石碑に残された領民の権利
石碑の前で採取された拓本は、王都へ戻るまで書記官の手から離れなかった。乾かした薄紙には、苔の下から現れた文字が一字ずつ正確に写し取られている。書記官は封蝋を施し、発見時刻と立会人の名を記した。
審理の再開を告げる鐘が鳴ったのは、その日の昼過ぎだった。
公証院の大広間には、開発会社の代理人、セドの商会の使者、記録改ざんを指示した院長、そして領地から駆けつけた村人たちが集まっていた。傍聴席には、これまで水路の使用を拒まれてきた農民の姿もある。
リゼルは証拠箱を抱え、ユアンと並んで証言台の前に立った。
「原本の最後の頁が失われたことについて、申し上げることがあります」
審理官の視線が彼女へ向く。
「失われた条文は、石碑に刻まれています。石碑は水路の西の分岐点にあり、契約締結の日付、当時の領主名、村々の代表者名とともに、三つの条文を保持していました」
ざわめきが広がった。
開発会社の代理人が立ち上がる。
「石に刻まれた古文など、契約書の代わりにはなりません。誰かが後から刻んだ可能性もある」
「その可能性はありません」
リゼルは拓本を審理官へ差し出した。
「石碑の風化状態を調べた技師の報告書があります。刻字の溝には、契約が結ばれた時期と一致する風化が見られます。また、刻まれた代表者の名は、複数の村に残る古い納税簿と一致しています」
マルタが証言台へ進み、納税簿の束を示した。
「この名は、私が保管してきた帳簿にあります。石碑の記載と順序まで同じです」
次に、村人たちが持参した写しが提出された。どれも完全な原本ではなかった。しかし、異なる村で別々に保管されていた写しの末尾には、同じ文言が残っていた。
本水路は、領内のすべての耕作者のために開く。
水を受ける権利は、土地の売買によって失われない。
領主は水路を閉ざし、または特定の者にのみ許すことができない。
リゼルは三つの写しを並べた。
「紙の種類も、書かれた年代も異なります。それでも条文は一致しています。誰か一人が作った偽造文書ではなく、各村が代々守ってきた記録です」
開発会社の代理人は、なおも反論しようとした。
「だが、石碑や写しに法的効力があるとは――」
「法的効力を否定しているのは、あなた方です」
リゼルは相手をまっすぐ見た。
「あなた方が提出した新契約は、古い契約の一部を根拠にしています。その古い契約の存在を認めるなら、そこから都合のよい条文だけを抜き出すことはできません。最後の頁がなくても、同じ権利を示す証拠は複数あります」
審理官が拓本を受け取り、慎重に目を通した。
その時、ユアンが証言台へ進んだ。
「私からも、申し上げます」
広間の視線が集まる。
「私は領主として、長年、水路の管理を一部の地主に任せていました。彼らが提出した帳簿を信じ、領民全体の権利を確認しなかった。結果として、水を受けられない者を生み、開発会社との交渉でも、領地を守ることを優先するあまり、古い契約の全体を明らかにしませんでした」
ユアンの声に、逃げ道を探す響きはなかった。
「その責任は私にあります。ですが、だからこそ明言します。この領地の水路は、特定の商会や地主の所有物ではない。石碑に刻まれ、村々が守ってきた権利は、領民全員のものです。私は領主として、領民の側に立ちます」
傍聴席の奥で、誰かが息を呑んだ。
ユアンは続けた。
「開発会社との契約は、領民の権利を奪う内容を含む限り、私の名で承認しません。必要であれば、過去の便宜についても調査を受けます」
リゼルは彼を見た。以前のユアンなら、領主としての威厳を守るために、過ちを小さく見せようとしたかもしれない。けれど今、彼は自分の失敗を隠さず、権利を持つ人々の前に置いている。
審理官は、提出された写しと石碑の拓本を順に確認した。
「原本の最後の頁が失われたとしても、契約の内容を示す証拠は残っている。審理は、これらを正式な証拠として受理する」
開発会社の代理人が叫んだ。
「そんなものを認めれば、王都の計画が――」
「計画より、先に存在する権利があるのです」
審理官の声が広間に響いた。
その言葉を聞いた瞬間、リゼルの胸に張りつめていたものが、少しだけほどけた。
最後の頁は戻らない。消された記録も、失われた時間も、なかったことにはできない。それでも、権利を示す道は一つではなかった。紙を失っても、石に残る。石が読めなくても、村々の記憶と写しが残る。
審理官は、改めて両当事者へ告げた。
「明日、改ざんの経緯と契約によって利益を得た者について、最終尋問を行う。本日の審理はここまでとする」
人々が立ち上がる中、ユアンがリゼルの隣へ戻った。
「助かったな」
「まだ終わっていません」
「ああ」
ユアンは石碑の拓本へ目を向けた。
「だが、もう隠れる場所はない」
大広間の窓から、夕方の光が差し込んでいた。古い条文を写した紙の上で、光が淡く揺れている。
リゼルは証拠箱の封蝋を確かめた。
「明日は、誰が何のために頁を消したのかを明らかにします」
「その後は?」
「領地へ戻ります。水路を、使える形に戻さなくては」
ユアンはわずかに笑った。
「君は本当に、先の仕事まで考えている」
「権利を証明しただけでは、畑に水は流れませんから」
二人は並んで広間を出た。
背後では、村人たちが石碑の条文について語り合っている。長い間、誰かに奪われたと思っていたものが、実は自分たちの足元に残っていたのだ。
リゼルはその声を聞きながら歩いた。
失われた最後の頁の代わりに、領民の声が立ち上がっている。もう誰にも、それを一枚の紙ごと消させはしない。




