卒業式
卒業式当日。
朝から空気が冷たかった。
校庭の桜はまだ咲いていない。
灰色の空の下で、体育館へ向かう生徒たちの笑い声だけがやけに明るく響いていた。
「結衣ー! 写真撮ろ!」
「あとでー!」
クラスメイトに手を振り返しながら、結衣はスマホを握り締める。
昨日ほとんど眠れなかった。
今日で終わる。
いや、終わらせたくない。
そんな気持ちばかりが胸の中を回っていた。
式が始まる。
校長の長い話。
卒業証書授与。
すすり泣く声。
でも結衣は、ほとんど覚えていなかった。
頭の中にあるのは、高瀬のことだけだった。
保健室。
雨音。
ココア。
「偉いな」って言ってくれた声。
全部が浮かぶ。
◇
式が終わると、校舎は一気に騒がしくなった。
「第二ボタンもらえた!」
「写真撮ってー!」
「卒業したくないー!」
あちこちで笑い声が飛び交う。
結衣も友達と写真を撮った。
笑った。
泣いた。
「また遊ぼうね」と言い合った。
でも、どこかずっと落ち着かなかった。
気づけば足は、自然と保健室へ向かっていた。
廊下は静かだった。
卒業生はみんな校庭や教室へ行っている。
保健室の前で立ち止まる。
心臓がうるさい。
コンコン。
「失礼します」
扉を開ける。
高瀬はいつもの席に座っていた。
白衣姿。
その姿を見た瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
「……卒業、おめでとう」
優しい声。
結衣は小さく笑う。
「ありがとうございます」
少し沈黙が落ちる。
保健室の匂い。
白いカーテン。
窓際の観葉植物。
全部、今日で最後かもしれない。
そう思った瞬間、急に泣きそうになる。
高瀬は立ち上がり、棚から小さな紙袋を取り出した。
「これ」
「え?」
「卒業祝い」
結衣は目を丸くする。
「開けていいですか」
「ああ」
中には、シンプルな万年筆が入っていた。
白と銀の細いデザイン。
結衣は息を呑む。
「……綺麗」
「大学で使え」
結衣は万年筆をそっと撫でる。
たぶん高い物じゃない。
でも、高瀬が自分のために選んでくれた。
それだけで胸がいっぱいだった。
「先生」
「ん?」
「私、ちゃんと変われましたか」
高瀬が静かに結衣を見る。
その目が、少しだけ優しい。
「変わったよ」
結衣の喉が熱くなる。
高瀬は続けた。
「最初のお前、自分のこと雑に扱いすぎだった」
結衣は苦笑いする。
否定できない。
「でも今は、自分でちゃんと選ぼうとしてる」
静かな声だった。
「それだけで十分すごい」
涙が滲む。
結衣は慌てて笑った。
「卒業式なのに泣きすぎですよね」
「お前は昔から泣き虫だろ」
「先生のせいです」
高瀬は少し笑った。
その笑顔を見るだけで、また泣きそうになる。
◇
窓の外では、風が吹いていた。
カーテンが小さく揺れる。
結衣は万年筆の入った紙袋を抱き締めたまま、小さく言う。
「先生」
「ん?」
「私、大人になったらまた来ます」
高瀬は少し黙る。
それから困ったように笑った。
「……その時、お前に恋人いたらどうする」
結衣は即答した。
「いないです」
「なんで言い切れる」
「先生より好きになる人いないので」
高瀬は呆れたように息を吐く。
でも耳が少し赤い。
結衣は小さく笑った。
「照れてる」
「照れてない」
「嘘」
高瀬は視線を逸らしたまま、小さく言った。
「……反則だろ、そういうの」
胸が熱い。
好きだ。
本当に。
結衣はゆっくり立ち上がる。
「先生」
「ん?」
「最後に、一回だけお願いしていいですか」
高瀬が眉を寄せる。
「内容による」
結衣は少しだけ緊張しながら笑った。
「卒業祝いで」
そして、小さく両腕を広げた。
高瀬は数秒固まった。
困ったように目を閉じる。
「お前な……」
呆れた声。
でも次の瞬間、高瀬は静かに結衣を抱き寄せた。
白衣の匂い。
温かい腕。
結衣は目を閉じる。
安心する。
初めてだった。
誰かに抱き締められて、こんなに安心したのは。
高瀬は結衣の髪へそっと触れながら、小さく呟く。
「……頑張ったな」
その瞬間、涙が零れた。
高瀬は何も言わなかった。
ただ静かに背中を撫でてくれる。
結衣は白衣を掴みながら思う。
この人に会えてよかった。
本当に。
やがて高瀬はゆっくり身体を離した。
「もう行け」
「冷たい」
「これ以上いると帰したくなくなる」
その言葉に、結衣の呼吸が止まる。
高瀬は少し困ったように笑った。
「だから行け」
結衣は涙を拭いながら笑う。
「……はい」
扉の前で立ち止まる。
振り返る。
高瀬はいつもの場所に立っていた。
でもその表情は、いつもより少しだけ寂しそうだった。
結衣は小さく頭を下げる。
「ありがとうございました」
高瀬は何も言わなかった。
ただ、穏やかに笑っていた。
結衣は保健室を出る。
廊下の先。
窓から春の光が差し込んでいる。
まだ少し冷たい風。
でも、その光は確かに春の匂いがした。
結衣は前を向いて歩き出す。
もう、自分を雑に扱わないように。
いつか本当に大人になった時、
ちゃんとこの人の隣に立てるように。




