EP 14
監査役の休日と、次なる「業務改善」の予兆
山賊連合三百名による夜襲が、法と経済の圧倒的な力によって「ドンガン地下帝国への合法的な労働者回付(人員再配置)」という形で完全鎮圧されてから数日。
ポポロ村役場の財務諸表は、建国以来初の「超ウルトラ大黒字」を叩き出していた。
「……ふう。これで今期の予備費、およびインフラ維持費の減価償却は綺麗にバランスしましたね」
職員用宿舎の一室で、武田正はくたびれたチャコールグレーのスーツの上着を背もたれに掛け、ワイシャツの袖をまくったまま、青白く発光する魔導計算板から視線を外して小さく息をついた。
ローテーブルの上には、昨夜の残務処理で溜まった山のような伝票の束が、きれいに整理されてファイリングされている。
ポケットから銀色のシートを取り出し、胃薬の錠剤を一粒、手際よく口に放り込んで水で飲み込む。
慢性的な胃の痛みは健在だが、決算書の数字が綺麗な黒字を描いているのを見る瞬間だけは、前世の総務部長時代から変わらない最高の一服の時間だった。
「タダシさぁん! 休憩にしてよ、もうお昼過ぎだよ!」
ガタッと障子が勢いよく開き、白銀の長い兎耳をぴこぴこさせながら村長キャルルが部屋に滑り込んできた。
その手には、特製のニンジンと特選ハーブをふんだんに使った特製サンドイッチが乗った木製の皿が握られている。
「タダシさん、朝からずっと帳簿と睨めっこしてて、お肌がカサカサになっちゃうよ! ほら、私が作ったスペシャル・ランチボックスだよ! あーんしてあげる!」
「村長、執務室ならともかく、プライベートの宿舎へ無断で立ち入るのは就業規則違反です。それに、その『あーん』のシステムは何度却下しても直りませんね」
正は眼鏡のブリッジをクイと押し上げ、呆れたように苦笑した。
しかし、キャルルはまったく気にする様子もなく、むしろ嬉しそうに目を細めて正の隣にドカッと腰を下ろす。
「だってもうお昼だもん! 午後からはね、村の新しい公園の設計図を一緒に見ようって約束したでしょ? ほら、見て見て! このウサギ型の滑り台の横に、タダシさんの銅像を建てるスペースも作ったんだから!」
「滑り台の横に私の銅像ですか? 公共の景観を著しく損ねるため、条例違反として即座に【却下】します」
キャルルが「えぇ〜、せっかくカッコいいブロンズ像なのに〜」と頬を膨らませるが、その紅い瞳には、正と一緒に過ごす平穏な時間への満ち足りた幸福感が揺らめいていた。
あの満月の夜の暴走事件以降、キャルルは正の「十七時退社・定時厳守」のルールを誰よりも厳格に守る番人へと変貌していた。
夕方の十七時が近づくと、「タダシさん、もう十七時だよ! 残業は絶対許さないからね!」と自ら率先して執務室のパソコンや伝票を没収し、宿舎へと追い立てるほどである。
まさに「愛の社内コンプライアンス監査」の徹底ぶりだった。
午後十四時。
ポポロ村の中央広場は、かつての寂れた限界集落の面影が嘘のように活気に満ちていた。
ドンガン地下帝国との間で結ばれた新しい弾薬・資材の長期供給協定のおかげで、村のインフラ整備は爆発的なスピードで進んでいる。
舗装された道路を走る輸送馬車、笑顔で野菜を売買する村人たち、そして自警団員たちも、過剰なピリピリ感から解放され、しっかりと週休二日制のローテーションを組んでリフレッシュしていた。
その様子を、広場のベンチからコーヒーを片手に眺めながら、リバロンが優雅にモノクルを光らせた。
「いやはや、武田殿。貴殿が赴任されてからわずか二週間足らずとは信じられませんな。我がポポロ村は、いまや大陸一コンプライアンスの行き届いた『ホワイト限界集落』へと生まれ変わりましたよ」
「ホワイト限界集落という響き自体が、社会風刺としてかなりジレンマを孕んでいますがね」
正は紙コップのブラックコーヒーを一口啜り、小さく息を吐いた。
「ですが、リバロン執事。組織というものは、急激な拡大期にこそ内部統制の緩みや新たなコンプライアンスリスクが生じるものです。油断は禁物ですよ」
「さすがは元・総合商社の法務課長殿。お言葉に一切の隙がございませんな」
リバロンが楽しげに笑った、その時だった。
空気が、パッと微かに震えた。
村の上空、雲一つない青空の空間に、突如として幾何学的な青白い光の幾何学模様――『時空転送ウィンドウ』がパズルのピースが嵌まるように出現した。
広場にいた村人たちが足を止め、ざわめき始める。
自警団員たちが瞬時に警戒態勢に入り、九九式魔導ライフルを構えようとしたが、正がスッと片手を挙げてそれを制した。
「……待ちなさい。あれは戦闘行為の魔法陣ではありません。行政通信の受信ポートです」
正の言葉通り、空中の光の陣地から、一枚の純白の羊皮紙がひらひらと優雅に舞い降りてきた。
それはまるで導かれるように、正の目の前のベンチの背もたれにピタリと吸着する。
羊皮紙の表面には、眩い金色の国印と、見慣れた複雑怪奇なシステムコードが刻印されていた。
「これは……?」
キャルルが耳をピクピクさせながら覗き込む。
正は銀縁眼鏡を外し、その表面を注意深く観察した。視界の端で、システムウィンドウが自動的に解析結果を表示する。
【特別行政通達:LEX-LUCIANA司法AI管理センターより】
【宛先】ポポロ村役場 総務法務課長 武田 正 殿
【件名】大陸間交易・法務監査官の臨時代行要請に関する件
「……ふむ」
正は低い呟きを漏らし、眼鏡をかけ直した。
「タダシさん、これって一体……?」
「……どうやら、私の休暇に、また一つ『重たいお仕事』が舞い込んできたようですね」
羊皮紙の文面には、大陸の三大国と緩衝地帯全体を揺るがす、極めて重大な「越境法的紛争」の予兆が記されていた。
それは、前世の商社時代に手がけたどんな巨大M&A案件よりも複雑怪奇で、胃薬の消費量が跳ね上がること確実な難題だった。
だが、正の表情に焦燥や恐怖の色は微塵もない。
彼は胸ポケットから、いつもの銀色の胃薬シートを取り出し、慣れた手つきで一粒を口に含んだ。
「十七時の定時退社まで、まだ時間はある。……リバロン執事、至急役員の臨時会議を招集してください。新しい『業務改善プロジェクト』の始動です」
青空の下、不敵な笑みを浮かべる四十歳の元社畜課長。
ポポロ村の平穏を保つための、そして定時退社を死守するための新たな戦いが、いま静かに幕を開けようとしていた。
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