EP 2
雇用契約書:『村公認広報アイドル(社保完備・固定給)』
午後十三時五十分。
ポポロ村役場・総務法務課の執務室は、規則正しい時計の秒針の音と、武田正が書類をめくる乾いた音だけが響いていた。
窓から差し込む午後の柔らかな光を受けながら、正は愛用のパーカー製万年筆で起案書にサインを走らせている。
その背筋は定規を当てたように真っ直ぐで、くたびれたチャコールグレーのスーツには皺ひとつない。
コン、コン――。
遠慮がちな、だが切羽詰まったノックが二回。
「どうぞ、開いていますよ」
正が顔を上げると、引き戸がギギギと不穏な音を立てて開き、小豆色の芋ジャージに身を包んだ少女――深海王国の正統王女にして地下アイドルのリーザ・シーランが、恐る恐る姿を現した。
足元の便所サンダルをペタペタと鳴らしながら、その両手には薄汚れたみかん箱が大事そうに抱えられている。
「し、失礼いたしますわ……。総務課長様……」
「時間通りですね。感心です。どうぞそちらのパイプ椅子へ」
正がデスクの対面を指すと、リーザはびくびくと周囲を見回した。
部屋の隅の応接ソファーには、なぜか白銀の兎耳をピコピコと動かして正の一挙手一投足を見つめる村長キャルルが陣取っており、その傍らでは人狼の執事リバロンが優雅に湯気を立てる紅茶を淹れている。
「タダシさん、私も最高責任者として立ち会うからね! べ、別にタダシさんが若い女の子と二人きりになるのが心配とか、そういう私情じゃないからね!?」
「はい、公務の適正な監督として歓迎いたします」
「リバロン、本日のアッサムは素晴らしい抽出具合ですよ」
「恐れ入ります、武田殿。リーザ様用には、冷たい水道水をご用意しております」
「あ、扱いが酷すぎますわリバロンッ!?」
ぎゃあぎゃあ騒ぐリーザを、正は静かに眼鏡のブリッジを押し上げて制した。
「雑談はそこまでにしましょう。――リーザさん、指定した帳簿類は揃いましたか?」
「は、はい……! 私のこの、血と汗と涙の結晶……! 過去三ヶ月の活動実績と売上台帳ですわ!」
リーザは胸を張り、ドヤ顔でみかん箱から数枚の紙束を取り出してデスクに叩きつけた。
正が手元を引き寄せると、それは帳簿どころか、「タローソンの裏紙」や「ちぎったチラシの切れ端」に鉛筆で殴り書きされた怪文書の山だった。
「……拝見します」
正は手帳を開き、スキル【稟議書閲覧(ステータス監査)】を静かに発動させた。
青白い光のグリッドが走り、紙片に記された数字が瞬時に財務諸表へと展開される。
――――――――――――――――――――
【リーザ・シーラン 直近3ヶ月活動実績】
・4月度総売上:75円(五円玉15枚)、シモツレ草の花束(推定換金価値:0円)
・5月度総売上:40円(五円玉8枚)、タローソン半額シール1枚、ドワーフの乾パン半欠け
・6月度総売上:10円(五円玉2枚)※ファンがキュララの生配信へ流出したため激減
【累積負債】
・村長公邸家賃滞納分:金貨12枚(約12万円)
・タローマートツケ払い:銀貨8枚(約8千円)
・ふ〜ん石不法投棄による廊下清掃求償金:銀貨5枚
――――――――――――――――――――
「………………」
正は深く、重たい溜息を吐き出した。
ポケットから銀色のシートを取り出し、胃薬の錠剤を一粒、噛み砕く。苦味が口腔を満たしていく。
「……リーザさん」
「な、なんですの……? やはり私の天性のカリスマに圧倒されて、言葉も出ませんの……!?」
「率直に申し上げて、これは『事業』ではありません。『道楽』ですらなく、ただの緩慢な餓死へのカウントダウンです」
「が、餓死ッ!?」
容赦のない事実の宣告に、リーザの顔から血の気が引く。
「直近の月間売上は十円。一方で、公邸への居候による潜在的な維持コストは月額数万円を下りません。貴女は自身の尊厳あるアイドル活動を主張していますが、現実はキャルル村長の個人的な温情という名の『無担保・無利息の不良債権』の上に胡座をかいているに過ぎない」
「うぐっ……! そ、それは……!」
「このまま放置すれば、いずれ村政の監査で公金横領類似行為として問題化し、貴女は強制退去、最悪の場合はドンガン地下鉱山での破産更生労働送りになりますよ」
「ひ、鉱山は嫌ですわぁーーッ!!」
リーザは頭を抱えてパイプ椅子から転げ落ちそうになった。
だが、次の瞬間、彼女の瞳に悪魔的なひらめきの光が宿った。
両手をすり合わせ、膝でにじり寄りながら、下卑た揉み手で正のデスクを見上げてくる。
「お、お願いですわ課長様! そこをなんとか! 私、次の満月の夜に開催する路上ワンマンライブで、絶対にバズる新曲を引っ提げて勝負をかける予定なんですの! そこで五円玉が山のように集まりますから! ですから……その……金貨十枚! いえ、銀貨五十枚でいいので、給料の『前借り』をさせていただけませんこと……!?」
「却下します」
正の声は絶対零度だった。
「労働基準法第十七条の精神、およびポポロ村就業規則に照らし、使途の不透明な前借金による労働の拘束は厳格に禁止されています。目先の小銭を与えてその場を凌がせるのは、貴女のためにも村のためにもならない」
「そ、そんなぁ……! じゃあ私、今夜から本当に雑草を塩水で煮て食べるしかありませんの……!?」
絶望に打ちひしがれ、机に突っ伏して号泣し始める芋ジャージの人魚姫。
ソファーのキャルルが「タ、タダシさん、いくらなんでもちょっと可哀想じゃ……」とおろおろし始めたところで、正はデスクの引き出しから、あらかじめ用意していた一枚の分厚い上質紙を取り出した。
トン、と机の上に置かれたその書類。
表題には、格式高いフォントでこう印字されていた。
『ポポロ村役場 非常勤嘱託職員雇用契約書(地域振興広報課・専属広報アイドル)』
「……え?」
リーザが涙で濡れた顔を上げた。
正は銀縁眼鏡の奥の瞳をすっと細め、万年筆の尻で契約書の条文をトントンと指し示した。
「前借りは認めませんが、『雇用』なら話は別です」
「こ、こよう……?」
「条件を説明します。よく聞きなさい」
正は淡々と、だが澱みのない明快な口調で解説を始めた。
「職種は『ポポロ村公認・専属広報アイドル』。基本給として、月額固定給二十万円(金貨二十枚相当)を毎月二十五日に指定口座へ振り込みます」
「月額……にじゅうまん……!? き、金貨二十枚が、毎月……!?」
リーザの顎が外れそうになる。正は構わず続けた。
「当然、社会保険完備です。健康保険、雇用保険、労働災害補償保険を適用。さらに福利厚生として、役場職員食堂の利用権を付与。昼食は村の特産である『サンライス(米麦草のご飯)』のおかわり自由、肉椎茸と新鮮野菜を使った定食を無償提供します」
「ご、ご飯おかわり自由……! 肉椎茸……!? 雑草じゃなくて、本物の野菜とキノコが食べられるんですの……!?」
「その代わり、業務内容は厳格に規定します」
正は冷徹に指を立てた。
「ポポロ村の各種イベントでの広報活動、および特産品である『ポポロシガー』『前線弁当』『月光薬』のPRソングの歌唱・普及活動に従事すること。路上ライブを行う場合は事前に道路使用許可申請書を総務課へ提出し、投銭は一旦全額を村の雑入として計上。そのうち三十パーセントを正規の歩合給として翌月給与に上乗せします」
「さ、三割もバックが……!」
「そして最も重要な返済計画です。これまでキャルル村長や村内に滞納していた負債総額は、役場が立て替えて一本化します。貴女の月給二十万円から、生活を圧迫しない範囲――毎月二万円を無理なく天引きし、十ヶ月で完済していただきます」
「あ……あぁ……」
「なお、廊下への『ふ〜ん石』の不法投棄は就業規則違反とし、発見の都度、始末書の提出と庁舎内のトイレ掃除を命じます。――以上です。不服があれば、この話は白紙に戻し、直ちに退去手続きに入りますが?」
正が説明を終えた瞬間、室内を支配したのは完全な静寂だった。
ソファーのキャルルは「すごい……! リーザちゃんの生活を守りながら、村の借金も回収して、広報までやってもらうなんて……!」と目を輝かせ、リバロンは「見事な労務設計ですね。施しではなく契約による自立……これぞ法務の神髄でございます」と深く感嘆の吐息を漏らしている。
そして、当のリーザはというと――
――カタカタカタカタカタッ!
全身を小刻みに震わせ、エメラルドグリーンの瞳から大粒の涙をポロポロと溢れさせていた。
「こ、固定給……。毎月確実に入ってくるお金……。五円玉を数えなくていい生活……。社保完備……。あったかいご飯……おかわり自由……」
その脳裏をよぎるのは、帝都のシェアハウスでキュララが特上大トロ寿司を頬張る横で、涙を流しながら焦げたパンの耳をかじっていた地獄の日々だった。
「あぁ……神様……佐藤太郎様……! 私の前に、本物の救世主が現れましたわ……!!」
ズザザザザザザァァァッ――!!
床を焦がす勢いで、今朝を遥かに上回る超高速スライディングが炸裂した。
リーザは正の革靴の爪先ゼロ距離へと滑り込み、額を床板に激しく叩きつけた!
勢い余って、芋ジャージのポケットからピカピカに磨かれた五円玉が数枚チャリンとこぼれ落ちる!
「サインしますぅーーーッ!! 就職しますわぁあああッ!! 生涯忠誠を誓います、武田課長様ぁあああーーッ!!」
「はい、靴が汚れるので離れてください。署名と捺印はこちらです」
正は動じることなく、万年筆をリーザの震える手へと握らせた。
リーザは鼻水をすすりながら、契約書の乙欄へ『リーザ・シーラン・リヴァイアサン』と震える筆致で署名した。
それを見届けた正は、胸ポケットから朱肉と愛用の三文判を取り出す。
「当事者双方の合意を確認。雇用契約の成立に伴う、ポポロ村地域振興予算の正規執行手続きに入ります」
カチリ、と視界の端でスキルウィンドウが稼働した。
【包括的決裁権限(社内稟議)】――【決裁執行】
ドンッ!
重厚な捺印音が執務室に響き渡ると同時に、契約書の表面から眩い青白い光がブワッと溢れ出した。
光の粒子がリーザの身体を優しく包み込み、彼女のステータスに刻まれていた「極貧」「栄養失調」「債務不履行リスク」の不穏な赤文字が、みるみるうちに「正規雇用」「社会保険加入済み」「計画的返済中」という健全な緑色の文字へと書き換わっていく。
「ふう……。これにて手続き完了です」
正は満足げに頷き、契約書の控えをクリアファイルへ丁寧に収めた。
「リーザさん、明日から朝八時半に出勤です。まずは広報用ポスターの撮影と、おばちゃん弁当部隊のイメージソングの打ち合わせを行います。遅刻は減給の対象になりますので、今夜はオオバコなど摘みに行かず、しっかりと睡眠を取るように」
「は、はいっ! はいですわ課長様! 私、死ぬ気で歌って踊ってポポロ村の経済を回してみせますわぁああ!」
便所サンダルを履き直し、感動の涙を拭いながら深々と直角にお辞儀をするリーザ。その姿には、先刻までのやさぐれた貧乏神の気配は微塵もなかった。
「タダシさん、本当にすごいよ……! あんなに言うことを聞かなかったリーザちゃんが、すっかり真面目な公務員になっちゃった……!」
キャルルが両手を組んで憧憬の眼差しを向けてくる。
正は時計の針をチラリと確認した。
十四時三十分。
十七時の定時退社まで、あと二時間半。
(よし……順調だ。この調子で居候たちの労務環境を一人ずつ適正化していけば、村の余計な突発トラブルは激減し、俺の平和な晩酌時間が脅かされることもなくなるはずだ……)
冷えたイモッカ・ソーダの喉越しを夢想しながら、四十歳の元社畜課長は、小さく安堵の笑みを漏らした。
――だが、彼がまだ知る由もなかった。
このポポロ村には、法と理屈が通じる「飢えた人魚姫」など比較にならないほど、倫理観と経済感覚が根底から破綻した「歩く天災級の居候」が、まだ何人も控えているという事実を。
読んでいただきありがとうございます。
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