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捨てられた契約監査官は、辺境領主と水路をひらく  作者: 銀細工ナギ


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2/20

報酬と裁量を自分で書く

 灰原領へ向かう馬車は、港町を出て三日目の夕暮れに、ようやく北境の街道へ入った。


 窓の外に広がるのは、海とは違う灰色の景色だった。乾いた大地。風に削られた岩。遠くに連なる低い丘。その間を縫うように、かつては水をたたえていたらしい溝が続いている。


 だが、今そこに水はない。


 底のひび割れた水路には、枯れた葦が倒れていた。


「灰原領は、昔からこんな土地なのですか」


 リゼルが尋ねると、向かいに座るユアンは窓の外を見たまま答えた。


「昔は違った。父の代までは、春になると丘の雪解け水が水路を満たした。小麦も豆も育ったし、牧草地には羊がいた」


「では、いつから?」


「三年前、大商会が新しい契約を持ち込んでからだ」


 ユアンの声には、苛立ちよりも自責が混じっていた。


「父が亡くなった直後、私は領主になった。領地の負債を整理するため、王都から来た商会の代理人と契約を結んだ。水路を整備し、代わりに一定期間の使用権を渡すという話だった」


「その契約が、今回の偽造契約ですか」


「写しを見る限りはな。だが、私が署名した覚えのあるものとは条文が違う」


 リゼルは膝の上の書類箱に手を置いた。


 港を出る前、ユアンから渡された契約書の写しは三通あった。水路の使用権を譲渡する契約、領地の借入証書、そして王都の開発会社から送られた督促状。いずれも同じ領主印が押されている。


 しかし、紙に触れたときの感触はそれぞれ異なっていた。


 水路契約の一枚目と二枚目には、細い濁りがある。繊維の向きが途中で乱れ、インクが紙の奥へ沈んだ部分と、表面に浮いた部分があった。後から別の紙片を貼り替えた跡だ。


 一方、借入証書には不自然なところがなかった。


「気づいたことがあります」


 リゼルは箱から契約書を取り出した。


「この三通は、同じ日に作成されたことになっていますが、紙の種類が違います。借入証書は灰原領で使われていた古い紙。水路契約は王都の公証院で最近使われている紙です」


「それだけで偽造と断定できるか?」


「できません。契約が別々の場所で作られた可能性もあります。ただ、水路契約にはもっと明確な違和感があります」


 彼女は二枚目の末尾を指した。


「ここに押された印章は、あなたの領主印でしょうか」


「そうだ」


「印の縁が浅すぎます。古い印章なら、木の癖や金属の傷が残るはずです。この印は、写しを作るために別の紙へ押したものを転写したように見えます」


 ユアンは眉を寄せた。


「領主印を持ち出せる人間は限られている」


「だからこそ、鍵は印章ではなく、紙を扱った人間にあるかもしれません」


 馬車が大きく揺れた。道の脇には、崩れた水門が見えた。石積みの隙間から、細い草が伸びている。


 ユアンはその水門を見つめた。


「領民たちは、この契約を認めていない。だが、王都の役人は領主印がある以上、正式なものだと言う。水路を使おうとした農家には、商会の管理人が通行料を要求している」


「領主であるあなたが止められなかったのですか」


「止めようとした。だが、契約違反だと訴えられた。領地には訴訟を続ける金がない」


 リゼルは黙って書類を閉じた。


 真実があっても、それを証明する記録がなければ、力にはならない。公証院で何度も見てきたことだった。正しい側が勝つのではない。正しさを、誰も動かせない形で残した側が勝つ。


 夕暮れになると、馬車は灰原領の中心地へ入った。


 屋敷は小高い丘の上にあった。城と呼ぶには小さく、館と呼ぶには壁が厚い。門前には数人の農民が集まり、ユアンの姿を見ると一斉に頭を下げた。


「水が来ない。今度こそ何とかしてくれ」


 年配の男が訴える。


「分かっている。調べているところだ」


 ユアンはそう答えたが、男は不満そうに首を振った。


「調べるだけでは畑は潤わん」


 誰も反論できなかった。


 屋敷の中へ入ると、執事らしい細身の男が出迎えた。名をオルドという。彼はリゼルの身なりを一瞥し、わずかに口元を歪めた。


「こちらが、港町から呼んだ監査官ですか」


「リゼル・エンデ。今回の調査を任せる」


「女の方に、領地の契約を?」


 リゼルは笑わなかった。


「性別で紙の傷が変わるなら、私も驚きます」


 オルドの顔がこわばる。ユアンが咳払いをした。


「調査に必要な記録はすべて見せる。蔵の鍵を用意してくれ」


「古い記録は、ほとんど処分されています。湿気で使いものにならないものも多い」


「残っているものを、私が判断します」


 リゼルは執事に向き直った。


「閲覧の順番と、保管場所を記した一覧もください。記録を移動させる場合は、私の立ち会いを必要とします」


「そこまで細かく?」


「証拠は、なくなってから探しても見つかりません」


 ユアンが彼女を見た。


「他にも条件があるのか」


「あります」


 リゼルは旅の荷から自分の筆記具を取り出し、空いた机へ向かった。


「依頼を受けるとき、報酬だけでなく裁量も契約に明記すると申し上げました。先ほどの書状には、調査期間と報酬額しかありません」


 ユアンは少し驚いたように目を瞬かせた。


「いくら欲しい」


「まず、調査が終わるまでの固定報酬。次に、偽造が立証された場合の成功報酬。金額は領地の現状を考え、無理のない範囲で決めます。ただし、支払いを水路の回復後に先延ばしにはしないでください」


「分かった」


「それから、記録の閲覧、複写、関係者への聞き取り、必要な証人の招致を、私の判断で行えること。見つけた事実を、あなたの許可なく隠さないこと。最後に、私の調査結果を商会や公証院が勝手に利用しないこと」


 ユアンは机の前に立った。


「領主の私に、そこまでの権限を求めるのか」


「私の名で働くために必要です」


 彼はしばらく黙っていた。


 やがて、机の上の白紙を引き寄せる。


「書いてくれ」


「私が?」


「あなたが必要だと思う条件を、あなたの言葉で」


 リゼルは筆先にインクを含ませた。


 報酬。調査範囲。記録への接触権。証拠を公表する権限。妨害があった場合の契約解除。そして、調査によって回収された金銭や権利について、一定の割合を受け取ること。


 ひとつずつ、曖昧さを残さず書き込んでいく。


 ユアンはその間、一度も口を挟まなかった。


 書き終えた契約書を読み上げると、彼は最後まで聞き、領主印を押した。続いてリゼルも、自分の印を押す。


「これで、私はあなたの雇い人ではありません」


 リゼルは契約書を二部に分けた。


「依頼を受けた監査役です。私の判断に必要な裁量を持ち、仕事の結果に対して報酬を受ける。そういう関係です」


 ユアンは自分の控えを見下ろした。


「対等な契約か」


「少なくとも、紙の上では」


「なら、紙の外でもそうなるよう努力しよう」


 その言葉に、リゼルは一瞬だけ筆を止めた。


 屋敷の外から、風の音が聞こえる。乾いた風が、閉ざされた水路の上を渡っていく。


 リゼルは契約書を胸元の箱へしまった。


「明朝、記録蔵を見ます。水路契約の原本、古い水利記録、領主印の保管簿。最初にそれらを確認します」


「今夜ではだめか」


「疲れた目で記録を見れば、見落としが生まれます」


「慎重だな」


「慎重でなければ、役立たずと呼ばれたままですから」


 ユアンは否定しなかった。


 ただ、リゼルの前に新しい蝋燭を置いた。火を灯すと、机の上の契約書が明るく照らされる。


 その紙面には、まだ何も濁っていなかった。


 けれど、屋敷のどこかには、誰かが隠した古い記録が眠っている。


 水路を閉ざした契約の始まりを、リゼルは明日から探し出す。自分で書いた条件と、自分の名を刻んだ印を支えにして。

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