役立たずの契約監査官に、辺境から依頼が届く
港町ルネアの朝は、潮の匂いと紙の匂いで始まる。
公証院の三階、商人たちが持ち込む契約書を検める部屋で、リゼルは一枚の帳簿を指先で押さえていた。
「この数字、おかしいわ」
向かいに座る男は、港湾商会を営むセドだった。かつては婚約者として、彼女の隣で同じ帳簿を覗き込んでいた男でもある。
「どこがだ。仕入れの増加分を計上しただけだろう」
「増加したのは仕入れじゃない。支払いのほうよ」
リゼルは帳簿の左端に並ぶ日付を示した。
「この三件の荷は、船が入港する前に代金が支払われている。しかも同じ日に、同じ印章で。契約書に記された船名も、ひとつは去年沈んだ船だわ」
部屋の空気が凍った。
リゼルには、紙に触れれば改ざんの跡が見える。インクの乾き方、繊維の乱れ、押印のわずかな沈み具合。後から書き足された文字は、どれほど巧妙でも、彼女の指先には濁った傷として伝わってくる。
その特技を、セドはかつて「商会の切り札」と呼んだ。
だが今は、目を細めて彼女を睨んでいる。
「つまり、私が帳簿を偽造したと言いたいのか?」
「あなたが、とは言っていないわ。けれど、このままでは商会の負債が隠されていることになる。公証院に提出する前に、取引先と照合すべきよ」
「余計なことをするな」
低い声だった。
リゼルは帳簿から手を離さなかった。
「余計ではないでしょう。契約監査官として、改ざんを見つけたら報告する義務があるもの」
「契約監査官?」
セドは乾いた笑いを漏らした。
「君はいつもそうだ。細かな傷ばかり探して、商売全体を見ようとしない。役立たずの契約監査官。そんな目で何でも疑うから、取引先にも嫌われるんだ」
その言葉は、帳簿の紙より冷たかった。
やがて公証院の院長が入ってきた。セドはすでに話を通していたらしい。院長は帳簿を一瞥し、ため息をついた。
「リゼル、君は本日付で商会の監査業務から外れる。いや、正式に言えば、契約監査官としての雇用も終了だ」
「帳簿の改ざんを指摘したからですか?」
「商会との関係を壊した責任を取ってもらう」
「壊したのは、改ざんをした人間ではなく、見つけた私ですか」
院長は答えなかった。
セドが机の上に置いた封筒を、リゼルの前へ滑らせる。中には解雇通知と、婚約破棄の書面が入っていた。
「君とは、これ以上やっていけない」
彼はそう言った。
まるで、損傷した荷物を処分するような口調だった。
リゼルは書面を開き、二度読んだ。怒りはなかった。ただ、自分がこれまで何を守ろうとしていたのか、急に分からなくなった。
彼女は印章箱と筆記具をまとめ、席を立った。
そのとき、一階から慌ただしい足音が響いた。
「リゼルはいるか!」
階段を上がってきたのは、黒い外套をまとった青年だった。砂埃を払う暇もなかったのか、肩には旅の跡が残っている。腰に剣を下げているが、立ち姿に威圧感はなく、むしろ疲労が滲んでいた。
院長が顔をしかめる。
「ここは商談の場所ではありませんぞ」
「商談ではない。依頼だ」
青年はリゼルを見た。
「あなたが、触れただけで契約書の偽りを見抜く監査官か」
「元、ですが」
リゼルは封筒を閉じた。
「本日、解雇されました」
「なら、ちょうどいい」
青年は一通の書状を差し出した。封蝋には、見慣れない領主印が押されている。
「私はユアン・アルヴェイン。北境の灰原領を預かっている」
リゼルが封を切ると、紙面には水路に関する契約の写しが記されていた。
「領地の主要水路を、大商会へ譲渡した契約書だ。だが、領民はそんな契約を知らない。父の代の記録とも内容が食い違っている」
「偽造の可能性は?」
「高い。けれど、私には確かめる術がない」
ユアンは一度、彼女の手元の解雇通知へ視線を落とした。
「報酬は多く出せない。領地は干上がり、税収もない。だが、調査の裁量と、見つけた事実を公表する権限は約束する」
「あなたは、契約を見つけたいのですか。それとも、都合のいい証拠が欲しいのですか」
青年は迷わず答えた。
「都合が悪くても、真実を」
その言葉だけは、帳簿の数字より確かに聞こえた。
リゼルは偽造された水路契約の写しに指を触れた。
紙の奥から、濁った傷が伝わってくる。条文の一部が後から差し替えられていた。しかも、その改ざんは一か所ではない。複数の頁にまたがり、誰かが領民から水を奪うために、長い時間をかけて仕組んだものだった。
リゼルは書状を返さなかった。
「依頼を受けます」
セドが鼻で笑う。
「辺境の領主に雇われて、何ができる。君はもう役立たずだろう」
リゼルは彼を見た。
「役立たずかどうかは、仕事の終わりに判断してください」
そしてユアンに向き直る。
「ただし、報酬、調査範囲、証拠を隠さないこと。その三つを契約書に明記します。口約束では行きません」
ユアンの表情が、ほんのわずかに和らいだ。
「分かった。あなたの条件で契約を結ぼう」
港の外では、船の汽笛が鳴っていた。
リゼルは公証院を出る前に、一度だけ振り返った。長年働いた机も、捨てられた解雇通知も、もう彼女を引き留めるものではない。
辺境の水路が、誰の手で閉ざされたのか。
その答えを見つけるため、彼女は灰原領へ向かう。
自分の価値を証明するためではない。
自分が選んだ仕事を、今度こそ自分の名で始めるために。




