EP 12
翌朝の奇跡:『満月被害相殺プロトコル』と示談交渉
ルナミス帝国軍・第4国境守備大隊の駐屯地を包む朝日は、どこか気まずい静寂に満ちていた。
瓦礫の散らかる中庭で、背広姿の武田正はクリップボードを挟んだ腕を組み、冷徹な法務監査官の眼差しで目の前に直立している帝国軍の代理指揮官――副大隊長を見据えていた。
その隣では、白銀の長い兎耳を完全にペタンと垂れ下げ、子犬のようにブルブルと震えている村長キャルルが、正のスーツの裾をぎゅっと掴んで小さくなっている。
「な……なんだこれは……!」
副大隊長は、手渡された分厚い書類――『損益通算および損害賠償・医療給付相殺に関する合意書』の数字を眺め、目を剥いて絶句した。
「我が第4国境守備大隊の兵舎が半壊し、数名の隊員が一時的に戦闘不能に陥ったのは事実だ! しかし、なぜ最終的な請求金額が……我々がポポロ村に『金を支払う』形になっているんだッ!?」
怒号を飛ばす副大隊長の背後では、昨日まで腰痛や古傷に泣いていた帝国兵たちが、「いや、でも隊長、おかげで腰の痛みが完全に消えて……」「走っても息切れしません!」と生き生きとした顔でざわめいていた。
正はゆっくりと銀縁眼鏡を押し上げ、低く落ち着いた声で解説を始めた。
「副大隊長殿、冷静に数字をご覧ください。貴殿の主張される通り、当村村長が夜間に及ぼした建造物等損壊の被害総額は、建物修繕費および備品破損を含めて『金貨百六十枚』です。これは当方としても認め、謝罪する用意があります」
「ふん、ならば全額弁償してもらおうか!」
「ですが」
正は手元の計算板の項目を指先でトントンと叩いた。
「民法第722条および大陸衛生管理法に基づき、加害行為と同時に発生した『有益な給付(利益)』は相殺される法理がございます。昨夜、当村長が貴隊の兵士八十四名に対して施した施術は、帝都の最高位神殿における保険外自由診療に換算して、総額『金貨四千二百枚』に相当します」
「か、金貨四千二百枚……!?」
「おまけに、長年の慢性腰痛、古傷、果ては遺伝性の疾患まで完全に根治された結果、貴隊の戦闘効率および兵士の労働生産性は平時比で三百パーセント向上しました。経済波及効果を含めれば、貴隊が得た実質的な利益は金貨五千枚を下りません」
正は冷徹な微笑みを浮かべ、決定的な数字を突きつけた。
「損害額百六十枚から、医療給付利益四千二百枚を差し引きますと……差し引き、貴隊は当村に対して『金貨四0二〇枚分の過剰な医療恩恵』を受けていることになります。――さて、この差額の不当利得、どのようにご精算されますか? 現金一括ですか、それとも物納分割ですか?」
「なっ……! ば、馬鹿なことを言うな! こっちは被害者だぞ! なぜ恩を売られて金を払わされそうになってるんだ……!」
副大隊長は頭を抱え、目の前の悪魔的な算術トリックに完全に気圧された。
暴力で殴られた上に、極上の健康と若返りを強制授与され、その対価として巨額の債務を背負わされる――帝国軍の歴史において、これほど理不尽で完璧な「逆ざまぁ」が存在しただろうか。
そこへ、背後から冷ややかな足音が近づいてきた。
「おや、随分と賑やかなようでございますね」
銀灰色の人狼――執事のリバロンが、優雅にモノクルを光らせながら二人の間に割り込んだ。
その手には、帝国内務省の公印が押された一枚の電信用紙が握られている。
「先ほど、帝都の内務省筆頭内務官・オルウェル閣下の直通ホットラインより、興味深い極秘通達が届きましてね。――昨夜、当村で不祥事を起こして逃走したベルガー監察官の不正蓄財が発覚し、内務省の査察部隊によって身柄が拘束されたそうです。第4国境守備大隊の皆様も、ベルガーの裏金作りに関する『監査』の対象として、本省から聴聞を受けるご予定がおありですか?」
「べ、ベルガー監察官が逮捕されただと……!? あの傲慢な男が……!?」
副大隊長の顔から血の気が完全に引いた。
帝国内務省のオルウェルといえば、軍部や官僚の不正を容赦なく切り捨てることで恐れられる「法界の鬼神」である。その名を出された瞬間、帝国軍側の抗議の気力は完全に粉砕された。
副大隊長はブルブルと震えながら、震える手で示談書の合意欄にサインをし、自分の公印を乱暴に押した。
「わ、分かった……! 負けた! 医療給付の相殺、および本件に関する一切の不問を誓う! 賠償請求も一切行わない! これで文句ないだろう……ッ!」
「お見事なご決断です。大人の賢明な判断に心から敬意を表します」
正は満足そうに頷き、合意書をピタリと二つに折って胸ポケットへ収めた。
【決裁執行――『満月被害相殺プロトコル』による平和的示談成立】
パァァァァッと青白い承認の光が微かに瞬き、昨夜からの国際トラブルが完全かつ合法的に「決着」した。
「さあ、村長。業務はこれにて終了です。ポポロ村へ帰りますよ」
正が振り返ると、そこには目をウルウルと潤ませ、信じられないものを見るような目で正を見上げるキャルルの姿があった。
「タダシさん……すごい……すごすぎるよ……!」
キャルルはピョンと飛び跳ね、そのまま正の背中に飛びつこうとしたが、社会的な体裁を辛うじて思い出し、両手でスカートの裾をギュッと握り締めながら、全身で狂おしいほどの熱視線を送った。
「一滴の血も流さずに、帝国軍を論破して、逆に恩を売って追い返チャッたよ……! あんなカッコいい大人、大陸のどこを探してもタダシさんしかいないよ……!」
「やれやれ、徹夜明けの身体にはこの歓声は少し響きますね」
正は小さく苦笑し、内ポケットから胃薬を取り出して水なしで飲み込んだ。
苦い粉末が胃の腑に落ちると同時に、昨夜からの膨大な緊張感がようやく解けていく。
「リバロン執事、帰りの運転をお願いできますか。流石に眠気が限界です」
「かしこまりました、武田課長殿。――さあ村長、お帰りの竜車へどうぞ」
こうして、ポポロ村を揺るがした満月の夜の暴走事件は、武田正の完璧な「法的リスクマネジメント」と「実務者間の水面下外交」によって、奇跡的な大黒字と完全勝利をもって幕を閉じたのだった。
村へ戻る帰路の車中。
朝日を浴びながら、正は静かに目を閉じ、今夜の晩酌のメニューに思いを馳せる。
(今度こそ……今夜の十七時こそは、誰にも邪魔させずに、冷えたイモッカ・ソーダを飲んでみせるぞ……)
だが、そのささやかな社畜の夢が、ポポロ村に巣食う他の怪物たち(竜王、狼王、不死鳥など)によって再び盛大に踏みにじられることになるのを、正が知る由はまだなかった。
読んでいただきありがとうございます。
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