閉ざされた水路と廃資料庫
翌朝、灰原領は薄い霧に包まれていた。
霧といっても港町の湿った白さではない。乾いた土の上に冷気が滞り、枯れた草の間に灰色の膜を張っているだけだった。リゼルは夜明け前に目を覚ますと、前夜に書いた調査項目を確かめ、オルドを伴って屋敷の記録蔵へ向かった。
記録蔵は館の西側にあった。厚い扉には錆びた錠がかかり、軒下には蜘蛛の巣が幾重にも張っている。
「ここがすべてですか」
リゼルが尋ねると、オルドは鍵束を鳴らした。
「現存する記録は、です。古いものは別の場所に移されました」
「どこへ?」
「廃資料庫です」
鍵を選びながら、オルドは淡々と答えた。
「先代の頃、記録蔵が一度水漏れを起こしましてね。古い台帳や地図を、使われなくなった資料庫へ移したのです。屋敷の北側、旧水車場の裏にあります」
「鍵は?」
「長く使われていません」
「つまり、誰も管理していない?」
「そういうことになります」
錠が外れ、重い扉が開いた。
中には、棚いっぱいの帳簿が並んでいた。だが水路契約の原本は見つからなかった。領主印の保管簿も、三年前の頁だけが切り取られている。リゼルは紙の切断面に指を滑らせた。
切り取られたのは一度ではない。最初に破り、後から残った繊維を刃物で整えている。
「誰かが、見つかることを前提に隠したようですね」
ユアンが棚の向こうから顔を出した。
「何が分かる」
「領主印の保管簿は、なくなったのではありません。なくしたように見せられています。切り取った頁の前後を見てください」
彼女は帳簿を机に置いた。
「三年前の春から秋まで、記録の余白が不自然に広い。ここには本来、印章を使った日付と用途を書き足す欄があったはずです。誰かが頁だけでなく、前後の記録も確認してから処分したのでしょう」
「水路契約を作るために?」
「少なくとも、契約の成立日を隠すためです」
そのとき、外から怒鳴り声が聞こえた。
館の門前に、数人の農民が集まっている。先頭に立つ中年の女が、ユアンに向かって激しく手を振っていた。
「また上の水門を閉めたんだよ! 麦畑へ流す水を、南の三軒が全部せき止めている!」
「管理人に命じられたのか」
「商会の印がついた札を見せられた。水路の使用権はあの三軒にあるって」
女は懐から、折り畳まれた紙片を取り出した。リゼルが受け取ると、紙には簡単な地図と、農家三軒の名が記されていた。
だが、紙の端に押された印はひどく粗い。墨のにじみ方も、契約書にあった転写印と同じだった。
「この札は、いつ渡されたのですか」
「去年の秋だよ。水路番が持ってきた」
「水路番は、今どこに?」
「南門の詰め所にいるはずだ」
リゼルは紙をユアンへ返した。
「すぐに水門を開けられますか」
ユアンは苦い顔をした。
「開ければ、契約違反だと訴えられる」
「閉めたままでも、農民の収穫が失われれば領主の責任です。どちらにせよ、誰かが代償を払うことになる」
ユアンは門前の農民たちを見た。
「水門を確認する。リゼル、君も来るか」
「もちろんです。現場を見ずに記録だけを信じるほど、私は楽観的ではありません」
南門へ向かう道の途中、リゼルは水路の分岐を見つけた。主水路から三本の細い溝が伸び、そのうち二本には新しい土が盛られている。水の流れを特定の畑へ向けるため、誰かが溝を埋め替えたのだ。
水路番の男は、商会から預かったという札を見せた。
「領主様の署名入りだ。俺は命令に従っただけだ」
リゼルは札を受け取り、裏返した。
「この紙は去年の秋に作られたものではありません」
「なぜ分かる」
「紙の表面に、保管棚の埃が付着しています。しかも、折り目の内側だけが新しい。作成後すぐに折られたのではなく、長く平らに保管され、最近になって折られたものです」
水路番の男が黙り込む。
「誰に渡されたのですか」
「……オルド様からだ」
背後で、オルドが息を呑んだ。
ユアンは彼を振り返ったが、執事はすぐに頭を下げた。
「私は命令書を届けただけです。内容が偽りだとは知りませんでした」
リゼルは札の地図を見つめた。三軒の農家は、いずれも南側の乾きやすい土地にあった。水路の分岐を独占すれば、他の畑は枯れる。だが、その配置には別の意図もあるように思えた。
「この札に書かれた三軒だけが、水利権を持つと?」
「商会はそう言っている」
「では、それ以前の記録を探しましょう。使用権が本当に譲渡されたなら、譲渡前の水路台帳が残っているはずです」
「記録蔵にはない」
オルドが言った。
「だから、廃資料庫へ行くしかありません」
旧水車場は館から北へ半刻ほど歩いた場所にあった。水車は崩れ、石壁には黒い苔がこびりついている。その裏手に、低い建物が半ば土へ埋まるように建っていた。
廃資料庫の扉には、鉄の錠が二つついていた。
「鍵は?」
ユアンがオルドを見る。
「古いものです。もう使えないかと」
オルドが鍵束を探る間、リゼルは錠の周囲を調べた。錆の上に、わずかに新しい傷がある。誰かが最近、鍵を差し込んだ跡だった。
「使えます」
彼女は鍵束の奥から、小さな黒い鍵を取り出した。
「これです」
「なぜ分かった」
「他の鍵には埃が積もっています。この鍵だけ、歯の部分が磨かれている」
ユアンが鍵を受け取り、錠へ差し込んだ。
重い音を立てて、扉が開く。
中から、乾いた紙と古い木の匂いが流れ出した。暗闇の奥には、崩れかけた棚がいくつも並んでいる。床には水路の地図らしき筒が転がり、壁際には封蝋の欠片が散らばっていた。
廃資料庫は、捨てられた場所ではなかった。
誰かが、ここを使っている。
リゼルは扉の内側に残った新しい靴跡を見つめた。
「この資料庫には、最近誰かが入っています」
「なら、何を探している?」
ユアンが問う。
リゼルは暗い棚の奥へ視線を向けた。
「私たちと同じものです。水路が誰のものだったのか、それを示す記録を」
風が吹き抜け、棚の上の紙片が一枚、床へ落ちた。
そこには、古い領主印とともに、見慣れない条文の一行が残されていた。
――水は、土地を耕す者すべての共有に属す。
リゼルは紙片を拾い上げた。
閉ざされた水路の鍵は、失われた契約ではなく、もっと古い約束の中に眠っているのかもしれなかった。




