EP 9
稟議書起案:『国境緩衝地帯における不当徴税の差戻し』
「……さて、ベルガー監察官。定時まで時間がありませんので、手短に終わらせましょうか」
武田正が机上に滑り込ませた真っ白なA4用紙に、ベルガーは怯えたように目を走らせた。
部屋の隅では、笑顔のハイエルフが紫の胞子を揺らし、天使が突撃銃を構えて全宇宙へ実況し、猫人が算盤を弾き、人魚が床で小銭を求め、人狼が剃刀のような名刺を構えている。
そして何より、隣の月兎族の小娘村長が、いつ顎を砕いてやろうかと紅い瞳を爛々と輝かせていた。
まさに四面楚歌、地獄の客間である。
しかし、ベルガーにとって真に恐ろしいのは、その怪物たちを片手のジェスチャー一つで完全に制御している、この背広姿の中年男だった。
「な、何を血迷ったことを……! その書類は、帝国内務省の正式な命令書だぞ! たかが一介の村役場の事務員風情が、帝国の法に異を唱えることなど許されん!」
絞り出すようなベルガーの恫喝。
だが正は、その言葉を完全にオフィスノイズとして聞き流していた。
正は愛用のパーカー製万年筆のインクフローを確かめ、視界の端に展開された青白い監査ウィンドウを静かにスクロールさせた。
【包括的決裁権限(社内稟議)】――派生コマンド。
【稟議書閲覧(ステータス監査)】
対象文書:『国境緩衝地帯特別令に基づく懲罰的追徴課税通知書』
発信者:ルナミス帝国内務省 特務監察官 フィリップ・フォン・ベルガー
要求金額:金貨五百枚(ポポロ村全住民に対する連帯納付義務)
コンプライアンス監査結果:
・重大な手続瑕疵:3件
・根拠法令の不適合:2件
・刑法違反(職権濫用・収賄未遂):明白
当事者適格:ポポロ村役場 総務法務兼務課長として、村財政防衛の全権行使が可能。
――【差戻し要件:完全充足】
「客観的事実の立証は、すでに完了しました」
正は銀縁眼鏡のブリッジをクイと押し上げ、氷のように透徹した声で告げた。
「ベルガー監察官。貴方の提示された通知書には、行政法上、到底看過できない【致命的な瑕疵】が三点存在します」
正は指を一本立てた。
「第一に、職権権限の逸脱――すなわち『専決事項の濫用』です。この通知書をよく見ると、捺印されているのは貴方個人の特務監察印のみ。帝国内務省本省の『大臣決裁印』、ならびに会計総局の『支出負担行為兼徴収決定印』が欠落しています」
「な……ッ!?」
「金貨五百枚という巨額の追徴課税は、帝国行政組織法第42条に基づき、内務大臣の直裁を要する重大案件のはず。出先機関の課長補佐クラスに過ぎない特務監察官が、独断専行で発行できる法的権限は存在しません。これは公文書偽造、ならびに明白な越権行為です」
ベルガーの額から、滝のような冷や汗が吹き出した。
田舎の農村が、帝国内務省の内部決裁規程など知るはずがないと高をくくっていたのだ。
正は容赦なく二本目の指を立てた。
「第二に、国際条約違反――ガオガオン基本法第3条(デュー・プロセスの原則)の蹂躙です」
「ガ、ガオガオン基本法だと……!? あんなものは大昔の神話の――」
「神話ではありません。現在も統合統治基本OS『LEX-LUCIANA』を通じて常時稼働している、全大陸の最高位法規です」
正は平然と言い放った。
「ポポロ村が位置するこの地域は、ルナミス帝国、レオンハート獣人王国、アバロン魔皇国の三極による『中立国境緩衝地帯協定』によって保護されています。特定の一国が単独で懲罰的課税を課すことは、緩衝地帯の現状変更を禁じたガオガオン基本法に抵触します。課税を行うのであれば、三大国合同調整委員会による全会一致の承認決議書を添付すべきです。……添付文書はどこにありますか?」
「そ、そんなもの……あるわけが……!」
「無いですね。つまり手続きの完全な不備です」
正は静かに首を振り、三本目の指を立てた。
その眼鏡の奥の光は、もはや哀れな不正役人を解剖台の上に乗せた執刀医のそれだった。
「そして第三に、最も悪質な点ですが……徴収目的の違法性です。先ほど当村のキャルル村長が指摘した通り、貴方はこの金貨五百枚のうち、二百五十枚を帝都の個人別荘購入資金に、五十枚を高級馬車の購入に充当する私的使途を企図していますね」
「ひ、ヒィィッ……!? そ、それは……!」
「行政庁の権力を私腹を肥やすために行使する行為は、刑法における重罪――職権濫用恐喝罪、ならびに加重収賄未遂罪に該当します。……以上の三点から、この追徴課税通知書は法的に一切の効力を持ちません」
正は手元のA4起案用紙に、滑らかな万年筆の走りで最後の文章を書き殴った。
【起案番号:0005】
【件名:ルナミス帝国内務省監察官による不当追徴課税通知に対する【差戻し】および本省告発の件】
・根拠法令:ガオガオン基本法第3条、帝国行政手続法第14条(手続瑕疵による無効)
・事実関係:専決権限の逸脱、国際緩衝協定の蹂躙、私利私欲に基づく公文書偽造恐喝
・決裁内容:
一、当該追徴課税通知書を「重大かつ明白な瑕疵による原始的無効」として全面【差戻し(リジェクト)】する。
二、被疑者フィリップ・フォン・ベルガーの違法行為に関する証拠一式を、帝国内務省監査院および最高裁判所へ直通送達する。
正は朱肉ケースをパチンと開き、愛用の三文判の印面に丹念に朱を馴染ませた。
「な、何を……何をする気だ貴様ァッ!?」
錯乱したベルガーが叫ぶ中、正は起案用紙の決裁欄めがけて、静かに三文判を振り下ろした。
「――手続きに不備のある書類は、受領できません。出直してください」
トン。
乾いた捺印の音が、静まり返った客間に響き渡った。
【決裁執行――包括的決裁権限に基づき、不当課税通知を【差戻し(リジェクト)】】
パァァァァァァンッ!!
神々しいまでの青白い燐光が、テーブルの上に置かれていた羊皮紙の通知書から弾け飛んだ。
金箔の押された豪華な書類が、目に見えない巨大な印鑑の力によって根底から否定され、インクの文字が文字通り「巻き戻る」ように紙面から蒸発していく。
そして羊皮紙そのものが、バサバサと音を立てて純白の灰へと分解され、風もないのに消え去った。
「あ……ああっ!? わ、私の通知書が……公文書が消滅したァッ!?」
ベルガーが椅子から転げ落ち、腰を抜かして床を這い回る。
事象そのものを書き換える【差戻し】の威力。帝国が誇る魔導公文書ですら、コンプライアンスの絶対障壁の前にはただの紙屑にすらなれなかった。
だが、武田正の仕事は、これで終わりではなかった。
「リバロン執事、ニャングル支店長」
「はい、武田殿」
「へい、手はずは整っとるで」
二人がスッと差し出したのは、完璧に調製された二通の書類だった。
「ベルガー監察官。貴方の本日の暴挙、ならびに過去の不正蓄財の全容ですが……」
正は銀縁眼鏡の奥の目を眇め、冷徹な微笑を浮かべた。
「キュララさんの生配信ログ(同時接続八千万人、全宇宙神界アーカイブ済み)。ニャングル支店長が取りまとめた貴方のゴルド商会個人借入焦げ付き明細。そしてリバロン執事を通じて、帝国内務省のオルウェル内務官直通ホットラインへ、たった今『特命告発状』として電信送信いたしました」
「オ……オルウェル閣下に……!? あの、冷血無比な法家にして査察の鬼神に……!?」
ベルガーの顔が、蒼白を通り越して土気色になった。
帝国内務省筆頭内務官オルウェル。不正を働いた官僚を一族郎党ごと法的に解体することで恐れられる、帝国の生けるギロチンである。
「今頃、帝都の貴方の屋敷には、内務省監察局の査察部隊とゴルド商会の差押え部隊が同時に突入している頃でしょうね。……さあ、どうされますか? このまま村で寛がれますか? それとも、帝都へ戻ってオルウェル閣下に直接言い訳をなさいますか?」
「ひ……ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ!!」
もはや言葉にならなかった。
ベルガーは脱ぎ捨てた靴も履かず、泥水まみれの靴下のまま客間を飛び出した!
「に、逃げろォォッ! 帝都へ戻るんだ! 屋敷の金庫を隠せェェェッ!」
階段を転がり落ちるような足音、そして悲鳴を上げながら脱兎のごとく街道へ駆け出していく帝国兵たち。
外からは、装甲馬車が車輪を軋ませ、凄まじいスピードで逃げ去っていく砂煙の音が響いてきた。
客間に、静寂が戻った。
「……ぷっ、あはははは! 靴忘れて逃げてったよ、あのお役人!」
キャルルがお腹を抱えて大笑いし、ピコピコと兎耳を揺らす。
「いやあ、見事や! 一銭も払わんどころか、帝国の汚職官僚を一匹社会的に屠殺しよったで! タダシはん、アンタほんまに商人にならんか? うちの共同経営者に迎えたいわ!」
ニャングルが煙管を鳴らして目を丸くし、キュララも「神回確定〜☆ スパチャ止まんないよ〜!」と画面越しに歓声を上げる。
リバロンは深く頭を下げ、賞賛の眼差しを正に向けた。
「……流石でございます、武田殿。暴力ではなく、敵の拠って立つ法と制度そのものを利用して、骨の髄まで解体する。オルウェル内務官も、貴殿の手際の見事さに舌を巻いていることでしょう」
狂気的な住人たちが、熱狂と敬意を込めて正を取り囲む。
だが――武田正は、そんな賞賛には目もくれなかった。
チク、タク、チク、タク。
壁の振り子時計が、重厚な音を刻んでいる。
ボォォォォン……! ボォォォォン……!
村の中央の鐘楼から、夕暮れを告げる澄んだ鐘の音が五回、響き渡った。
午後十七時ちょうど。
正はすっと立ち上がり、愛用のパーカー製万年筆を胸ポケットに収め、A4の書類を鞄にしまった。
そして、乱れたネクタイを整え、くたびれたチャコールグレーのスーツの背筋をピンと伸ばす。
「お疲れ様でした。定時ですので、退勤いたします」
「……えっ?」
呆気にとられるキャルルたちを尻目に、正はドアノブに手をかけた。
「本日の残務はすべて完了しました。契約に基づき、これよりプライベートの時間に入ります。途中の酒屋で冷えたイモッカ・ソーダを買い、自室で静かに晩酌をさせていただきますので、緊急事態以外の面会はご遠慮ください」
「ちょ、ちょっと待ってタダシさん! あんな大仕事をやってのけて、定時だからってそのまま帰るの!? 今夜こそ歓迎パーティーを――」
「時間外の私的行事は【却下】です」
正は営業スマイルを綺麗に消した、無敵の「定時退社フェイス」で一礼し、軽やかな足取りで客間を後にした。
廊下を歩く正の足取りは、前世の激務時代には決して味わえなかった、羽のように軽い解放感に満ちていた。
(勝った……。理不尽な残業をすべて叩き潰し、十七時退社をもぎ取ったぞ……!)
ポケットの中で、胃薬のシートが心地よく擦れる。
冷えた酒。静かな夜。これこそが、武田正が求め続けた理想のスローライフだった。
――だが。
役場の玄関を出た正の背後で、夕闇が急速に濃さを増していた。
東の山の端から、異様なほど巨大で、妖艶な光を放つ蒼白の満月が、ゆっくりと姿を現し始めていた。
役場の二階の窓辺。
村長執務室の暗がりの中で、キャルルが両手を組み、窓の外の満月を見上げていた。
その白銀の長い兎耳が、ピンと直角に跳ね上がる。
紅い瞳の奥で、理性のタガがバキバキと音を立てて砕け散っていく。
ドクンッ! ドクンッ! ドクンッ!
キャルルの心臓が、リミッターを遥かに超えたマッハのビートを刻み始めた。
「……あはっ♡ 月が綺麗……♡」
甘く、熱く、狂気的な吐息が漏れる。
「タダシさん……あんなにカッコいいところ見せられたら、私の心臓、もう爆発しそうだよ……♡ 命が燃えてるぅ……! この溢れるパッション、三大国の兵舎にカチコミかけて、みんなまとめて全回復させて発散しなきゃ……!!」
ポポロ村に、恐怖の「満月の夜」が訪れようとしていた。
四十歳元課長の静かな晩酌を脅かす、マッハ1の巡航ミサイル村長の暴走まで――あと数時間。
読んでいただきありがとうございます。
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