消えた最後の頁
審理の再開を翌日に控えた夜、公証院の記録室には、紙をめくる音だけが響いていた。
長机の上には、水路契約の原本と複写、資料庫の入退室記録、各村から集めた証言書が並べられている。リゼルは灯火を少し引き寄せ、原本の綴じ目を指でなぞった。
「ここまであるなら、十分ではないのか」
向かいに座るユアンが尋ねた。
「十分に見えることと、十分に証明できることは違います」
契約書は全部で八頁あるはずだった。表紙、契約の目的、用水路の管理、費用負担、争いが起きた場合の裁定、署名、立会人の記録。そして最後に、契約の効力と権利の継承を定める頁。
その最後の頁だけが、なかった。
綴じ糸は切られていない。紙を無理に抜いた跡もない。まるで最初から七頁しか存在しなかったように、冊子は整っていた。
リゼルは眉を寄せた。
「誰かが持ち去ったなら、切断痕が残るはずです。けれど、この綴じ目には古い糸の摩耗しかない」
「では、最初から綴じられていなかった?」
「それも不自然です。七頁目の末尾に、文章が続くことを示す句読点がある。書き手は次の頁へ続けるつもりだった」
ユアンが原本を見下ろした。
「最後の頁だけ、別に保管されていた可能性は?」
「あります。ただ、今の時点では、誰が保管していたのかを示す記録が消されています」
記録室の扉の外で、足音が止まった。
入ってきたのは、審理を担当する若い書記官だった。顔色が悪い。手には空の記録箱を抱えている。
「リゼルさん、申し訳ありません。保管庫を確認したところ、原本の受領記録が一部抜かれていました」
「どの部分ですか」
「十七年前から二十年前までの記録です。水路契約が締結された時期と重なります」
リゼルは立ち上がった。
「抜かれたのは、受領記録だけですか」
「いえ。保管庫の棚札も一枚、交換されています。以前は『水利契約・旧領』と書かれていたはずなのに、今は『破棄済み』と」
ユアンの手が机の端で固く握られた。
「審理を止めるために、まだ証拠を消しているのか」
「慌てないでください」
リゼルはそう言いながら、胸の奥で冷たいものが広がるのを感じていた。敵は、原本が最後の決め手になると知っている。だからこそ最後の頁を消した。
だが、消されたのは紙だけとは限らない。
リゼルは灯火を持ち上げ、七頁目の裏面を照らした。紙の繊維に、細い凹みがある。文字を書いた跡ではない。何か硬いもので、上からなぞったような線だった。
「これを見てください」
ユアンが身を乗り出す。
「文字か?」
「おそらく、頁を重ねたまま記された下書きの跡です。写し取れるかもしれません」
彼女は薄い紙を上に置き、炭の粉を柔らかくこすりつけた。浮かび上がったのは、途切れた文章だった。
――本水路の使用は、領内に住む者の身分、納税額、土地の名義にかかわらず……
そこから先は読めない。
しかし、リゼルは息を止めた。
「領内に住む者の身分にかかわらず。これが残っているなら、水利権を一部の地主だけに認める契約ではなかったことが示せます」
「だが、全文ではない」
「全文でなくても、手掛かりにはなります」
リゼルは炭の跡を見つめた。最後の頁は消えた。けれど、契約は紙一枚だけで成り立っているわけではない。人が使い、写し、読み上げ、石や記憶に残してきたものだ。
その時、扉の外から別の声がした。
「石碑なら、残っているかもしれません」
振り向くと、領地から来た老書記のマルタが立っていた。彼女はユアンの領地で古い帳簿を管理していた人物で、今回の審理にも証人として呼ばれている。
「本水路の分岐点に、古い石碑があります。子どもの頃、祖父から聞きました。水路を作った者たちが、契約の要点を刻んだものだと」
「なぜ今まで言わなかったのですか」
リゼルが問うと、マルタは悔しそうに目を伏せた。
「石碑は苔に覆われ、誰も読めないと思っていました。それに、昔の言い伝えなど証拠にはならないと……」
「場所は?」
「西の分岐点です。古い水車小屋の跡を越えたところにあります」
ユアンがすぐに立ち上がった。
「夜明けを待つ必要はない。馬を用意させる」
「待ってください」
リゼルは彼を見た。
「王都を出るには許可が要ります。勝手に行けば、証拠を隠滅しに行ったと疑われる」
「では、書記官に立会人を頼もう」
ユアンは若い書記官へ向き直った。
「石碑を確認し、発見した状態のまま記録してもらいたい。公証院の正式な調査として」
書記官は迷った末に頷いた。
「私が行きます。審理官にも報告を入れましょう」
夜明け前、一行は王都を出た。冷たい風が頬を打ち、雲の切れ間から薄い月が見えていた。ユアンは馬を急がせたが、リゼルの横を離れなかった。
「もし石碑にも、必要な条文がなかったら」
ユアンが言った。
「その時は、別の証拠を探します」
「君は、いつもそう言うな」
「諦める理由を探すより、残っているものを探す方が性に合っています」
西の分岐点に着く頃、空が白み始めた。
崩れた水車小屋の奥、蔦に覆われた岩の壁がある。マルタが指を差した。
「あれです」
リゼルは近づき、手袋を外した。苔を慎重に払い落とす。湿った石の表面に、古い文字が現れた。
第一条。本水路は、領内のすべての耕作者のために開く。
第二条。水を受ける権利は、土地の売買によって失われない。
第三条。領主は水路を閉ざし、または特定の者にのみ許すことができない。
リゼルの指が止まった。
ユアンは石碑の前で、長い間黙っていた。
最後の文字を読み終えた書記官が、震える声で言う。
「これは……原本の最後の頁にあるはずの条文では?」
「ええ」
リゼルは頷いた。
「そして、紙より古い」
石碑には、契約締結の日付と、当時の領主、村々の代表者の名まで刻まれていた。誰かが原本を消しても、石に刻まれた約束までは消せない。
リゼルは朝の光を受ける文字を見つめた。
最後の頁は、なくなったのではない。
別の場所へ移され、長い年月を耐えて、今もここに残っていたのだ。
「明日の審理で、これを提出します」
彼女が言うと、ユアンは静かに答えた。
「君が読むなら、私は領主として証言する」
「責任を問われますよ」
「分かっている」
ユアンは石碑から目をそらさなかった。
「それでも、今度は隠さない。領民の権利を守る側に立つ」
リゼルは彼の横顔を見た。そして、石碑に刻まれた古い名の列へ視線を戻した。
消えた頁を探していたはずが、彼女たちは紙より確かなものを見つけた。
人々が何を約束し、誰に水を渡そうとしたのか。その意志は、改ざんの手よりも長く生きていた。
風が吹き抜け、石碑の苔が静かに揺れた。まるで、失われた言葉がようやく息を吹き返したようだった。




