EP 5
純金100kg塩漬け問題と、ハイパーインフレの危機
午前十時。快晴のポポロ村。
役場前の中庭では、一昨日正から「新品種の育成企画」を命じられたルナ・シンフォニアが、泥沼源蔵とともに楽しそうに特産品ポポロシガーの苗木に肥料を与えていた。
平和そのものの農村風景である。
「……よし。このまま何事も起きなければ、今日こそは平和に十七時退社ができる」
総務課執務室の窓からその様子を眺め、武田正は満足げに頷いた。
チャコールグレーのスーツの襟を正し、胸ポケットから銀色のシートを取り出して、胃薬を一粒口に放り込む。苦い粉末が胃に馴染んだ、まさにその瞬間だった。
――ズドォォォォォォンッ!!!!
執務室の床がトランポリンのように跳ね上がり、窓ガラスがビリビリと激しく悲鳴を上げた。
地震ではない。衝撃の中心は、中庭だ。
「な、なんだ!? また山賊か!? それとも帝国軍の空爆ですか!?」
「タダシさん、大変! 中庭に、また『アレ』が降ってきたぁぁッ!」
廊下から、長い白銀の兎耳を振り乱した村長キャルルが転がり込んできた。
正は万年筆を胸ポケットに差し込み、クリップボードを小脇に抱えて即座に現場へ急行した。
***
中庭の中央。
敷石が粉々に陥没した直径三メートルのクレーターの中に、それは『鎮座』していた。
周囲の空気を歪めるほどの圧倒的な質量。
朝の陽光をギラギラと照り返し、直視した者の目を灼くような眩い黄金の輝き。
直方体に美しく成型され、表面には「世界樹直轄銀行・特級保証」の神聖文字が刻印された――巨大な純金インゴットの山。
「……これは?」
「あら、タダシ様♡」
土汚れ一つない純白のローブを揺らし、ルナがおっとりと駆け寄ってきた。その顔には、親戚からお中元が届いた時のような呑気な笑みが浮かんでいる。
「ちょうどよかったですわ! 世界樹の森の母上から、今月分の『お小遣い』がテレポートで届きましたの♡」
「お、お小遣い……?」
正は銀縁眼鏡のブリッジを押し上げ、スキル【稟議書閲覧(ステータス監査)】を起動した。
――――――――――――――――――――
【現物資産確認】高純度精錬金塊
【総重量】100.00kg(時価:約十億円相当)
【送金元】大陸最奥・世界樹の森(第1種王族基礎年金および小遣い枠)
【受取人】ルナ・シンフォニア
【送金頻度】毎月二十五日(定期自動転送)
――――――――――――――――――――
「ひゃ、ひゃっきろ……!?」
正の喉から、元商社マンとは思えない素っ頓狂な声が漏れた。
純金百キログラム。地球の相場に換算しても、ざっと十億円を下らない天文学的な富が、ただの「仕送り」として地面に転がっているのだ。
「ぎょ、ぎょえぇぇぇぇぇぇええええッッ!!!!」
次の瞬間、小豆色の芋ジャージを着た影が、時速百キロの低空飛行で金塊の山へとダイブした。
一昨日に正規公務員として採用されたばかりの深海王女人魚、リーザ・シーランである。
「き、金塊! 本物の純金ですわぁぁぁぁ!! すりすり……冷たくて、重くて、資本主義の極上の匂いがいたしますわぁぁッ!」
リーザは便所サンダルを放り出し、金塊に頬を狂気的な手つきで擦り付けながら、両手で一本のインゴット(約十キロ)を持ち上げようと必死に腰を浮かせた。
「ルナ様! 私、タダシ様の広報アイドルとして日々ポポロ村の発展に命を捧げておりますの! この金塊の角っこ、ほんの五ミリほど削って私に恵んでくださいまし! それだけでタローソンのおにぎりとからあげクンが向こう三年分食べ放題になりますのよぉぉぉッ!」
「まあまあ、リーザさん。そんな遠慮なさらず、タダシ様と村の皆さんで山分けしてくださって構いませんのよ? 私、物欲はあまりありませんし、村の広場にお菓子の家でも建てて、毎日みんなで食べ歩きしたら楽しそうですわ♡」
「「「アホかぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」」」
天を突き破るような怒号が中庭に響き渡った。
物陰から血相を変えて飛び込んできたのは、ゴルド商会のニャングル支店長である。
愛用の算盤を振り回し、キセルの吸い口からボロボロと灰を撒き散らしながら、リーザの後頭部を算盤の枠組みでスコォォン!と引っぱたいた。
「痛ぁぁぁいっ!? 何しますの守銭奴猫ぉッ!」
「黙れ寄生魚! その薄汚い手ぇで金塊に触るんやない! 山分けやと!? お菓子の家やと!? 正気か自分らぁッ!!」
ニャングルは金塊の前に立ちはだかり、額に青筋を浮かべて叫んだ。
「ええか、よう計算してみぃ! このポポロ村の人口はたったの一千人や! 年間の村内総生産(GDP)は約六億七千万円! そこにやな、毎月十億円相当の純金が市場へ無秩序にバラ撒かれてみぃ! 何が起きると思うてんねん!」
「え……? みんな大金持ちになって、ハッピーですわよね……?」
ルナがおっとりと首を傾げた瞬間、ニャングルは頭を抱えて卒倒しかけた。
「ハッピーなわけあるかいドアホがぁッ! 貨幣価値の完全崩壊じゃ!! 村中の農民が『金塊があるから畑仕事なんてアホらしゅうてやってられん』言うて労働を放棄する! 野菜も肉も供給がゼロになる! その結果、一個のキャベツを買うのに金貨千枚が必要になる超絶ハイパーインフレの開幕や! ウチのゴルド商会が発行しとる地域通貨『PG』は明日にもただのケツ拭き紙になるわぁッ!!」
「ひ、ひえぇぇぇ……ッ!」
リーザが怯えて後ずさりする。
キャルルも青ざめ、長い兎耳をギュッと押さえながら正のスーツの袖を引っ張った。
「そうなの……! タダシさん、ルナちゃんが村に来てから毎月これが届くの! 今まで届いた分は、インフレが怖くて公邸の地下核シェルターの最深部に全部極秘で詰め込んで『塩漬け』にしてるんだけど……もう地下室の床が抜けそうなくらいパンパンで……!」
「なるほど……」
正は深く息を吐き出し、胸ポケットから胃薬を取り出してもう一粒飲み込んだ。
まさに絵に描いたような「資源の呪い(オランダ病)」の極致である。
無尽蔵の富は、適切にコントロールされなければ共同体を一瞬で腐敗させ、自滅へと導く劇薬に他ならない。
「ルナさん」
「はい、タダシ様?」
「この金塊の所有権は貴女にありますが、村落内における現金の無秩序な直接流通、および私的な山分け贈与は、ポポロ村金融適正化規則に基づき全面的に【禁止】とします」
「えぇ〜、ダメなんですの?」
唇を尖らせるルナに、正はクリップボードから一枚の新規起案用紙を取り出した。
「ただし――ただ地下シェルターに塩漬けにして眠らせておくのも、資本の死蔵であり極めて非効率です。そこで、この百キロの純金を『担保準備資産』として法的に組み込みます」
「たんぽ……じゅんび……?」
正の言葉に、ニャングルがピクッと獣耳を跳ねさせた。
「……おいタダシはん。担保にするっちゅうことは、まさか……」
「ええ。ポポロ村役場とゴルド商会の共同出資による、『金本位制に基づく村内インフラ振興債券(通称:ポポロ債)』の発行です」
正はパーカー製の万年筆を鮮やかに走らせ、条文を即座に書き上げていく。
「現物の純金百キロは、全額村の特別会計『財政調整基金』へ預託・封印します。市場へは一握りの金粉すら流出させません。その代わり、この強固な金準備を裏付けとして、ポポロ村役場が年利二パーセントの『インフラ債券』を総額一億円分だけ限定発行する」
正は冷徹かつ論理的な説明を続けた。
「債券の購入対象者は、村人ではなく――三大国の豪商や貴族たちです。『世界樹の純金百キロが完全担保された、絶対に焦げ付かない大陸一安全な確定利回り債券』。ニャングル支店長、これを開放すればどうなりますか?」
「……っ!!」
ニャングルの瞳が、カッと真円に見開かれた。
カチカチカチカチッ!!
猛烈な速度で算盤の珠が弾かれ、摩擦熱で火花が散る。
「売れる……! 飛ぶように売れるでぇッ!! いま三大国は国境紛争でどこも通貨不安を抱えとる! 帝都や王国の貴族どもは、資産の逃避先を血眼で探しとるんや! 世界樹直筆の金担保がついた債券なんか、プレミアム価格をつけても一瞬で完売や! 外貨が……三大国の本物の流動性資金が、ウチの村へ合法的に雪崩れ込んでくるでぇッ!!」
「その集まった外貨を原資として、村の防壁強化、用水路の近代化、そして農民への低利融資に計画的に充当します。インフレを起こさず、通貨価値を盤石にし、ルナさんの資産も目減りすることなく確実に利息を生み出す。――ルナさん、貴女の『お小遣い』は、このようにして村の未来を守る盾とするのが最も美しい使い方です」
正が稟議書の末尾に愛用の三文判をドンッ!と力強く押し当てた。
【包括的決裁権限(社内稟議)――金本位制インフラ振興債券発行スキーム承認】
青白い契約の光柱が金塊の山を包み込み、地下シェルターへと自動的に安全格納されていく。
市場を破壊することなく、神話級の富が完璧な近代金融工学によって飼い慣らされた瞬間であった。
「まあ……! 私の持ってきたものが、そんなに立派な形で皆様のお役に立てますなんて……♡」
ルナは両手を胸の前で合わせ、陶酔したように頬を染めた。
「タダシ様って、本当に魔法使いのようですわね! 世界樹の森の長老たちよりもずっと頼もしくて、知的で、素敵ですわ……♡」
「いえ、私はただのサラリーマンですから」
正が苦笑いした、その背後。
――ドクン……ドクン……ドクン……。
大気を震わせるような、重苦しい心音の波動が背中に突き刺さった。
恐る恐る振り返ると、そこには両腕を組み、長い兎耳をピーンと逆立てたキャルルが、凍てつくような満面の笑みで立っていた。
「……ねぇ、タダシさん?」
「は、はい、村長……」
「ルナちゃんの持ってきた金塊、すっごく上手に料理したね。村長として満点をあげちゃう。……でもね」
キャルルが音もなく間合いを詰め、正の耳元へ顔を寄せる。
「……なんでさっき、ルナちゃんに微笑みかけた時、心拍数が毎分三回跳ね上がったのかなぁ……? 十億円にドキドキしたの? それとも……ルナちゃんのあの豊満な胸元に見とれてたのかなぁ……? ねぇ、どっち……?」
「め、滅相もありません! 十億円という数字に対する職業病の動悸です!」
「ふ〜ん……? じゃあ今日のランチは、私の手作り人参オムライスね。タダシさんの口に、私がスプーンで全部『あ〜ん』してあげるから。……一粒残さず、私の目の前で食べてね♡」
正の背筋を冷や汗が滝のように流れ落ちた。
壁の時計は、午前十時四十分。
定時退社の十七時まで、あと六時間と二十分。
四十歳元社畜課長の胃痛は、天文学的な資産が増えても何一つ癒えそうになかった。
読んでいただきありがとうございます。
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