけた。今ここで認めれば、君だけは助けてもいい。辺境領の契約も、取り下げさせよう」
取引だった。
脅しであり、同時に誘いでもある。
リゼルの隣で、ユアンの手が動いた。しかし彼は前に出なかった。彼女の答えを待っていた。
リゼルは院長を見据えた。
「私を助ける必要はありません」
「何だと?」
「私は、正しい記録を示しているだけです。あなたがそれを罪と呼ぶなら、正規の審理で主張してください」
彼女は一歩、机から離れた。
「私は逃げません。ですが、あなたの取引にも応じません。私の名を、あなたの都合のいい記録に戻すつもりはない」
院長の背後で、役人たちが視線を交わした。
その瞬間、リゼルは悟った。
過去を消すために戦うのではない。過去に書き込まれた嘘を、これ以上、誰にも使わせないために戦うのだ。
院長はやがて、低い声で言った。
「後悔するぞ」
「それは、改ざんした人が言う言葉ではありません」
リゼルはユアンと並んで、審査室の中央に立った。
次に開かれるのは、誰かが用意した秘密の部屋ではない。
すべての記録を、皆の前で確かめるための審理だった。




