罪を認めろという取引
審理の日程が決まったのは、翌朝だった。
王都の記録審査局が開く正式な場で、リゼルと開発公社、そして公証院長が、それぞれの証拠を提出する。傍聴も認められる公開審理だという。
決定を告げた役人が退室すると、審査室には重い静けさが残った。
院長はまだ席を立たず、指先で机を二度叩いた。
「公開審理など、君にとって有利になるとは限らない」
「私に有利かどうかで決めるものではないでしょう」
「正義を語るのは簡単だ。だが、審理では記録が人を裁く。君が過去に提出した報告書には、正式な署名がない。手続きに反した調査だったことは動かせない」
「それなら、その点も審理で確認してもらいます」
「君は分かっていない」
院長は声を落とした。
「君が今、罪を認めれば、すべて丸く収まる。君が私の指示を誤解し、独断で記録を調査した。そう認めるだけでいい。私は君の責任を軽くするよう証言する。開発公社にも、辺境領の水路契約を見直すよう伝えよう」
リゼルは黙って院長を見た。
領地へ戻れば、荒れた畑が待っている。水路を開けるために集めた資金も、村人たちの期待も、まだ細い糸でつながっているだけだ。審理が失敗すれば、公社は契約を盾に領地を押さえ、ユアンは領主として責任を問われる。
そのすべてを、院長は知っている。
だからこそ、差し出された取引は甘く見えた。
甘く見えるものほど、飲み込めば喉に刺さる。
「私が罪を認めれば、領地が救われるのですか」
「少なくとも、君が争い続けるよりはな」
「では、契約を見直すという約束を、書面にしてください」
院長の眉がわずかに動いた。
「今ここで、ですか」
「はい。誰が、何を、いつまでに行うのか。公証院長の署名と、公社の代理人の署名を添えて」
「私を信用していないのかね」
「記録を扱う方ですから、口約束を信用する理由がありません」
扉の近くにいたユアンが、かすかに息を吐いた。笑ったのかもしれない。しかし、リゼルは院長から目を逸らさなかった。
院長はゆっくり立ち上がった。
「君は本当に変わった。以前は、私の言葉を疑うことさえできなかったのに」
「以前の私は、疑うための記録を持っていませんでした」
「それでも、君は公証院に拾われた。身寄りもなく、仕事もなかった君を、私が机の前に座らせた」
「ええ。だから、長い間、恩を返さなければならないと思っていました」
リゼルは鞄から一枚の紙を取り出した。
「でも、恩と服従は同じではありません」
紙には、彼女が公証院を退職した際に提出した異議申立書の写しがあった。院長は受理を拒んだが、港町の公証院に送った控えが残っている。そこには、改ざんされた契約の特徴と、院長から口止めを受けた経緯が記されていた。
「あなたは私を拾ったのではなく、使える力を見つけただけです」
院長の顔が曇った。
「その力を使って、君は多くの契約を救った。私がいなければ、それもできなかった」
「私の力をどう使うかを決めるのは、私です」
その言葉を口にすると、胸の奥で何かが切れた。
ずっと縛っていた細い糸だった。
院長はしばらく彼女を見つめ、それから書類を指で押し戻した。
「ならば、好きにすればいい。君の罪は、君自身の署名によって明らかになる」
「私の署名は、事実を確認したものです。あなたの罪を隠すためのものではありません」
「審理で同じことが言えるかな」
「言います」
「後悔するぞ」
「後悔するのは、真実を記録しなかったときです」
院長は何も言わず、扉へ向かった。だが、取っ手に手をかけたところで振り返る。
「ユアン卿も、よく考えることだ。彼女を庇えば、君の領地まで失う」
ユアンは静かに答えた。
「庇っているのではありません。彼女の証言を、私が正しいと判断しているだけです」
「判断を誤れば、領主の座を失うかもしれない」
「それでも、誤った記録の上に領地を残すつもりはありません」
院長は冷たい目を残し、部屋を出ていった。
扉が閉まると、リゼルはようやく息を吐いた。指先が震えていることに気づき、膝の上で強く握る。
「大丈夫か」
ユアンの声が近くにあった。
「大丈夫ではありません」
正直に言うと、彼は驚いたように目を瞬いた。
「怖いです。院長が何を出してくるのか分からない。私の過去を、また別の形に書き換えられるかもしれない」
「そうだな」
「励まさないのですか」
「嘘の励ましは、記録より役に立たない」
ユアンは少し考え、続けた。
「怖いままでも、審理には立てる。君は今までそうしてきた」
リゼルは彼を見た。
「あなたは、私が罪を認めたほうが領地を救えると思いますか」
「思わない」
「即答ですね」
「君が罪を認めれば、領地は一時的に静かになるかもしれない。だが、同じ契約を使って、別の領地も奪われる。水路を開けても、次に閉じられる場所が生まれる」
ユアンは机の上の書類を見下ろした。
「俺は、静けさを平穏と勘違いしていた。何も言わずに便宜を図れば、領地を守れると思っていた」
その言葉の意味を、リゼルはまだ知らなかった。
けれど、ユアンの表情には、院長の取引とは別の重さがあった。
「その話は、審理の前に聞かせてください」
「ああ。隠していたことを話す」
「全部ですか」
「全部だ」
リゼルは頷いた。
「では、私もあなたを責めます」
「分かっている」
「責めたうえで、協力するか決めます」
ユアンはまっすぐ彼女を見た。
「それでいい」
窓の外では、王都の鐘が正午を告げていた。
審理まで、残された時間は少ない。院長は新しい記録を用意し、公社は偽りの証人を探すだろう。こちらにある証拠も、すべてが審理で認められるとは限らない。
それでも、リゼルは机の上に紙を広げた。
改ざんされた日付。廃棄されたはずの用紙。重なった青い印。消された異議申立書。
一つずつ、順番に並べていく。
誰かに罪を認めさせるためではない。
誰かの罪を、誰かの都合で書き換えさせないために。
リゼルは一番上の紙に、審理で確認すべき事項を書き始めた。
その筆先は、もう震えていなかった。




