第二十話 「別れ」
第二十一話は4/12(日)に投稿します。
よろしくお願いします。
日がまもなく沈もうという頃、悠とカッシオはトールと共に沼のある窪地の淵まで辿り着いていた。
空は変わらず曇っていたが、雲間からわずかな陽光が窪地を照らしていた。光が窪地の水たまりに反射し、きらきらと眩しく見える。対照的に黒い沼は抜け落ちたように光を反射せず、そこにあることは分かるのに見えない。
龍はその沼から頭だけを出して眠るように目を瞑っていた。その体からは靄のようなものが漏れ出ているのが見えた。その靄はまるで影のようで、空中を漂っていた。
「……もう、死んでいるんじゃないか?」
トールはそんなはずはないと言われるのがわかっている様子で、首を軽く傾け二人を見る。
「基本的に死ぬことはないらしいですよ。トールさんは大丈夫ですか?」
「手先がもはや形をとどめておらん。大丈夫では無いなあ。それより、龍は幽霊になると思うか?」
「さあ?どうでしょう。」
「早く行って終わらせようぜ。」
窪地の地面をじゃりじゃりと踏み進めると、龍が悠たちに気づき、目を開ける。
《来たか。》
「先日会った時より、さらに弱っているようですね。」
《もう少し耐えられると思ったのだがな。死ねん我が動けもしなくなればこの山を含む一帯が草木も生えぬ、動物もいない禁足地となるな。》
《早速だが、終わらせようか。》
「その前に聞きたいことがある。龍よ。」
《なんだ?死にかけの老爺よ。》
「その言い方を聞くに、やはりわしはまだきっちり死んではおらんのか。幽霊となったわしは、もう間も無くこの世から消える。龍よ。あなたが死ななくとも、わしが代わりに消えることではいけないのだろうか?」
「じいさん、なにを——!」
カッシオが狼狽する。悠は隣で驚いて固まっている。
「若者にいらぬ罪を背負わせるものでは無いと思わんか?どうだろう。龍よ。」
《……それは、勧められぬ。》
《本来、選ぶべきは山を治める我の死だ。》
「可能、なのだな。優しいあなたのことだ。他の者が代わるという選択肢をわざと出さなかったのではないか?」
《……だが、お前一人では足りぬ。》
「足りないとは?」
《異物を受け入れられるだけの器が必要だ。人ならば、数人は器がいるだろう。》
「——複数人必要だというのなら、わしらがいればどうだ?」
悠たちの背後から突然声がする。驚いて振り返るとライエンたち幽霊がいた。
「いつから、いたんですか!?来ないはずだったのに…。」
「トールが行くと言い出した時に、やはり行くことにしたのだ。すでに死んでいるのに命を惜しむのは愚かだと思ってな。」
「それに奴のことだ。余裕ぶって見せる時は覚悟を決めた時なのさ。何かをしようとしているとそう思ったのだ。」
「やっぱり、そんなことを考えていたのね。」
「すまんな、トリリシャ。」
トールはトリリシャを見て、申し訳なさそうに笑う。
「お前も来てくれて嬉しいが、消えるのは老人どもだけだ。いいか、みんな?」
「そ、そんな——」
「ああ、当たり前だ。子どもらの未来のために死に来たのさ。守られてくれ。トリリシャ。」
老人たちはこの世から消えるというのに、にこやかに笑う。
「足りそうか?龍よ。」
《……十分だろう。そこまでの覚悟を持つ者が集うなら、我は拒まぬ。お前たちの意志を尊重しよう。》
「ちょっと待てよ!俺が殺すのが、龍から、じいさんたちに変わっただけじゃ——」
ライエンがカッシオの胸の辺りに拳を突きつける。しかし、その拳がカッシオに触れることはない。
「勘違いをするな、カッシオ。わしらはもう死んでいる。ただあるべきところに還るだけだ。未練がましくしがみついていたこの世から去るだけさ。」
「ぼく、は——」
悠も形にならない言葉を、機会を逃すまいと無理に口にするがまとまらない。
悠もカッシオも気づかないうちにその顔は涙でべしゃべしゃになってしまっている。
「これでさよならだな、ハル。短い間だったが、家族になれて良かった。押し付けるようで申し訳ないが、孫たちのことを少なからず気にかけてくれると嬉しい。」
トールは涙を流す悠を見て、微笑みながら別れの言葉を口にする。
「わしらの家族にもよろしく伝えてくれんか。」
ライエンたちもトールに続いて別れを告げる。
《では、始めるぞ。》
「頼みますぞ、龍よ。」
「俺は…〜ッ!何をすれば良いンだ!」
カッシオはトールたちの顔を見る。彼らの微笑む顔を見て、何か言葉を飲み込み、龍に指示を求めた。
《気は我が操る。ただそこに居れば良い。》
「そ、それは——」
カッシオからも何か白い靄のようなものが漏れ出す。それが、龍に取り込まれる。
そして龍から漏れ出ていた黒い靄は白い靄に包まれ収束し、トールたちの体へ注ぎ込まれる。
《準備は終わった。本当に良いのだな。何度も言うが、本来消えるべきは我だ。お前たちが背負う必要など——》
「ここでやめたりはせんよ。」
トールは小さく息を吐いた。
「家族が大変な目にあっているのにもう何の役にも立てんと思っておった。だというのにこんなふうに終われるなら上等だろう?」
——待って、くださいよ。
悠の想いは言葉にならず、誰の耳にも届かない。
喉の奥で何度も言葉が詰まり、形にならない。
——別の方法があるはずや。
——龍は本来は死ぬことはないて言うてた。
——やのに、死ぬてどういうことやねん。カッシオは大丈夫やのに龍はあかんてどういうことやねん。
——もっと早くに気がつけてたら。あかん、そんなんどうでもええ。今は、はよせんと、トールさんら逝ってまう。
頭の中で、答えがあるのかどうかも知れない問いに考えを巡らせようとする。しかし、時間は待ってくれない。誰かが犠牲にならずに終わらせる方策を考える暇など、もうどこにも残されてはいなかった。
《……承知した。》
《お前たちの意志を、我は受け取ろう。》
「ああ、そうだ、トリリシャ。一つ言っておかないといけないことがある。ニルスはおそらく生きておる。わしが逝ったあと生活に困るだろう?探してやるといい。奴からの手紙を、わしが酒を隠しているところの木板の裏に貯めてある。見てみなさい。」
「お父さん!?何でそういうことを今の今まで隠しているのよ!」
トリリシャは声が裏返ってしまう。
「すまん、すまん。忘れておったのだ。」
「みなさん、ごめん、なさい。僕は何もできなくて——」
悠は涙声で謝罪する。
「俺がバカだから、迷惑かける。本当にごめん。」
カッシオが地面に伏せるように頭を下げる。涙がぽたぽたと落ちて地面を濡らす。
「気にせんで良い。」
「元気に、幸せに生きろよ!」
「わしらのことは気にしなくて良いからな!」
「楽しい人生を!」
《別れは済んだな、終わらせよう。》
老人たちの最後の言葉と共に、眩ゆい光が辺りを包み込む。それはあっという間に収まる。後には何も残らなかった。
ただ、そこだけ空気が冷えたままいつまでも戻らなかった。
不意に彼らの声が聞こえてきそうなそんな気持ちを覚える。しかし、静寂が続くだけだった。
木々のざわめきが耳に届く。まるで終わりを祝福する拍手のようで、悠は少し腹が立った。
いや、腹を立てたのは何もできず、ただ老人たちに甘えてしまった自分自身にだった。




