失われた原本の一頁
紙片を拾い上げたリゼルの指先に、ざらついた古紙の感触が残った。
――水は、土地を耕す者すべての共有に属す。
短い一行だった。けれど、その言葉には、南の三軒だけに水路を譲ったという札を根元から覆す力があった。
「共有に属す、か」
ユアンが灯りを掲げ、紙片を覗き込む。
「古い領主印がある。だが、これだけでは条文の一部にすぎない」
「だからこそ、続きを探します」
リゼルは周囲を見回した。
廃資料庫の棚は、乱雑に見えて実際にはいくつかの区画に分かれていた。水路図、租税台帳、境界標の記録。棚の側面には、かつて貼られていた分類札の跡が残っている。中央の棚だけ、床に積もった埃が途切れていた。
「誰かが最近、ここを探っています」
彼女が示した場所には、靴跡と擦れた木屑があった。棚の最下段に収められた箱だけが、ほかより新しく動かされている。
ユアンが箱を引き出した。蓋は固く閉じられていたが、錠はかかっていなかった。
中にあったのは、虫食いだらけの地図と、端を切り取られた分厚い冊子だった。
「原本か?」
「表紙がありません。けれど、綴じ糸の間隔と紙質は、先ほどの契約書よりずっと古い」
リゼルは冊子を開いた。頁の多くは湿気で波打ち、文字も薄れている。それでも、いくつかの文は読めた。
水路の維持は、各村の耕作者が共同で負担すること。
水門の開閉は、季節ごとの寄り合いで定めること。
土地の売買によって、水を受ける権利を失わせてはならないこと。
そして、頁の下部には村の名が列挙されていた。灰原、南丘、葦原、石見。今も領内に残る村々の名だった。
「水利権は土地の所有者だけにあるのではありません」
リゼルは一つずつ文字を追った。
「耕す者すべてにある。借りている畑でも、共同で水路を維持する限り、排除されない」
ユアンは黙って冊子を見つめた。
やがて彼は、低い声で言った。
「俺の父の時代には、まだこの取り決めが生きていたはずだ」
「ならば、なぜ今は南の三軒だけが水を得ているのでしょう」
「領主家が忘れたからだ。あるいは、忘れたことにされた」
その言葉に、リゼルは返事をしなかった。
忘却は、改ざんよりも扱いやすい。誰かが嘘を書き込まなくても、古い記録を見えない場所へ押し込み、問いただす者を黙らせれば、権利は少しずつ消えていく。
冊子の後ろには、薄い封筒が挟まっていた。封蝋は割れている。中から出てきたのは、数枚の写しと、短い覚書だった。
『原本は二部作成。一部は領主家、一部は水路組合が保管する。組合側の原本は、旧水車場の石蔵へ移すこと』
「石蔵?」
ユアンが問う。
「水車場の下に、地下室があるのかもしれません」
リゼルは床を見た。棚の陰に、石の継ぎ目がある。杖の先で叩くと、ほかより低い音が返ってきた。
ユアンとオルドが棚を動かすと、床板の下から鉄の輪が現れた。引き上げると、狭い階段が地下へ続いている。
地下室には、崩れた木箱が一つだけ残っていた。蓋を開けると、濡れて固まった紙の束が入っている。大半は判読できなかったが、中央に挟まれた一枚だけは乾いていた。
そこには、村ごとの代表者名と、共同水路の維持費を納めた印が並んでいた。
貴族でも商人でもない、農夫や織工や粉ひき職人の名だった。
リゼルは最後の行に目を止めた。
『この記録を、後の領主は水路を使うすべての者に開示すべし』
彼女の胸の奥で、何かが静かに定まった。
「これを公表します」
ユアンが顔を上げる。
「証拠として使えるか?」
「使えるように整えます。写しを作り、紙質と印章を確認し、記録の出所を明記する。誰かが都合よく解釈できない形にするのです」
「君は、この領地の記録監査を請け負っただけだ」
「はい。ですから、監査役として提案します」
リゼルは濡れた束を抱え直した。
「水路契約に関する全記録を回収し、改ざんの有無を調べ、原本と写しを分けて保管する。領主家だけでなく、村々にも閲覧できる記録を置く。私にその権限をください」
ユアンはしばらく彼女を見ていた。
薄暗い地下室で、彼の横顔には疲労と迷いが浮かんでいる。けれど、今度は逃げなかった。
ユアンは腰の短剣を抜き、柄に結ばれた領主印の革袋を外した。中から印章を取り出し、地下室の石台に置く。
「ここで正式に任命する」
彼は一語ずつ、はっきりと言った。
「リゼル・アーデン。灰原領の記録監査役として、水路および土地契約に関する調査、保全、写しの作成、関係者への開示を任せる。俺の命令であっても、記録に反するものは拒んでいい」
オルドが目を見開いた。
リゼルはユアンを見返した。
「報酬と任期は?」
「先に契約書を作ってくれ」
「権限の範囲は?」
「必要な範囲を、君が定めていい」
それは、以前の彼なら決して口にしなかった言葉だった。
リゼルは小さく息を吸った。
「承知しました。ただし、記録を隠した者が領主家の内外を問わず判明した場合、調査対象から外さないこと」
「約束する」
「では、受けます」
彼女は石台の上の印章を取り、掌の中で重さを確かめた。
地下室を出るころには、霧が晴れ始めていた。廃資料庫の窓から差し込んだ朝の光が、破れた冊子の頁を照らす。
そこには、失われた原本の一頁が残っていた。
そしてその頁は、領主家のものでも、商会のものでもなかった。水を必要とする者たちが、長い年月をかけて守ってきた約束そのものだった。




