復縁の申し出を公衆の前で断る
偽証人の告白が審理の場に落とした波紋は、翌朝になっても収まらなかった。
王都の公証院前には、審理の行方を見守ろうとする人々が集まっていた。商人、記者、領地から来た使者。昨日までリゼルを知らなかった者たちまで、彼女の名を口にしている。
その人垣を割って、見覚えのある馬車が現れた。
扉に刻まれた紋章を見た瞬間、リゼルの足が止まる。
セドの商会の紋章だった。
「リゼル」
馬車から降りたセドは、かつて婚約していた頃と変わらぬ仕立ての外套を着ていた。ただし、その顔には余裕がない。商会の評判が落ち、取引先が次々と距離を置いていることは、彼の目の下の隈からも明らかだった。
ユアンが一歩前へ出る。
「何の用だ」
「君には関係ない」
セドはそう言ってから、周囲の視線を意識したように声を整えた。
「リゼル、話をしたい。二人きりで」
「話す必要はありません」
リゼルははっきりと言った。
その声が届いたのか、人々のざわめきが少し静まった。
「僕たちは婚約者だった。君が商会を出たのは、あの時の行き違いだ。僕は君の力を正当に評価できていなかった」
「行き違いではありません。あなたは、私を役立たずだと言って解雇しました」
「それは感情的になっていた。だが、今なら分かる。君がいなければ、商会は立ち行かない」
セドは一歩近づいた。
「戻ってきてほしい。婚約も、もう一度結び直そう」
誰かが息を呑んだ。
リゼルの胸に、過去の光景がよみがえる。帳簿を抱えて立っていた自分。皆の前で、余計な口を挟むなと言われたこと。積み上げた記録を見向きもされず、机の外へ追いやられたこと。
けれど、今の彼女はあの時のリゼルではない。
「お断りします」
セドの眉が動いた。
「聞き間違いか?」
「いいえ。復縁の申し出を、お断りします」
人々の間から、小さなどよめきが起きた。
セドは笑顔を作ろうとしたが、頬が引きつった。
「こんな場所で意地を張るな。君の功績は、もともと商会で学んだものだろう。水路契約の調査も、商会で扱った資料があったからできた。君が名を上げるなら、商会の協力があったと認めるべきだ」
「商会の協力?」
リゼルは持っていた書類袋から一枚の紙を取り出した。
「これは、私の解雇通知です。理由は、帳簿の誤りを指摘したため。署名はあなたのものです」
セドの顔から血の気が引いた。
「それは昔の話だ」
「昔の話だから、なかったことにはなりません」
リゼルは書類を広げた。風に煽られないよう、ユアンが端を押さえる。
「ここには、私が商会の業務から外され、作成した帳簿も商会の正式な成果として扱わない、と明記されています。あなたは私を商会の人間ではないと判断した。ならば今になって、私の功績だけを商会の名に戻すことはできません」
「君は僕の婚約者だった!」
「婚約者であったことと、あなたの所有物であることは違います」
その言葉に、周囲がざわついた。
セドは苛立ちを隠せなくなった。
「僕と結婚すれば、君は王都で安定した生活ができる。辺境領主の手伝いなど、いつまでも続けられるものではない。君の立場を考えて言っているんだ」
「私の立場は、私が決めます」
リゼルはセドを見た。
「私は誰かの商会名を借りて働くつもりはありません。誰かの婚約者として価値を認められる必要もない。私は、自分で調べ、自分の名で証拠を提出し、自分の判断で契約を結びます」
セドの視線がユアンへ移った。
「君は、この男に利用されているだけだ。辺境の領主が、都合よく君の力を使っている」
「その点については、私も何度も確認しました」
リゼルは淡々と答えた。
「ユアンは過去の便宜を隠していました。私はそれを責め、今後は隠し事をしないと約束させた。彼が私を利用しているなら、私は契約を破棄します」
ユアンは口を挟まず、ただ頷いた。
「彼は私を守るだけの人ではありません。私の判断に異議を唱え、私も彼の判断を問いただす。私たちは対等に仕事をしています」
「そんなものは、恋愛ではない」
「あなたに決められることではありません」
リゼルは書類をしまった。
「セド。私たちの婚約は、あなたが解雇を告げた時に終わりました。今日ここで、私の功績を商会へ戻すことも、関係を結び直すことも拒みます。今後、私の名や調査結果を商会の宣伝に使うなら、正式に抗議します」
公証院の門前には、多くの人がいる。彼らは証人だった。
セドは何か言おうとしたが、言葉が続かなかった。
「リゼル……僕は、本当に君を」
「もう聞きません」
静かな声だった。
「あなたの後悔を、私が受け止める義務はありません」
沈黙の中で、遠くの鐘が鳴った。
やがてセドは顔を歪め、馬車へ戻っていった。扉が閉まり、車輪が石畳を軋ませる。人々は道を開けたが、誰も彼に声をかけなかった。
姿が見えなくなってから、ユアンが言った。
「よく言ったな」
「言うべきことを言っただけです」
「それでも、簡単ではなかっただろう」
リゼルは公証院の門を見上げた。
「簡単ではありませんでした。でも、戻る理由はもうありません」
その時、審理を見ていた若い書記官が近づいてきた。
「リゼルさん。今の話を、証人として記録に残す必要はありますか」
リゼルは少し考えた。
「いいえ。あれは私自身の問題です。ただし、商会が私の功績を自分たちのものとして提出した場合は、解雇通知を正式な証拠として出してください」
「分かりました」
書記官が去ったあと、ユアンが尋ねた。
「君は、これからどうする」
リゼルは朝の光を見た。
「まず審理を終わらせます。それから領地へ戻って、水路の記録を整理する。村ごとの権利を、誰にも奪われない形にするために」
「その仕事に、私も加わっていいか」
「あなたが隠し事をしないなら」
「約束する」
リゼルは初めて、わずかに笑った。
「では、共同作業者として認めます」
公証院の扉が開く。
二人は並んで中へ入った。もう誰かの後ろに隠れる必要はない。彼女の名も、彼の責任も、それぞれの場所に立っていた。
そしてその日、リゼルははっきりと知った。
過去へ戻らないと決めることは、何かを失うことではない。
自分で選んだ未来へ、ようやく歩き出すことなのだ。




