第一章 ポポロ村総務課長就任編〜初稟議と限界集落のガバナンス改革〜
定時退社(過労死)からの転職活動と、初めての【差戻し】
「お疲れ様でした。定時ですので、退勤いたします」
大手総合商社の総務法務兼務課長、武田正(たけだ・ただし・40歳)の人生は、その一言で幕を閉じた。
足かけ二十年。買収案件の法的リスク精査から、役員のパワハラもみ消し工作の阻止、果ては深夜二時に泥酔した取引先のクレーム電話対応まで、社内の泥をすべて呑み込んできた男である。
何重にも絡み合った労使交渉の妥協点を見出し、山積みの稟議書をすべて片付け、奇跡的に迎えた十七時ちょうどのタイムカード打刻。
今夜こそ、寄り道して買った冷えた缶ビールと、割引シールの貼られた枝豆で静かに晩酌をするのだ。
その悲願を胸にオフィスの自動ドアをくぐった瞬間、二十年分の疲労が凝縮された心臓が、まるでブレーカーを落とすように唐突に停止した。
意識が暗転する最後の刹那、正の脳裏をよぎったのは「頼むから、後任の引き継ぎ資料を総務部の共有フォルダから探してくれ」という、哀しき社畜の職業倫理だけだった。
「……で、ここはどこの会議室だ?」
目を覚ました正は、見慣れたオフィスの吸音天井ではなく、抜けるような蒼穹を見上げていた。
頬を撫でるのは乾いた高原の風。青臭い草の匂いが鼻腔をくすぐる。
正はくたびれたチャコールグレーのスーツの背中を叩きながら起き上がり、銀縁眼鏡を中指でクイと押し上げた。
内ポケットを探る。
プラスチックの錠剤シート――ガスター10とキャベジンは無事。ついでに愛用の黒革の名刺入れ、パーカーの万年筆、そして朱肉入りの三文判ケースも揃っていた。
(四十男の過労死。そして、このお約束のシチュエーションか)
冷徹な現実主義者である正は、パニックを起こすこともなく現状を分析した。
頭の中に、まるで業務引継書のように無機質な知識がインストールされていく。
ここはマンルシア大陸。魔素と闘気が満ち、人間、獣人、魔族が牽制し合う世界。
そして自分が立っているのは、三大国の国境が複雑に入り組む緩衝地帯――重武装限界集落『ポポロ村』へと続く街道の端だった。
そして、彼に与えられたユニークスキルは――。
【包括的決裁権限(社内稟議)】
「……異世界に来てまで、稟議を通せと?」
思わず眉間に深い皺が刻まれる。
脳内に展開されたスキルの仕様書(利用規約)をスクロールするように確認していく。
手元のA4用紙に「目的・根拠法・事実関係・損害査定」を論理的に記述し、承認印を捺印することで、事象の因果律そのものを確定・上書きする権能。
だが、そこには極めて厳格な【3大業務規程】が付帯していた。
一、管轄権の原則(職務権限規程):自身または所属組織に火の粉が及ぶ「当事者適格」がなければ発動不可。
二、デュー・プロセス(適正手続きの原則):客観的証拠と明白な違反事実の立証がなければ【差戻し】は通らない。
三、合法的強制執行の原則(人道的制約):寿命や魂の強制天引きなどのオカルト拷問は不可。賠償は不当利得の返還や正当な資産差押えに限定される。
「なるほど。言いがかりの超能力は認めない、と。法務部としては至極真っ当なコンプライアンス規程だな」
正が妙に納得し、胸ポケットから胃薬を取り出して唾液で飲み込んだ、その時だった。
「おいコラァッ! 耳の穴かっぽじってよく聞けって言ってんだろがッ!」
街道の先、木立の影から下卑た怒号と、何かが激しく軋む音が響いてきた。
正が身を隠すように歩み寄ると、そこには立ち往生した一台の荷馬車があった。
車輪の前には、抜き身の大剣を地面に突き刺した大男が仁王立ちしている。粗悪な革鎧に身を包んだ、チンピラ風情の冒険者崩れが三人。
荷台の前では、荷物を運んでいた初老の行商人が、膝をガクガクと震わせながら土下座していた。
「だ、旦那方、どうかご勘弁を……! この積み荷の穀物は、ポポロ村へ届ける大切な商売道具でして……! 銀貨二枚の通行税など、払ったら赤字で一家が路頭に迷っちまいます!」
「ああん!? 赤字だぁ? 知ったことかよ! この街道は俺たち『赤熊の爪』が安全を守ってやってんだよ! 身ぐるみ置いてかねぇなら、積み荷ごとこのジジイを切り刻んで肥やしにしてやるぜ!」
リーダー格の男が下卑た笑みを浮かべ、大剣の切っ先を行商人の首筋に突きつける。
正は銀縁眼鏡の奥の目を細めた。
その瞬間、スキルの派生コマンドが自動で視界を切り替えた。
【稟議書閲覧(ステータス監査)】
街道を塞ぐ三人の頭上に、まるで企業の不正監査資料のようなウィンドウが淡く発光しながら展開された。
対象:登録冒険者パーティ『赤熊の爪』
主犯:ザック(Dランク戦士)
違反法規:
・大陸公道不法占拠および通行妨害(交通管理令違反)
・暴行脅迫による金品要求(恐喝未遂罪)
・器物破損罪(荷馬車留め具の損壊:被害査定額 銀貨三枚)
当事者適格(管轄権):
・武田正の通行予定ルートを不当に封鎖中。本件未解決の場合、目的地への到達遅延および生命身体への侵害リスクが発生。
――【管轄権:承認】
「……よし。当事者適格はあるな」
正の思考は、すでに商社の修羅場モードへと切り替わっていた。
強者に媚びず、弱者を見捨てない。
そして何より、定時退社と静かな晩酌を阻む理不尽なトラブルメーカーに対して、武田正という男は徹底して冷酷かつ頑固だった。
正はスーツの胸ポケットから、スキルによって具現化した真っ白なA4起案用紙とボールペンを取り出した。
路肩の平らな岩に紙を広げ、滑らかな筆致で文字を走らせる。
【起案番号:0001】
【件名:公道不法占拠および恐喝現行犯に対する緊急措置の件】
・起案者:武田 正
・根拠法令:大陸標準交通令第12条、不法行為に基づく原状回復請求権
・事実関係:『赤熊の爪』による通行妨害、荷馬車損壊、および銀貨二枚の恐喝未遂(証拠:現行視認ログ)
・決裁内容:
一、対象が発動する物理攻撃を「規程違反・予算外支出」として即時差戻し(無効化)。
二、破損した荷馬車修繕費および精神的慰謝料として、主犯の所持金から銀貨五枚を強制徴収し被害者へ還付。
さらさらと書き終えた正は、朱肉ケースをパチンと開け、愛用の三文判の印面に丹念に朱を馴染ませた。
街道では、業を煮やしたザックが大剣を大きく振りかざしていた。
「おいジジイ、数えるのは三つまでだ! 金を出さねぇなら、その薄汚い首を刎ね――」
「そこまでだ」
低く、よく通る声が静まり返った街道に響いた。
「あぁん!?」
振り上げた大剣を止めたザックが、怪訝そうに振り返る。手下のチンピラ二人も眉を吊り上げた。
そこに立っていたのは、見たこともない奇妙な衣服――ヨレた背広にネクタイを締め、銀縁眼鏡をかけた、くたびれた中年男だった。
腰に剣もなく、手には奇妙な白い紙と小さな筒状の棒を持っているだけ。
「なんだテメエは? どこから湧いて出た、その冴えねぇオッサンはよ!」
「通りすがりの者ですが、少し手続きに不備がおありのようですね」
正は淡々とした口調で、一歩前へ進み出た。
「貴方がたの行為は、大陸公道管理令に違反する不法占拠、ならびに刑法上の恐喝未遂に該当します。さらに、荷馬車の車軸を損傷させた器物破損。即刻その刃を収め、被害者への賠償に応じるべきです」
「は、はぁ……!? カンリレイ? キブツハソンだぁ!?」
ザックは唾を飛ばして大笑いした。手下たちも下品に腹を抱える。
「ギャハハハッ! おい見ろよ、このオッサン、頭湧いてんぞ! ここはな、力がすべての異世界なんだよ! 法律だのコンプラだの、寝言はあの世でほざきなァッ!」
ザックの全身に、下級戦士特有の赤い闘気が立ち上る。
凶悪な質量を帯びた大剣が、風を切り裂きながら正の頭上めがけて振り下ろされた。
「死ねや、口先野郎がぁぁッ!!」
土下座していた行商人が「ああっ、旦那逃げてええっ!」と悲鳴をあげる。
だが、武田正の心拍数は、一拍たりとも乱れていなかった。
二十年間、理不尽な怒号を浴びせ続けるクレーマーの前で培われた、絶対的なポーカーフェイス。
正は起案用紙の決裁欄に、三文判を静かに、そして正確に押し当てた。
「――事前申請のない暴力行使は、社内規程違反です」
トン、と乾いた捺印の音が響く。
【決裁執行――包括的権限に基づき、不当暴力を【差戻し(リジェクト)】】
カキィィィィィィィィンッ!!!!
鼓膜を劈くような、硬質極まりない金属音が大気に炸裂した。
「ぶぎゃっ!?」
ザックの振り下ろした大剣は、正の頭上わずか三十センチの空間で、目に見えない絶対不可侵の力場――『コンプライアンスの壁』に真っ向から衝突した。
物理法則を嘲笑うかのような完璧な衝撃反射。
大剣の刀身が根元からバキバキと音を立てて粉々に砕け散り、その猛烈な反動がザックの両腕を襲う。
手首が不自然な方向へねじれ、骨の軋む鈍い音が響いた。
「ぎゃああああっ!? お、俺の腕が! 大剣がァッ!?」
鼻血を吹き出しながら街道に転がるザック。手下二人は顎が外れそうなほど口を開け、ガチガチと歯を鳴らして硬直している。
だが、武田正の実務はこれで終わりではなかった。
ポロリ、とザックの腰の革袋から、淡い光を帯びた銀貨五枚が宙に浮き上がった。
それはまるで熟練の銀行員の手元を通るように放物線を描き、呆然としていた行商人の手のひらへとチャリンと滑り落ちた。
「ひっ……!? ぎ、銀貨が五枚……!?」
「荷馬車の修理代に銀貨三枚、および不当な拘束に対する慰謝料として二枚です。正当な損金補填ですので、受け取ってください」
正は行商人に穏やかに頷きかけると、地面でのたうち回るザックを見下ろした。
その眼差しは、怒りでも嘲笑でもない。
ただ、予算の使途不明金を暴き出した時の、凍りつくほど冷徹な法務監査官のそれだった。
「……さて。器物破損および恐喝未遂の賠償債務は一部相殺されましたが、公道不法占拠の罪が残っていますね」
正はスーツの埃を払い、ポケットから名刺入れを取り出してカチリと開けた。
「私はポポロ村へ向かう予定の武田と申します。現在、当事者として冒険者ギルドへの規約違反通報、ならびに管轄警察への告発状を作成中ですが……このまま正式な司法手続きへ移行しますか? それとも、今すぐここを立ち退きますか?」
「ひ……ひぃぃぃぃぃっ!!」
武器を一撃で粉砕し、得体の知れない光で財産を差し押さえ、背広を着て淡々と告発を予告してくる四十男。
その背後から立ち上る、暴力とは次元の違う「絶対的な社会の鉄槌」の気配に、手下たちは完全に失禁寸前だった。
「ば、化け物だァッ! ボスを連れて逃げろォォッ!」
手下二人は折れた腕を押さえて呻くザックを担ぎ上げると、脱兎のごとく街道の奥へと逃げ散っていった。
静寂が戻った街道に、からからと大剣の破片が転がる。
正はふぅと短いため息をつき、ネクタイを人差し指でわずかに緩めた。
「……やれやれ。異世界に来てまで、いきなり厄介なクレーム処理の残業とはな」
「あ、あの……! 旅の旦那……!」
震えながら立ち上がった行商人が、涙目で正の足元へ駆け寄ってきた。
「助けていただき、本当にありがとうございました……! あの『赤熊の爪』を、一言も殴り合わずに追い払うなんて……一体何者なんですか、旦那は!?」
「ただの、しがない元総務法務課長ですよ」
正は名刺入れをしまい、優しく苦笑した。
弱者を前にした彼の表情は、先ほどの冷徹な監査官から、どこにでもいる面倒見の良い親戚のおじさんへと戻っている。
「それよりお怪我はありませんか? ポポロ村へ行かれるのなら、ご一緒しても?」
「ええ、ええ! もちろん喜んで! あっしが村まで案内いたしますとも!」
行商人は何度も深々と頭を下げ、壊れかけた馬車の手綱を引いた。
傾き始めた夕陽が、街道の先にある盆地を赤く染め上げている。
そこに見えるのは、平穏とは程遠い、重武装とカオスに満ちた限界集落――ポポロ村の輪郭だった。
正は空を見上げ、ポケットに残る胃薬の感触を確かめた。
「毎日十七時に帰って、静かに晩酌をする」
そのささやかな願いを果たすためだけに振るわれた武田正の「初めての稟議」が、やがて全大陸の秩序を根底から揺るがすことになるとは、この時の彼はまだ知る由もなかった。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




