隠し事をしない相棒
審理の前夜、ユアンは宿の一室にリゼルを呼んだ。
窓の外では、王都の灯りが細い川のように流れている。港町の夜とは違い、潮の匂いはない。代わりに、馬車の車輪と人々の声が絶えず響いていた。
ユアンは机の上に一冊の薄い帳簿を置いた。
「これを見てほしい」
表紙には、辺境領の開発許可に関する記録、とだけ書かれていた。リゼルは手袋を外し、帳簿に触れた。
紙の中に、異物の感触があった。
記憶を隠すように重ねられた頁。破られた跡を別の糊で継いだ箇所。そして、誰かが急いで書き直した文字。
「あなたの署名があります」
「ああ」
「公社への便宜を認める書面ですね」
「そうだ」
リゼルは帳簿を閉じた。
「話してください」
ユアンは椅子に座らず、窓辺に立ったまま答えた。
「三年前、領地の鉱山道を修繕するため、王都の開発公社から資金を借りた。領地の税収だけでは、道も水路も直せなかった」
「借款契約に、水路の権利を譲る条項があったのですか」
「最初の契約にはなかった。公社は鉱山道の使用権と引き換えに、資金を出すと言った。俺は契約を確認し、署名した」
「その後、条項が追加された」
「おそらくな」
「おそらく?」
リゼルの声が冷えた。
ユアンは振り返った。
「俺が署名した後、公社の代理人から、追加の覚書を渡された。領地の水路を改修するために必要な手続きだと言われた。俺は内容をすべて確かめず、領主の印を押した」
「どうして確かめなかったのですか」
「資金が止まれば、冬を越せない村があった。家畜の飼料も、道の修繕も、すぐに必要だった。俺は公社が提示した条件を受け入れれば、領民を救えると思った」
「思った、ではなく、そう信じたかったのでしょう」
ユアンの眉がわずかに動いた。
「その通りだ」
言い訳をしないことが、かえって腹立たしかった。
リゼルは帳簿を開き、問題の頁を指で示した。
「この覚書には、領主の印が押されています。ですが、日付が本契約より二週間前になっている。追加されたものなら、日付は後でなければおかしい」
「俺は、その矛盾に気づかなかった」
「あなたが気づかなかったせいで、領民の水利権が奪われた」
「分かっている」
「分かっているなら、なぜ今まで黙っていたのですか」
ユアンはすぐに答えなかった。
窓の外を一台の馬車が通り過ぎ、石畳に乾いた音を残していく。
「怖かったからだ」
意外な言葉だった。
「領主が失敗を認めれば、領民は見捨てられる。俺が公社との契約を否定すれば、借金の返済を迫られ、領地は差し押さえられる。だから、契約の存在を隠し、古い水路の規約だけを頼りに時間を稼ごうとした」
「私にも、言わなかった」
「君が来たときには、まだ証拠が足りなかった。君に知られれば、俺が責任を逃れようとしていると思われる。それに……」
「それに?」
「君に失望されたくなかった」
リゼルは言葉を失った。
こんな状況で、そんな個人的な感情を口にするとは思っていなかった。
「失望されるのが怖くて、領民に隠していたことを、私にも隠したのですか」
「そうだ」
「愚かです」
「ああ」
「領主としても、相棒としても、最初から話すべきでした」
「ああ」
ユアンはまっすぐ彼女を見た。
「だから、君に責められるために話した」
リゼルは帳簿の端を撫でた。紙は冷たかった。けれど、触れたことで分かる改ざんの跡よりも、今はユアンの沈黙のほうが重く感じられた。
「私は、あなたが完璧だとは思っていません」
「知っている」
「あなたは、黙っていれば誰かを守れると思い込んでいる。実際には、判断する権利を相手から奪っているだけです」
「分かっている」
「それでも、明日の審理では協力します」
ユアンは目を見開いた。
「いいのか」
「条件があります」
「何でも言ってくれ」
「今後、隠し事をしないこと。都合の悪い契約も、過去の失敗も、私が触れる前に話してください。私を守るためという理由も認めません」
リゼルは一度息を吸った。
「私は庇われるために、ここにいるのではありません。あなたと同じ情報を持ち、同じ責任を引き受けるためにいるのです」
ユアンはゆっくりと頷いた。
「約束する」
「口約束は信用しません」
リゼルは机から一枚の紙を取り出した。審理で確認すべき事項を書いた紙の裏に、条件を書き足す。
ユアンはそれを読み、羽根ペンを取った。
「署名すればいいのか」
「あなたの意思で、です」
彼は自分の名を書いた。ユアン・アルヴェル。その文字は、領地の契約書で見たものより、少しだけ強く見えた。
リゼルも隣に署名する。
二つの名前が、同じ紙の上に並んだ。
「これで、相棒ですか」
ユアンが尋ねた。
「これまでも相棒だったでしょう」
「君は、俺を責めながら協力すると言った」
「責めるべきことを責めるのは、協力をやめることではありません」
リゼルは帳簿を閉じ、明日の証拠をまとめ始めた。
「あなたが公社に便宜を図った事実は、審理で隠さず話します。ただし、追加条項の改ざんを知らなかったことも、資金の使途も、すべて記録で示す。あなたの失敗を消すのではなく、誰がそれを利用したのかを明らかにします」
「領主として、俺は罪を問われるかもしれない」
「そのときは、あなた自身の署名で答えてください」
「君は厳しいな」
「あなたが隠すからです」
ユアンは、ほんの少し笑った。
「なら、もう隠さない」
部屋の外で、王都の鐘が深夜を告げた。
審理は明日だ。院長も、公社も、リゼルの過去を利用してくるだろう。ユアンの署名も、彼らにとっては攻撃の材料になる。
それでも、リゼルは不思議と恐ろしくなかった。
真実は、誰か一人の潔白を作るためにあるのではない。失敗も、迷いも、隠された意図も、すべてを同じ光の下に置くためにある。
リゼルは最後の書類を綴じた。
「明日は、二人で話しましょう」
「ああ」
「一人で領地を背負わないでください」
「君も、一人で真実を背負うな」
その言葉に、リゼルは顔を上げた。
ユアンはもう、彼女の前に立って守るだけの人ではなかった。弱さを認め、責任を分け合おうとしている。
リゼルは新しい紙を一枚取り、表題を書いた。
――審理提出資料、共同確認済み。
その下に、二人の署名が並んでいた。




