EP 10
満月の夜の恐怖:マッハ1の巡航ミサイル村長
午後十九時三十分。
ポポロ村の夜は、都会の喧騒とは無縁の深い静寂に包まれていた。
村役場の裏手にある職員用宿舎の一室で、武田正は至福の溜息を吐き出していた。
ネクタイを外し、ワイシャツの第一ボタンを緩め、畳敷きの小上がりにどっかりと腰を下ろす。
ローテーブルの上には、村の酒屋で調達してきたキンキンに冷えた『イモッカ・ソーダ』の銀缶が一本。そして、ゴルド商会の売店で買い求めた、厚切りの『肉椎茸』を塩とワサビで香ばしく炙った小皿が並んでいた。
正はスラックスのポケットから、銀色に光る錠剤シートを取り出した。
胃薬を二錠、指先でプチリと押し出し、冷水で喉の奥へと流し込む。
(これだ……。このために俺は、あの理不尽な商社で二十年間、泥水を啜り続けてきたんだ)
ぷしゅっ、と小気味よい音を立てて缶のプルタブを起こす。
きめ細やかな泡が弾け、芳醇な芋の香りと炭酸の爽快な刺激が立ち上る。
グラスに注ぐことすら惜しみ、直接口をつけてゴクリと喉を鳴らした。
「……美味い」
五臓六腑に染み渡るアルコールと炭酸。
すかさず、こんがりと焼き目のついた肉椎茸を一切れ口へ運ぶ。噛み締めた瞬間に溢れ出す、肉と見紛うほどの濃厚な旨味エキスと、ツンと鼻を抜ける本ワサビの刺激。
定時に仕事を終わらせ、誰にも邪魔されず、静かに酒を飲む。
前世で過労死するその瞬間まで渇望し続けた「ささやかな人間の尊厳」が、いま完全に満たされていた。
――だが。
その平穏は、缶の半分を飲み干したところで、無惨にも叩き壊された。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……!!
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……!!
村の中央にそびえ立つ見張り塔から、昼間の火災報知とは明らかに音程の異なる、重苦しく不吉な空襲警報のようなサイレンが鳴り響いた。
続いて、宿舎の外の通りから、ドタバタと慌ただしい足音と怒号が聞こえてくる。
「急げ! 雨戸を全部閉めろ! 鉄の閂を二重に掛けろ!」
「地下シェルターへ避難だ! 毛布と非常食を持ったか!?」
「今夜は……今夜は『満月』だぞォォッ!!」
「……満月?」
正はグラスを持ったまま眉をひそめ、部屋の障子を開けて窓の外を見上げた。
東の空、稜線の向こうから昇りつつあったのは――巨大な、あまりにも巨大な白銀の月だった。
盆地全体を昼間のように青白く照らし出し、空気中の魔素がチリチリと静電気のような微小な音を立てて発光している。
トントン、と宿舎の玄関戸が上品に叩かれた。
「武田殿。晩酌の折に大変恐縮ですが、少々よろしいでしょうか」
聞き慣れた、低く艶のある落ち着いた声音。
正が玄関を開けると、そこには燕尾服の胸元に防毒マスクをぶら下げ、手には分厚い『耐衝撃毛布』を抱えた銀灰色の人狼――リバロンが立っていた。
「リバロン執事。外が随分と物騒な騒ぎになっていますが……また帝国の査察官ですか?」
「いえ。帝国軍の一個軍団が攻めてくる方が、まだ平穏でございますよ」
リバロンはモノクルを直しながら、苦笑混じりに空の満月を仰いだ。
「今宵は、月に一度の『大潮満月』。――我が主、キャルル・ムーンハート村長の生体リミッターが、完全に消失する夜でございます」
「……生体リミッターの消失?」
正が聞き返した、その瞬間だった。
ドッガァァァァァァァァンッッッ!!
数百メートル離れた村長公邸の二階から、まるでドンガン製の対艦榴弾砲が直撃したかのような凄まじい爆発音が轟いた。
黒煙とともに、粉々に吹き飛んだオーク材の窓枠と屋根瓦が夜空高く舞い上がる。
煙を突き破り、公邸の屋根の上へと飛び出してきたのは――白銀の髪を逆立て、紅い瞳を爛々と輝かせた、愛らしい月兎族の美少女だった。
だが、昼間の彼女とは放っている気配が次元ごと異なっていた。
彼女の華奢な四肢から噴き出しているのは、白煙と見紛うほどの超高密度な月光闘気。
足元の屋根瓦が、彼女が軽く体重をかけただけでバキバキと音を立てて粉砕されていく。
両手には、愛用のダブルトンファーが白熱するほどの神気を帯びて握られていた。
「アハハハハハハハッ! 月が綺麗! お月様がすっごく綺麗だよぉぉぉっ!!」
キャルルが両手を広げ、夜空に向かって鈴を転がすような、だが底知れぬ狂気に満ちた美声を響かせた。
「身体が熱い! 心臓がバクバク言ってる! 命が! 私の命が燃えてるぅぅぅううッ!!」
ドバァッ! と大気を踏み抜く轟音。
キャルルの小柄な身体が屋根を蹴った瞬間、衝撃波で公邸の煙突がへし折れた。
彼女は重力を無視して夜空へと跳躍し、村の中央広場めがけて垂直に急降下した。
着地と同時に、石畳がクレーター状に陥没し、砂塵が吹き荒れる。
「ひ、ひぃぃぃ! 出たぁぁっ! 村長のカチコミ発作だぁぁっ!」
「自警団、網を構えろ! 村の外へ出すな! 近隣諸国が消し飛ぶぞ!!」
広場に展開していた自警団員たちが、巨大な捕獲用ネットと九九式魔導ライフルを構えて包囲網を狭める。
先頭に立つのは、四脚を踏ん張り、巨大なパイルバンカー『アグニ』の杭をガシャンと装填したケンタウロスの団長マンミアだった。
「キャルル殿、正気を取り戻してください! 今夜はダメです! 先月もレオンハート王国の前線兵舎を更地にして、始末書を書いたばかりでしょう!」
「マンミアぁ? 何言ってんのぉ! こんなに月が輝いてるのに、お布団で寝てるなんて命の冒涜だよぉ!」
キャルルは満面の笑みを浮かべ、トンファーをくるくると音速で回転させた。
「世界中の病気の人を治さなきゃ! 元気のない兵隊さんたちを殴って気合を注入しなきゃ! 愛と! 熱血と! 全回復のカチコミだよぉぉぉッ!!」
「止めろォォッ!」
自警団が一斉に捕獲ネットを投擲した。
だが――。
ズバァァァァァァァンッ!!
音の壁を突き破る、衝撃的なソニックブームが広場を薙ぎ払った。
キャルルが一歩踏み込んだ瞬間、彼女の姿は完全に視界から消失していた。
網は虚しく大気を裂き、自警団の頑強な巨漢たちが、突風の圧力だけで木の葉のように四方八方へ吹き飛ばされる。
マッハ1――音速巡航ミサイルと化した美少女村長。
彼女が国境の街道へ向けて大地を蹴ろうとした、その刹那――。
「――村長。そこまでです」
吹き荒れる暴風の中、凛と通る、氷のように落ち着いた声が落ちた。
「……え?」
キャルルの長い白銀の兎耳が、ピクリと跳ねた。
街道へと向けられていた彼女の紅い瞳が、村のゲートの前に立つ「人影」へと吸い寄せられる。
そこに立っていたのは――。
ワイシャツの腕をまくり、スラックスに革靴を履き、右手にクリップボード、左手に愛用のパーカー製万年筆を構えた四十歳の中年男――武田正だった。
背後には、青白い光を放つシステムウィンドウが展開されている。
【包括的決裁権限(社内稟議)】――派生コマンド起動。
【稟議書閲覧(ステータス監査)】
対象:第43代ポポロ村長 キャルル・ムーンハート
生体状態:
・満月光吸収によるドーピング(身体能力および治癒権能:通常時の約1200%へ急上昇)
・巡航速度:マッハ1.2(音速突入)
・精神状態:超絶躁状態(理性のタガ完全崩壊・過剰利他精神の暴走)
発生予測被害:
・近隣総合病院への不法侵入および強制全回復(医療機関の売上損害:金貨三千枚)
・三大国国境守備隊兵舎の物理的損壊(器物破損賠償請求リスク:金貨約八千枚)
重大な服務規程違反:
・労働基準法類推:所定外労働における事前申請の完全欠落(無断深夜労働)
当事者適格:ポポロ村役場総務法務課長として、所属長(村長)の違法行為を阻止する正当権限あり。
――【監査権限:完全承認】
「タ、タダシさん……?」
キャルルの紅い瞳が、わずかに揺らいだ。
彼女の研ぎ澄まされた聴覚が、正の左胸の鼓動を捉える。
ドクン。ドクン。ドクン。
毎分、きっかり六十拍。
マッハの衝撃波が吹き荒れ、自警団が吹き飛び、地面が陥没している修羅場の真ん中で――男の心拍数は、晩酌の途中で立ち上がった時と、一拍たりとも乱れていなかった。
(うそ……なんで……? 私の音速の殺気を受けて、心臓が……お昼寝してる時みたいに静かなの……!?)
狂乱の脳内に、冷たい水が一滴垂らされたように、キャルルが足を止めた。
正は銀縁眼鏡を中指でクイと押し上げ、クリップボードに挟んだ真っ白なA4用紙を、キャルルの目の前へ突きつけた。
「村長。貴方のその行動、ポポロ村職員服務規程第12条、ならびに時間外労働管理協定に重大な違反がございます」
「ふ……ふくむきてい……?」
「ええ。現在の時刻は十九時四十分。定時の十七時を二時間四十分超過しております。にもかかわらず、貴方の机の上には『時間外・休日労働に関する事前申請書(36協定申請)』が提出されておりません」
正の声は、深夜残業を無許可で強行しようとする問題社員を呼び出した時の、冷徹な人事課長そのものだった。
「無届の時間外労働は、労働安全衛生上の重大な規律違反です。さらに、他国の領内へ音速で突入し、兵舎を損壊した上で兵士を殴打・全回復させる行為は、国際法上の不法侵入および主権侵害に該当します。試算によれば、今夜貴方が暴走した場合、村が被る損害賠償請求額は金貨一万枚を突破します」
正は手元の用紙に、万年筆で迷いなく文字を走らせた。
【起案番号:0006】
【件名:所属長(村長)による無届深夜労働および越境実力行使に対する【差戻し】の件】
・事実関係:事前申請なき時間外労働、ならびに国際賠償リスクを伴う私的暴走
・決裁内容:当該無断出撃を「予算外・コンプライアンス違反」として即刻【差戻し(リジェクト)】する。
「よって、本件出撃は【差戻し】とします。直ちに自室へ戻り、就寝してください」
正は朱肉ケースを開け、三文判を構えた。
周囲で見守っていたマンミアや自警団員たちが、息を呑んで目を丸くしている。
音速で大陸を駆ける天災を前にして、書類と印鑑を突きつけて「就寝しろ」と言い放つ中年男。正気の沙汰ではない。
だが――。
「や……だ……っ!」
キャルルが首を激しく横に振った。
長い白銀の兎耳が、狂乱の闘気でバチバチと火花を散らす。
「タダシさんの言うこと、聞きたいよ……! 怒られたくないよぉ……! でも、身体が……満月の光が、熱くて、苦しくて……命が燃え尽きちゃうよぉぉぉっ!!」
ドオォォォォンッ!!
耐えきれなくなったキャルルの身体から、極大の闘気が爆発した。
マッハ1.2の衝撃波が大気を裂き、彼女の身体が弾丸のように跳ね上がる。
正の頭上を飛び越え、防壁のゲートを粉々に粉砕して、外の街道へと一直線に射出された。
「アハハハハッ! ごめんなさいタダシさん! カチコミ行ってきまぁぁぁすッ!!」
夜空の彼方へ、白銀の閃光となって消えていく巡航ミサイル村長。
粉塵が舞い散る街道に、沈黙が落ちた。
「あぁ……行っちまわれた……」
「今月も終わりだ……明日から各国の抗議文と賠償請求の嵐だぞ……」
膝をついて絶望する自警団員たち。
マンミアもまた、パイルバンカーを下ろして肩を落としていた。
だが――。
パチン、と万年筆のキャップを閉める乾いた音が響いた。
「……やれやれ」
武田正だった。
彼は乱れた前髪をかき上げ、胸ポケットから胃薬を取り出して水なしで噛み砕いた。
苦い粉末が口腔に広がり、鈍く痛む胃の腑を撫でる。
「武田殿……諦めるしかございません」
リバロンが静かに歩み寄ってきた。
「満月の夜の主は、神話の天災そのもの。あれを地上から止める術は、この大陸のどこにも存在しないのです。……今夜のところは、お部屋へ戻って晩酌の続きをなさってください」
だが、正は首を横に振った。
その銀縁眼鏡の奥の瞳には、冷徹極まりない「大人の危機管理意識」が宿っていた。
「放置することはできませんね」
「……はい?」
「トップが現場で暴走し、他社――失礼、他国に甚大な損害を与えようとしているのです。後から請求書が届いてからでは、法務の手の打ちようがありません。現場でリアルタイムに損害を査定し、証拠を保全し、示談の材料を揃えなければ、村の財政が破綻します」
正はスラックスのポケットから名刺入れを確かめ、クリップボードを小脇に抱えた。
「リバロン執事。村で一番足の速い移動手段を用意してください」
「ま、まさか……あのマッハの主を追うおつもりですか!?」
リバロンがモノクルを取り落としそうになりながら目を見開いた。
常に冷静沈着な人狼の執事が、生まれて初めて見せた狼狽だった。
正は時計の針を見つめ、深いため息をついた。
「ええ。……十七時退社どころか、徹夜の緊急現場出向とはな。前職の深夜トラブル対応を思い出して、胃が痛くて敵いませんよ」
正はスーツの上着を羽織り、ネクタイをきっちりと締め直した。
「ポポロ村役場総務法務課長として、村長の『現場マネジメント』へ同行します。――リバロン執事、出張申請書の決裁をお願いしますよ」
冷えたイモッカ・ソーダの晩酌を中断させられた四十歳元社畜課長。
理不尽な天災村長を追いかける、大人の過酷な「深夜残業」が、いま幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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