報酬と裁量を自分で書く
灰原領へ向かう馬車は、港町を出て三日目の夕暮れに、ようやく北境の街道へ入った。
窓の外に広がるのは、海とは違う灰色の景色だった。乾いた大地。風に削られた岩。遠くに連なる低い丘。その間を縫うように、かつては水をたたえていたらしい溝が続いている。
だが、今そこに水はない。
底のひび割れた水路には、枯れた葦が倒れていた。
「灰原領は、昔からこんな土地なのですか」
リゼルが尋ねると、向かいに座るユアンは窓の外を見たまま答えた。
「昔は違った。父の代までは、春になると丘の雪解け水が水路を満たした。小麦も豆も育ったし、牧草地には羊がいた」
「では、いつから?」
「三年前、大商会が新しい契約を持ち込んでからだ」
ユアンの声には、苛立ちよりも自責が混じっていた。
「父が亡くなった直後、私は領主になった。領地の負債を整理するため、王都から来た商会の代理人と契約を結んだ。水路を整備し、代わりに一定期間の使用権を渡すという話だった」
「その契約が、今回の偽造契約ですか」
「写しを見る限りはな。だが、私が署名した覚えのあるものとは条文が違う」
リゼルは膝の上の書類箱に手を置いた。
港を出る前、ユアンから渡された契約書の写しは三通あった。水路の使用権を譲渡する契約、領地の借入証書、そして王都の開発会社から送られた督促状。いずれも同じ領主印が押されている。
しかし、紙に触れたときの感触はそれぞれ異なっていた。
水路契約の一枚目と二枚目には、細い濁りがある。繊維の向きが途中で乱れ、インクが紙の奥へ沈んだ部分と、表面に浮いた部分があった。後から別の紙片を貼り替えた跡だ。
一方、借入証書には不自然なところがなかった。
「気づいたことがあります」
リゼルは箱から契約書を取り出した。
「この三通は、同じ日に作成されたことになっていますが、紙の種類が違います。借入証書は灰原領で使われていた古い紙。水路契約は王都の公証院で最近使われている紙です」
「それだけで偽造と断定できるか?」
「できません。契約が別々の場所で作られた可能性もあります。ただ、水路契約にはもっと明確な違和感があります」
彼女は二枚目の末尾を指した。
「ここに押された印章は、あなたの領主印でしょうか」
「そうだ」
「印の縁が浅すぎます。古い印章なら、木の癖や金属の傷が残るはずです。この印は、写しを作るために別の紙へ押したものを転写したように見えます」
ユアンは眉を寄せた。
「領主印を持ち出せる人間は限られている」
「だからこそ、鍵は印章ではなく、紙を扱った人間にあるかもしれません」
馬車が大きく揺れた。道の脇には、崩れた水門が見えた。石積みの隙間から、細い草が伸びている。
ユアンはその水門を見つめた。
「領民たちは、この契約を認めていない。だが、王都の役人は領主印がある以上、正式なものだと言う。水路を使おうとした農家には、商会の管理人が通行料を要求している」
「領主であるあなたが止められなかったのですか」
「止めようとした。だが、契約違反だと訴えられた。領地には訴訟を続ける金がない」
リゼルは黙って書類を閉じた。
真実があっても、それを証明する記録がなければ、力にはならない。公証院で何度も見てきたことだった。正しい側が勝つのではない。正しさを、誰も動かせない形で残した側が勝つ。
夕暮れになると、馬車は灰原領の中心地へ入った。
屋敷は小高い丘の上にあった。城と呼ぶには小さく、館と呼ぶには壁が厚い。門前には数人の農民が集まり、ユアンの姿を見ると一斉に頭を下げた。
「水が来ない。今度こそ何とかしてくれ」
年配の男が訴える。
「分かっている。調べているところだ」
ユアンはそう答えたが、男は不満そうに首を振った。
「調べるだけでは畑は潤わん」
誰も反論できなかった。
屋敷の中へ入ると、執事らしい細身の男が出迎えた。名をオルドという。彼はリゼルの身なりを一瞥し、わずかに口元を歪めた。
「こちらが、港町から呼んだ監査官ですか」
「リゼル・エンデ。今回の調査を任せる」
「女の方に、領地の契約を?」
リゼルは笑わなかった。
「性別で紙の傷が変わるなら、私も驚きます」
オルドの顔がこわばる。ユアンが咳払いをした。
「調査に必要な記録はすべて見せる。蔵の鍵を用意してくれ」
「古い記録は、ほとんど処分されています。湿気で使いものにならないものも多い」
「残っているものを、私が判断します」
リゼルは執事に向き直った。
「閲覧の順番と、保管場所を記した一覧もください。記録を移動させる場合は、私の立ち会いを必要とします」
「そこまで細かく?」
「証拠は、なくなってから探しても見つかりません」
ユアンが彼女を見た。
「他にも条件があるのか」
「あります」
リゼルは旅の荷から自分の筆記具を取り出し、空いた机へ向かった。
「依頼を受けるとき、報酬だけでなく裁量も契約に明記すると申し上げました。先ほどの書状には、調査期間と報酬額しかありません」
ユアンは少し驚いたように目を瞬かせた。
「いくら欲しい」
「まず、調査が終わるまでの固定報酬。次に、偽造が立証された場合の成功報酬。金額は領地の現状を考え、無理のない範囲で決めます。ただし、支払いを水路の回復後に先延ばしにはしないでください」
「分かった」
「それから、記録の閲覧、複写、関係者への聞き取り、必要な証人の招致を、私の判断で行えること。見つけた事実を、あなたの許可なく隠さないこと。最後に、私の調査結果を商会や公証院が勝手に利用しないこと」
ユアンは机の前に立った。
「領主の私に、そこまでの権限を求めるのか」
「私の名で働くために必要です」
彼はしばらく黙っていた。
やがて、机の上の白紙を引き寄せる。
「書いてくれ」
「私が?」
「あなたが必要だと思う条件を、あなたの言葉で」
リゼルは筆先にインクを含ませた。
報酬。調査範囲。記録への接触権。証拠を公表する権限。妨害があった場合の契約解除。そして、調査によって回収された金銭や権利について、一定の割合を受け取ること。
ひとつずつ、曖昧さを残さず書き込んでいく。
ユアンはその間、一度も口を挟まなかった。
書き終えた契約書を読み上げると、彼は最後まで聞き、領主印を押した。続いてリゼルも、自分の印を押す。
「これで、私はあなたの雇い人ではありません」
リゼルは契約書を二部に分けた。
「依頼を受けた監査役です。私の判断に必要な裁量を持ち、仕事の結果に対して報酬を受ける。そういう関係です」
ユアンは自分の控えを見下ろした。
「対等な契約か」
「少なくとも、紙の上では」
「なら、紙の外でもそうなるよう努力しよう」
その言葉に、リゼルは一瞬だけ筆を止めた。
屋敷の外から、風の音が聞こえる。乾いた風が、閉ざされた水路の上を渡っていく。
リゼルは契約書を胸元の箱へしまった。
「明朝、記録蔵を見ます。水路契約の原本、古い水利記録、領主印の保管簿。最初にそれらを確認します」
「今夜ではだめか」
「疲れた目で記録を見れば、見落としが生まれます」
「慎重だな」
「慎重でなければ、役立たずと呼ばれたままですから」
ユアンは否定しなかった。
ただ、リゼルの前に新しい蝋燭を置いた。火を灯すと、机の上の契約書が明るく照らされる。
その紙面には、まだ何も濁っていなかった。
けれど、屋敷のどこかには、誰かが隠した古い記録が眠っている。
水路を閉ざした契約の始まりを、リゼルは明日から探し出す。自分で書いた条件と、自分の名を刻んだ印を支えにして。




