EP 2
ポポロ村の惨状と、持ち逃げされた前村長
ガタゴトと、素朴な車輪の軋む音が心地よいリズムを刻んでいた。
武田正は、助けた行商人――名をトビアスという初老の男が操る荷馬車の荷台で、揺られながら手帳を開いていた。
くたびれたチャコールグレーのスラックスに染み込んだ土埃を払い、胸ポケットから胃薬のシートを指先で確認する。
胃の腑には、商社時代から変わらない鈍い痛みが居座っていた。
「いやあ、武田の旦那、本当に助かりましたよ」
御者台からトビアスが振り返り、人の良さそうなシワを深めて笑いかけてくる。
「あの『赤熊の爪』は、帝国の正規兵も手を焼くようなタチの悪いゴロツキ連中でしてね。まさか書類一枚と印鑑で、手首を折って金を吐き出させちまうなんて……旦那、本当はどこぞの大国の特務監査官なんじゃありませんかい?」
「ただのしがない元課長ですよ」
正は苦笑し、銀縁眼鏡を押し上げた。
「法務規程に則って、客観的証拠に基づいた損金処理を行ったまでです。暴力で解決しようとすれば必ず遺恨が残り、二次クレームに発展しますからね。……ところでトビアスさん、あの山を越えたあたりが、目的地のポポロ村ですか?」
正が視線を向けた先、緩やかな丘陵の谷間に、夕暮れの斜光を浴びる集落の輪郭が見えていた。
帝国の近代魔導都市と、獣人王国の原生林、そして魔皇国の荒野が不規則にせめぎ合う国境緩衝地帯。
そこにぽつんと佇む人口千人ほどの農村――それがポポロ村であるはずだった。
だが、荷馬車が丘を越え、村の全景が眼前に開けた瞬間、正の眉がピクリと跳ね上がった。
「……トビアスさん。あれは、私の目の錯覚でしょうか」
「へ? どれですかい?」
「あそこの、のどかな大根畑の真ん中に鎮座している、重装甲のキャタピラ車両のようなものは何です?」
「ああ、あれですか! あれは村の自警団が配備してる魔導戦車ですよ! ついでにあっちの麦畑の横にあるのが、ドンガン製の対空機関砲座ですねぇ」
「…………」
正は絶句した。
夕暮れののどかな田園風景の中に、迷彩塗装の魔導戦車や対空機関砲、鉄条網が極めて自然な顔をして溶け込んでいる。
畑仕事をしている農夫の手元をよく見ると、鍬の横に九九式魔導ライフルが立てかけられており、子供たちがキャッキャと笑いながら地雷の信管のようなものを避けて走り回っていた。
重武装限界集落――脳内にインストールされた知識にあった単語が、これほど物理的に直球だとは思わなかった。
「三大国の緩衝地帯ですからねぇ」
トビアスは何事もないように煙管をふかした。
「いつどこの軍勢が小競り合いを仕掛けてくるか分からん土地柄なんです。だから村ぐるみでドンガン地下帝国から払い下げの兵器を買い集めて、ハリネズミみたいに着飾ってるんでさぁ。……まあ、今のポポロ村の問題は、外の敵よりも『内側』にあるんですがね」
「内側、ですか?」
正が問い返すと、トビアスは深いため息をつき、声をひそめた。
「前村長のロップの野郎ですよ。先月、村の全財産を持ち逃げして高飛びしちまいやがったんです」
正の法務・財務監査アンテナが、ピピッコンとけたたましい警告音を鳴らした。
「……詳しく聞かせていただけますか。持ち逃げとは、具体的にどのような手口で?」
「手口も何も、あいつ、隣町のゲートボール大会で知り合ったアバロン魔皇国の魔族未亡人に熱を上げちまいましてね。『愛のラビリンスへ旅立つ』とかいう書き置きを残して、村の金庫に入ってた運営資金、予備費、果ては自警団の弾薬購入積立金まで、全部トランクに詰めて夜逃げしたんですわ」
「横領、背任、公金費消の役満ですね」
正の口から、冷徹な法務用語が淀みなく滑り出た。
「監査役は何をしていたんです? 金庫の二重施錠、通帳と印鑑の職務分掌、定期的な現金実査は行われていなかったのですか?」
「え、かんさ……? しょくむ……? いやあ、旦那、ここは田舎村ですからねぇ。村長の言うことならみんなハイハイって信じきってたんですわ。おかげで金庫の中身はすっからかん。公共事業の支払いは焦げ付き、三大国への名目上の地代も払えず、村は破綻寸前ですよ」
絵に描いたようなガバナンスの欠如、そして内部統制の完全な崩壊。
正は思わずこめかみを押さえた。前世で手がけた、同族経営の倒産寸前中小企業の決算書がフラッシュバックして胃がキリキリと軋む。
「で、今はどうなっているんです? 自治機能は?」
「つい先日、たまたま冒険者ギルドの依頼で村に来てた月兎族のお嬢さんが、見かねて新しい村長に担ぎ上げられたんですがね……。なにぶんまだ若い娘さんですし、金庫が空っぽなのはどうにもならんでしょう」
話を聞いているうちに、荷馬車は木造の粗末な防壁ゲートをくぐり、ポポロ村の広場へと滑り込んだ。
夕暮れ時の広場には、不安げな顔をした村人たちが三々五々集まっていた。
トビアスが荷台から穀物の俵を下ろしながら、広場の正面に建つ二階建ての木造建築を指差した。
「旦那、あそこが村役場です。あっしの荷物検査と関税の確認もありますから、一緒に行きますかい?」
「ええ、同行しましょう。状況を正確に把握しておきたい」
正はスーツの埃を払い、トビアスと共に役場へと足を踏み入れた。
役場の内部は、まさに「大混乱の真っ只中」だった。
受付カウンターには支払いを求める商人たちの請求書が山積みにされ、壁には『今月の道路補修費:未払い』『用水路修繕計画:凍結』といった貼り紙が無惨に並んでいる。
カウンターの奥で、数人の村役人たちが頭を抱えて唸っていた。
「ダメだ……今月分の防衛資材の支払い、あと銀貨百五十枚足りないぞ……!」
「ドンガンの商人が『耳を揃えて払わなきゃ資材の供給を止める』って怒鳴り込んできてるんだ!」
「前村長のバカ野郎め、どこで魔族の女とイチャついてやがるんだ……!」
正は静かにカウンターへ近づき、机の上に乱雑に放置されていた一冊の革表紙のノート――村の『出納帳』へと視線を落とした。
商社で二十年、部下たちの杜撰な経費精算から取引先の粉飾決算まで見抜いてきたプロの視線が、無意識に紙面を走る。
(……酷いな。単式簿記ですらない、ただの小遣い帳だ。領収書の添付がない仮払いが全体の四割を占めている。これでは前村長でなくとも、誰でも公金を抜ける構造だ)
正が思わず息を呑んだその瞬間、視界の隅が青白く発光した。
【包括的決裁権限(社内稟議)】――派生コマンド起動。
【稟議書閲覧(ステータス監査)】
バチッ、と静電気のような火花が散り、広げられた出納帳の上に、半透明の光で構成された詳細な財務諸表が浮かび上がった。
対象組織:ポポロ村自治会(第43期)
財政健全度:【破綻懸念(要管理先)】
現金・預金残高:銅貨十二枚、乾燥芋三本(実質ゼロ)
流動負債(未払金・買掛金):金貨八十五枚(内訳:弾薬費、肥料代、インフラ維持費)
偶発債務:前村長ロップによる横領被害額・推定金貨二百枚
当期純損失:天文学的赤字
「……乾燥芋三本、か」
正は小さく呟いた。
笑えない冗談である。人口千人の自治体が抱えるキャッシュフローとして、これはすでに心肺停止状態だ。
「おい、あんた! そこで何をしてるんだ?」
カウンターの奥から、疲労困憊の表情を浮かべた中年の役人が正を咎めた。
「見慣れない格好だが……帝国の商人か? 言っておくが、今さら未払いの請求書を持ってこられたって、うちには払える金なんて一文も――」
「失礼。請求に来たわけではありません」
正は内ポケットから名刺入れを取り出し、滑らかな手つきで一枚の白い名刺を差し出した。
「元総合商社総務法務兼務課長、武田正と申します。旅の途中で立ち寄った者ですが……少しばかり、帳簿の管理体制に重大な欠陥が見受けられましたので」
「は、はぁ……? ぶた、そうむほうむ……?」
聞き慣れない単語の連続に、役人はぽかんと口を開けて名刺を見つめた。
正は整えられた短髪を指先でなぞり、銀縁眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせた。
他人の組織の内情に無闇に口を出すのは越境行為だが、この村に腰を落ち着け、安全な寝床と「17時退社後の静かな晩酌」を確保するためには、足元の地盤沈下を放置するわけにはいかない。
「ざっと拝見したところ、前村長による使途不明金は金貨二百枚規模。しかし、より深刻なのは直近のキャッシュフローです。仕入れ先への買掛金サイトが短すぎる上に、村内の特産品――例えば先ほど見かけた高品質な生薬や農産物の売掛金回収が、最大で三ヶ月も滞留している。これでは黒字倒産……いえ、資金ショートを起こすのは時間の問題でしたね」
「な、なんだと……!? あんた、帳簿をチラッと見ただけで、なんでそんなことまで分かるんだ!?」
役人たちがざわめき、席を立って正の周りに集まり始めた。
「さらに言えば」
正は淡々と、だが一切の反論を許さない重厚な口調で続けた。
「前村長が持ち逃げした資産についても、逃亡ルートの関所や換金窓口に対する『債権差押えの仮処分申請』を出せば、一定額は回収可能です。何の手続きも取らずにただ頭を抱えているのは、職務怠慢と言わざるを得ませんよ」
「さ、差し押さえ……!? 仮処分……!?」
役人たちは顔を見合わせ、まるで未知の古代魔法の詠唱でも聞かされたかのように狼狽した。
その時だった。
トントン、と役場の一階と二階を繋ぐ木製階段から、規則正しく澄んだ靴音が響いてきた。
ざわついていた役場の空気が、一瞬でピンと張り詰める。
役人たちが青ざめ、慌てて背筋を正して直立不動の姿勢を取った。
「し、静かにしろ……! 村長様と、執事様が降りてこられたぞ……!」
正もまた、靴音の主へと視線を向けた。
階段の踊り場から現れたのは、対照的な二人の人物だった。
一人は、仕立ての良い燕尾服に身を包んだ、銀灰色の毛並みを持つ長身の人狼。
モノクルを光らせ、胸元には寸分の乱れもないネクタイを締めている。足音を一切立てずに歩くその佇まいからは、宮廷仕込みの完璧なプロフェッショナリズムと、一撃で獲物の喉笛を裂く猛獣の気配が同居していた。
そして、その人狼に恭しく先導されるように歩いてきたのが――。
透き通るような白銀の髪をなびかせた、月兎族の美少女だった。
年の頃は二十歳前後。小柄ながらも引き締まった肢体に、機能的な軽装の戦斗服を纏っている。頭頂部から生えた長い兎の耳が、室内の空気の揺らぎを捉えるようにピクリと動いた。
愛らしい顔立ちには、若き指導者としての凛とした光が宿っている。
だが、その大きな紅い瞳の奥底には――常軌を逸した「熱量」と、一度狙いを定めたら絶対に逃さない捕食者のような、底知れぬ狂気の影が揺らめいていた。
第43代ポポロ村長、キャルル・ムーンハート。
そしてその専属執事、リバロン。
階段を降り切った人狼の執事・リバロンが、スッと細い糸目を正に向けた。
その手には、薄い銀色の名刺が一枚、優雅に挟まれている。
「……おやおや。お客様でしょうか? 先ほどから、随分と耳の痛い正論が二階まで響いておりましたよ」
リバロンの低く艶のある声が落ちる。
その隣で、キャルル村長がツツツ……と音もなく正の目の前まで歩み寄ってきた。
距離、わずか五十センチ。
キャルルの長い兎耳が、正面から正の左胸――心臓の位置へとピタリと照準を合わせた。
月兎族の天賦の才、絶対嘘看破――『心音盗聴』。
相手の鼓動の乱れ、血流の加速、体温の微小な変化から、あらゆる嘘と悪意を丸裸にする精神の聴診器。
キャルルは唇の端を吊り上げ、冷徹な、だがゾッとするほど無邪気な笑顔を浮かべた。
「ねぇ、あなた。うちの村の帳簿に、随分と詳しいみたいだね?」
至近距離から放たれる、マッハの領域で戦う達人特有の濃密な闘気のプレッシャー。
常人であれば膝から崩れ落ち、心拍数が二百を超えて失禁するほどの重圧である。
だが――。
正の左胸から聞こえてくるのは、驚くほど一定のリズムだった。
ドクン。ドクン。ドクン。
毎分、きっかり六十拍。
二十年間の猛烈なクレーム対応、怒号渦巻く株主総会、そして徹夜続きの疲労によって鍛え上げられた、鉄のポーカーフェイス。
もっと言えば、低血圧と慢性の胃痛によって、もはや余計なドキドキを生み出す体力すら残っていない、ただの疲弊した中年男の平常心だった。
「……え?」
キャルルの兎耳が、困惑したようにピクンと跳ねた。
(な、なにこの人……!? 私の至近距離の威圧を受けて、心拍数が……一拍も、乱れない……!?)
(嘘をついている時の動揺も、悪意の脈動もゼロ……! それどころか、ただ『胃が痛い』っていう生体反応しか返ってこないんだけど……!?)
キャルルの紅い瞳からハイライトがスッと消え、代わりに異様な輝きが灯り始めた。
後ろに控えるリバロンもまた、モノクルの奥の目をわずかに見開いている。
正は二人の内心の激震に気づく様子もなく、ポケットから胃薬を取り出して唾液で飲み込むと、丁寧に一礼した。
「突然の無礼をお許しください、村長。私、武田正と申します。……もしよろしければ、貴村の財務状況の改善について、少しご相談させていただけないでしょうか?」
毎日十七時に退社し、静かに晩酌をする。
その平和なスローライフを勝ち取るための、元社畜課長による「限界集落の採用面接」が、いま静かに幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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