EP 4
稟議却下:『無資格医療行為および生命倫理違反』
「……えぇ〜? どうして通らないんですの、タダシ様?」
ルナ・シンフォニアはおっとりと小首を傾げ、エメラルドグリーンの瞳を丸くした。
その純白のエルフローブの袖からは、依然として鋭利な外科用メスと大工用のノコギリがキラリと凶悪な光を放っている。
彼女の表情には、一片の悪意も、やましさも存在しない。あるのは百パーセントの善意と、純度一万パーセントの「困っている隣人を救ってあげたい」という聖母の慈愛だけだった。
だからこそ、タチが悪すぎるのだ。
「理由? 決まっているでしょう」
正は冷徹な眼差しのまま、手元の朱肉ケースから愛用の三文判を取り出した。
視界の端で激しく点滅する青白い監査ウィンドウ。その中心に浮かび上がる『腎臓無限売買クリニック事業認可申請書(起案者:ルナ・シンフォニア)』という悪夢のようなホログラムに対し、正は印鑑の平らな木製グリップを迷わず叩きつけた。
「――【稟議差戻し(リジェクト)】」
カッ……!
乾いた捺印音とともに、虚空へ深紅の『却下』の光印が撃ち出された。
パキィィィィンッ!
ルナが握りしめていたメスとノコギリが、まるで「存在理由」を根本から否定されたかのように青白い火花を散らし、粉々の光の塵となって大気中へ霧散した。
同時に、泥沼源蔵の全身をギリギリと締め上げていた世界樹の蔦が、シュルシュルと勢いを失って地面の土の中へと潜り、消え去っていく。
「ひ、ヒィィッ……! た、助かったぁぁぁ……! オラの腎臓が……オラの脇腹が繋がったままだぁぁッ!」
拘束を解かれた泥沼源蔵が、地面に転がり落ちて自分の腹を何度もさすりながら、赤ん坊のように泣きじゃくった。
周囲の村人たちからも、「「うおおおおおっ! 課長ォォォッ!!」」と地割れのような歓声が沸き起こる。
「あら……? 私のメスが消えてしまいましたわ……?」
手の中が空っぽになったルナは、不思議そうに自分の両手の平を見つめている。
正は銀縁眼鏡のブリッジをクイと押し上げ、胸ポケットからパーカー製の万年筆を抜き、手元の監査ファイルをトントンと叩いた。
「当然です。ポポロ村役場・総務法務課の権限において、貴女の計画書を全面否決いたしました。理由は三点あります」
正は淡々と、だが広場中の誰もが息を呑むほど明瞭なロジックを叩きつけ始めた。
「第一に、ポポロ村臨時衛生管理規則第4条違反。貴女は大陸医師会およびルナミス帝国の公的執刀免許を所持していません。無認可の者が青空の下で他人の身体を切開する行為は、法的には医療ではなく単なる『傷害罪』および『殺人未遂』です」
「で、でも、切った後に世界樹の奇跡ですぐに元通りに治しますのに……!」
「結果の治癒は免責事由になりません」
正の冷ややかな一言が、ルナの言い訳を一刀両断した。
「第二に、ガオガオン基本法第1条――『生命尊厳の保持および人道に対する罪』への明白な抵触です。人体の臓器を『再生できるから』という理由で反復切除し、市場へ流通させる行為は、生物をただの『工業部品の製造プラント』へと貶める行為に他ならない。これを認めれば、ポポロ村は明日にも国際人権規約違反で全大陸から経済制裁を受け、三大国の連合軍に包囲されます」
「ほ、包囲……!?」
「そうです。そして第三に、これが最も致命的です」
正は傍らで脂汗を垂らしていたゴルド商会のニャングルへと視線を向けた。
「ニャングル支店長。もしこの『養殖バイオ腎臓』を市場へ流した場合、経済的に何が起きますか?」
「決まっとるやろ!」
ニャングルはキセルから猛烈な勢いで煙を吐き出し、算盤をジャラリと鳴らして叫んだ。
「一瞬で市場価格が暴落するわ! 希少価値があるから金貨五十枚で売れるもんを、毎日朝昼晩で無限に供給してみぃ! 一週間後には腎臓一個の相場が銀貨三枚まで大暴落や! 挙句の果てに帝都の闇ギルドが『もっと効率よく切り刻める人間はおらんか』ってポポロ村に押し寄せて、村人全員が拉致・監禁されてタコ部屋工場送りじゃボケェッ!!」
「その通りです」
正は冷徹に頷き、ルナを見据えた。
「人の肉体を削って生み出す利益など、持続可能性がゼロのただの自爆行為です。安易な奇跡に頼ったビジネスモデルは、必ず最後に関わる人間全員を破滅させる。――ルナさん、貴女の思いつきは、泥沼さんを救うどころか、彼を永遠の地獄へ突き落とすところでしたよ」
「う……っ」
ルナの透き通るような白い喉が、小さく震えた。
翡翠の瞳に、大粒の涙がぽろぽろと溜まり始める。
「わ、私は……ただ……泥沼さんが借金で苦しそうだったから……喜んでもらえると思って……世界樹の教えに従って、親切にして差し上げようと……っ」
ギュル……ッ。
その瞬間、広場の敷石の隙間から、青白い若葉がピキピキと異様な速度で生え始めた。
空気がビリビリと震え、遠く大陸最奥の「世界樹の森」から、重苦しい母樹の怒りの神気が地脈を伝ってポポロ村へと押し寄せてくる。
――ヒエッ……!?
――ま、まずい! ルナ様が泣き出しそうだぞ!
――世界樹が『娘をいじめた不届き者は誰だ』ってブチ切れて、また大陸中の樹木を暴走させちまうぅぅッ!!
広場を取り囲んでいた村人たちや自警団が、一瞬にして顔面蒼白になった。
以前、彼女が虫歯の痛みに泣いただけで、三大国の主要都市が蔦に覆われて文明崩壊しかけた悪夢を、誰もが思い出したのだ。
キャルルが青ざめ、長い兎耳をピンと逆立てて正の腕を掴む。
「タ、タダシさんっ! 正論だけど、これ以上追い詰めたらダメだよ! ルナちゃんが本気で号泣したら、この村が丸ごと世界樹のプランターになっちゃう……!」
「私からもお願いしますわタダシ様ぁ!」
昨日公務員になったばかりのリーザも、芋ジャージの裾を震わせながら必死に拝み倒してくる。
「私、せっかく固定給二十万円と社会保険を手に入れたんですの! 初任給をもらう前に村ごと植物の肥料にされて死ぬのだけは勘弁してくださいましぃーーッ!!」
全滅の危機。
だが、四十歳の元社畜課長・武田正の背筋は、微動だにしなかった。
(……なるほど。前世でもいたな。善意で大暴走して億単位のコンプラ違反をやらかし、叱責すると今度はメンタルを病んでプロジェクトごと爆破しかける超エリートの新入社員が……)
正は慣れた手つきで胃薬のシートから錠剤を一粒押し出し、水なしで噛み砕いた。
苦味が脳の奥を覚醒させる。
ここで感情的に怒鳴りつければ決裂し、逆に腫れ物に触るように甘やかせば第2、第3の狂気クリニックが開業する。
必要なのは――「人格の全肯定」と「行為の完全分離」。そして、行き場を失った規格外のエネルギーを、合法的な利益へと導く「正しい業務の割り当て」である。
スッ、と。
正はルナの前へ歩み寄り、胸ポケットから清潔な白のハンカチを取り出すと、そっと彼女の目の前に差し出した。
「……ルナさん。私は貴女の『困っている人を助けたい』という優しい心を否定したわけではありません」
「……え?」
ルナが涙に濡れた長い睫毛を瞬かせ、顔を上げた。
正は銀縁眼鏡の奥の眼差しを、厳父のように穏やかに緩めた。
「貴女のその溢れんばかりの慈愛と、万物を育む世界樹の力は、本来なら大陸中の人々を幸福にできる素晴らしい才能です。泥沼さんの借金を何とかしてあげたいと本気で心を痛めた貴女の優しさは、決して間違っていません」
「タ、タダシ様……」
地脈を伝っていた不穏な地鳴りが、すうっ……と静まり返っていく。
だが、正はそこで終わらせない。すぐに声音を「仕事のできる上司」のトーンへと戻した。
「しかし、手段が狂っていれば、どれほど高潔な志であっても結果は『悪』になります。――貴女の世界樹の奇跡は、人の腹を割いて内臓を養殖するためにあるのですか?」
「違……違いますわ……。世界樹は、豊かな大自然の恵みを育むための力ですもの……」
「ならば、その神聖な奇跡を、正当な『農業と産業』のために使いなさい」
正は手元のクリップボードから、一枚の白紙の稟議起案用紙を抜き取ると、万年筆とともにルナの胸元へ差し出した。
「ポポロ村の特産品開発プロジェクトです。我が村には、他国から高く評価されている『ポポロシガー』や、傷を癒やす『月光薬』、そして新鮮な高原野菜があります。ですが、天候不順による収穫量のバラつきや、害虫被害という課題を常に抱えている」
正は、地面で呆然としている泥沼源蔵を手で指し示した。
「泥沼さんの畑の土壌を貴女のマナで改良し、ポポロシガーの葉の品質を極限まで高める『新品種の育成』を手掛けなさい。泥沼さんの長年の栽培技術と、貴女の世界樹の奇跡が融合すれば、それは金貨何百枚もの価値を持つ正規の農産物として、三大国の貴族たちへ堂々と高値で販売できます。――誰も血を流さず、誰も尊厳を傷つけられず、正当な労働の対価として泥沼さんの借金を完済できる」
「誰の血も……流さずに……?」
ルナの瞳に、パッと眩い光が差し込んだ。
「ええ。人の身体を切り刻む暇があるなら、明日までに『ポポロシガーおよび特産作物の品種改良・生産効率化に関する事業企画書』を一本起案して、私のデスクへ提出しなさい。内容が論理的かつ安全基準を満たしていれば、総務課長として正規の予算と補助金を全額決済します」
静まり返る中庭。
ルナは両手で大切そうに白紙の企画書と万年筆を抱きしめた。
その頬が、ぽっと桜色に染まる。
「……まあ。私の力を……そんなに誇らしく、正しく評価してくださるなんて……♡」
ルナは深々と一礼し、天使のように可憐な、だがどこか熱っぽい笑みを浮かべた。
「承知いたしました、タダシ様! 私、泥沼さんと一緒に、世界中を驚かせる最高の葉巻と素晴らしいお野菜を作ってみせますわ! ふふ、企画書……徹夜で何十枚でも書いてまいりますわね♡」
「徹夜は労働安全衛生法違反ですので却下です。就寝時間を守って作成してください」
「「「おおおおおっ!! す、すげぇぇぇぇッ!!」」」
広場が割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
暴走寸前だった世界樹の令嬢を、一滴の血も流さず、誰の機嫌も損ねず、村の特産品開発という最高益の公共事業へと見事に誘導してのけたのだ。
「さすがはタダシ課長や! あの歩く人道危機を、タダで使える最高峰のバイオ研究員に仕立て上げよったで!」
ニャングルが算盤を弾きながら大笑いし、泥沼源蔵は「課長ぉぉ! オラ、心を入れ替えて真面目に葉巻作りますぅぅ!」と正の足元に縋り付いて号泣している。
「……ふう。一件落着、ですね」
正は安堵の息を吐き出し、胸ポケットに印鑑をしまい込んだ。
だが、その安らぎは一瞬で打ち砕かれる。
――トクン……トクン……トクン……。
すぐ隣から、異常なまでに研ぎ澄まされた、凍りつくような「心音の圧迫感」が漂ってきた。
視線を向けると、そこには長い白銀の兎耳をピーンと真上に直立させ、紅い瞳をスゥッと細めた村長キャルルが立っていた。
「……ねぇ、タダシさん?」
「は、はい。村長、何でしょうか……」
キャルルが笑顔のまま、一歩、間合いを詰めてくる。
「ルナちゃんに渡したあのハンカチ、タダシさんの自前のだよね? すっごく優しく頭を撫でるような声で喋ってたよね? ……いま、ルナちゃんを見つめてた時のタダシさんの心拍数、普段より毎分五回多かったよ? なんでかなぁ……?」
「そ、それは世界樹の暴走を防ぐための高度な心理誘導テクニックであって、決して他意は――」
「ふ〜ん……? 昨日はリーザちゃんで、今日はルナちゃん。タダシさんって、本当に困ってる女の子に優しいんだね♡」
キャルルの背後で、目に見えない漆黒の闘気がメラメラと立ち上っている。
(……まずい。このウサギ、満月でもないのにリミッターが外れかけているぞ……!)
正は冷や汗を流しながら、執務室の壁時計を素早く確認した。
針は午後十四時五十分を指している。
定時退社の十七時まで、あと二時間と十分。
四十歳元社畜課長の胃痛の種は、まだまだ尽きそうになかった。
読んでいただきありがとうございます。
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