↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
捨てられた契約監査官は、辺境領主と水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/20

隠し事をしない相棒

 審理の前夜、ユアンは宿の一室にリゼルを呼んだ。


 窓の外では、王都の灯りが細い川のように流れている。港町の夜とは違い、潮の匂いはない。代わりに、馬車の車輪と人々の声が絶えず響いていた。


 ユアンは机の上に一冊の薄い帳簿を置いた。


「これを見てほしい」


 表紙には、辺境領の開発許可に関する記録、とだけ書かれていた。リゼルは手袋を外し、帳簿に触れた。


 紙の中に、異物の感触があった。


 記憶を隠すように重ねられた頁。破られた跡を別の糊で継いだ箇所。そして、誰かが急いで書き直した文字。


「あなたの署名があります」


「ああ」


「公社への便宜を認める書面ですね」


「そうだ」


 リゼルは帳簿を閉じた。


「話してください」


 ユアンは椅子に座らず、窓辺に立ったまま答えた。


「三年前、領地の鉱山道を修繕するため、王都の開発公社から資金を借りた。領地の税収だけでは、道も水路も直せなかった」


「借款契約に、水路の権利を譲る条項があったのですか」


「最初の契約にはなかった。公社は鉱山道の使用権と引き換えに、資金を出すと言った。俺は契約を確認し、署名した」


「その後、条項が追加された」


「おそらくな」


「おそらく?」


 リゼルの声が冷えた。


 ユアンは振り返った。


「俺が署名した後、公社の代理人から、追加の覚書を渡された。領地の水路を改修するために必要な手続きだと言われた。俺は内容をすべて確かめず、領主の印を押した」


「どうして確かめなかったのですか」


「資金が止まれば、冬を越せない村があった。家畜の飼料も、道の修繕も、すぐに必要だった。俺は公社が提示した条件を受け入れれば、領民を救えると思った」


「思った、ではなく、そう信じたかったのでしょう」


 ユアンの眉がわずかに動いた。


「その通りだ」


 言い訳をしないことが、かえって腹立たしかった。


 リゼルは帳簿を開き、問題の頁を指で示した。


「この覚書には、領主の印が押されています。ですが、日付が本契約より二週間前になっている。追加されたものなら、日付は後でなければおかしい」


「俺は、その矛盾に気づかなかった」


「あなたが気づかなかったせいで、領民の水利権が奪われた」


「分かっている」


「分かっているなら、なぜ今まで黙っていたのですか」


 ユアンはすぐに答えなかった。


 窓の外を一台の馬車が通り過ぎ、石畳に乾いた音を残していく。


「怖かったからだ」


 意外な言葉だった。


「領主が失敗を認めれば、領民は見捨てられる。俺が公社との契約を否定すれば、借金の返済を迫られ、領地は差し押さえられる。だから、契約の存在を隠し、古い水路の規約だけを頼りに時間を稼ごうとした」


「私にも、言わなかった」


「君が来たときには、まだ証拠が足りなかった。君に知られれば、俺が責任を逃れようとしていると思われる。それに……」


「それに?」


「君に失望されたくなかった」


 リゼルは言葉を失った。


 こんな状況で、そんな個人的な感情を口にするとは思っていなかった。


「失望されるのが怖くて、領民に隠していたことを、私にも隠したのですか」


「そうだ」


「愚かです」


「ああ」


「領主としても、相棒としても、最初から話すべきでした」


「ああ」


 ユアンはまっすぐ彼女を見た。


「だから、君に責められるために話した」


 リゼルは帳簿の端を撫でた。紙は冷たかった。けれど、触れたことで分かる改ざんの跡よりも、今はユアンの沈黙のほうが重く感じられた。


「私は、あなたが完璧だとは思っていません」


「知っている」


「あなたは、黙っていれば誰かを守れると思い込んでいる。実際には、判断する権利を相手から奪っているだけです」


「分かっている」


「それでも、明日の審理では協力します」


 ユアンは目を見開いた。


「いいのか」


「条件があります」


「何でも言ってくれ」


「今後、隠し事をしないこと。都合の悪い契約も、過去の失敗も、私が触れる前に話してください。私を守るためという理由も認めません」


 リゼルは一度息を吸った。


「私は庇われるために、ここにいるのではありません。あなたと同じ情報を持ち、同じ責任を引き受けるためにいるのです」


 ユアンはゆっくりと頷いた。


「約束する」


「口約束は信用しません」


 リゼルは机から一枚の紙を取り出した。審理で確認すべき事項を書いた紙の裏に、条件を書き足す。


 ユアンはそれを読み、羽根ペンを取った。


「署名すればいいのか」


「あなたの意思で、です」


 彼は自分の名を書いた。ユアン・アルヴェル。その文字は、領地の契約書で見たものより、少しだけ強く見えた。


 リゼルも隣に署名する。


 二つの名前が、同じ紙の上に並んだ。


「これで、相棒ですか」


 ユアンが尋ねた。


「これまでも相棒だったでしょう」


「君は、俺を責めながら協力すると言った」


「責めるべきことを責めるのは、協力をやめることではありません」


 リゼルは帳簿を閉じ、明日の証拠をまとめ始めた。


「あなたが公社に便宜を図った事実は、審理で隠さず話します。ただし、追加条項の改ざんを知らなかったことも、資金の使途も、すべて記録で示す。あなたの失敗を消すのではなく、誰がそれを利用したのかを明らかにします」


「領主として、俺は罪を問われるかもしれない」


「そのときは、あなた自身の署名で答えてください」


「君は厳しいな」


「あなたが隠すからです」


 ユアンは、ほんの少し笑った。


「なら、もう隠さない」


 部屋の外で、王都の鐘が深夜を告げた。


 審理は明日だ。院長も、公社も、リゼルの過去を利用してくるだろう。ユアンの署名も、彼らにとっては攻撃の材料になる。


 それでも、リゼルは不思議と恐ろしくなかった。


 真実は、誰か一人の潔白を作るためにあるのではない。失敗も、迷いも、隠された意図も、すべてを同じ光の下に置くためにある。


 リゼルは最後の書類を綴じた。


「明日は、二人で話しましょう」


「ああ」


「一人で領地を背負わないでください」


「君も、一人で真実を背負うな」


 その言葉に、リゼルは顔を上げた。


 ユアンはもう、彼女の前に立って守るだけの人ではなかった。弱さを認め、責任を分け合おうとしている。


 リゼルは新しい紙を一枚取り、表題を書いた。


 ――審理提出資料、共同確認済み。


 その下に、二人の署名が並んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。