第5話
「レオンハルト様、あの、これはいったい……?」
私がヴォルフスブルク城の客間に通されてから数日後。
部屋には、王都の高級ブティックすら青ざめるほどの、色とりどりのドレス、宝石、毛皮、そして最高級の靴が、文字通り『山』のように積み上げられていた。
「帝都から商人たちを急ぎ呼び寄せた。まずは当座の着替えが必要だろう。気に入ったものがあればすべてお前のものだ。もし好みに合わなければ、明日にでも別の商会をまるごと買い取ってこよう」
「しょ、商会まるごと!?」
平然と言い放つレオンハルト様は、今日も今日とて顔が良い。
前髪をかき上げる何気ない仕草だけで、私の心臓はスタンディングオベーションである。
辺境の地が私の歌(※本人はただの鼻歌のつもり)で春の楽園と化して以来、レオンハルト様の私に対する扱いが、なにやら『限界突破』し始めていた。
食事の際は隣に座り(自らあーんをしてくれる)、私が城内を歩けば転ばないようにと常に腰を抱き寄せ(筋肉の硬さが最高)、夜は私が寂しくないようにと部屋の前の廊下で彼自らが見張りに立つ
(いやいや寝て!? 隈治ったばっかなのに!!)
という、過保護のオーバードーズ状態である。
「エレナ。お前はこの地に命を吹き込んでくれた。お前は私の……いや、このガレリア帝国にとっての至宝だ。これほどの扱いでもまだ足りないくらいだ」
熱っぽい氷青の瞳で見つめられ、私の致死量はとうに超えている。
(推しからの圧が重い!! 最高!! でも私はレオンハルト様が美味しいご飯を食べてぐっすり寝てくれればそれでいいのに!!)
内心で尊さに悶え転がっていると、部屋の扉がノックされ、騎士が青ざめた顔で入ってきた。
「閣下、エレナ様。申し訳ありません。……隣国より、急ぎの使者が参りました。なんでも、エレナ様の『返還』を要求していると……」
「ほう?」
その瞬間、部屋の温度が一気に氷点下まで下がった(物理)。
レオンハルト様の周囲の大気からパキパキと氷の結晶が生み出され、彼の放つ絶対零度の殺気に騎士がガチガチと震え上がる。
「……私の至宝を、返せだと?」
「は、はいっ! 隣国は今、瘴気が全土を覆い、魔獣が王都になだれ込んで国としての機能が完全に崩壊しているそうです! 国王の親書には『どうか我が国の結界であるエレナ嬢を戻してほしい。あれは愚鈍な王太子の独断であり、王家の総意ではない』と……っ!」
それを聞いたレオンハルト様は、ふっと冷酷な笑みを浮かべた。
戦場を支配する『氷の公爵』の顔である。
「エレナ。お前はどうしたい?」
「わたくしですか? ……そうですね」
私はにっこりと、完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
「わたくしは『声を出せぬ無能』として、公式文書をもって追放された身。あの国にはもう、わたくしの帰る場所など一寸たりともございませんわ」
「……そうだな。その言葉が聞けて安心した」
レオンハルト様は私の手を取り、その甲に恭しくキスを落とすと、騎士に向かって氷のように冷たい声で命じた。
「使者に伝えよ。――『エレナ嬢はすでに、我がガレリア帝国辺境伯レオンハルトの婚約者である』と」
(ファッ!? こ、婚約者!?)
私が目を剥いている間に、レオンハルト様はスラスラと言葉を続ける。
「『公式な王命文書による追放』という事実がある以上、他国の貴族である彼女へ干渉することは、我がガレリア帝国への明確な宣戦布告とみなす。エレナの髪一本、指先一つに触れようとするならば、私が直々に軍を率いて、貴様らの国ごと氷の底へ沈めてやろう、とな」
「はっ!! 直ちに伝えて参ります!!」
騎士は弾かれたように駆け出していった。
私はパクリと口を開けたまま、レオンハルト様を見上げる。
「あ、あの……婚約者、というのは、使者を追い返すための方便、ですよね……?」
「方便? なぜだ」
「えっ」
レオンハルト様は、ひどく真剣な、それでいてどこか熱を帯びた瞳で私を抱き寄せた。
「お前ほどの女性を手放すなど、あり得ないだろう。……いや、公的な理由は建前だ。エレナ、私はお前を愛している。あの日、吹雪の中で微笑んだお前を見た瞬間から、私の心は溶かされていたのだ」
「レオンハルト様……っ」
(推しからの、ガチ告白……ッ!! ありがとうございます!! 我が人生に一片の悔いなし!!!)
私が感極まってボロボロと涙をこぼすと、レオンハルト様は「泣かせてしまったか」とひどく焦ったように私の涙を長い指で拭い、そっと抱きしめてくれた。
その胸板の厚みと温かさに、私はこの上ない幸福と安心感に包まれていた。
――一方、その頃。
祖国では、レオンハルト様からの『返答』を受け取った国王が、絶望のあまり玉座から転げ落ちていた。
「ガ、ガレリア帝国の……あの『戦神』レオンハルト公爵の婚約者になっただと!? しかも、これ以上の要求は宣戦布告とみなすだと……ッ!?」
ガレリア帝国は、大陸随一の軍事大国である。
瘴気に飲まれかけ、魔獣の対応で手一杯の小国が、帝国を敵に回して生き残れるはずがない。つまり、エレナを取り戻す手段は、外交的にも軍事的にも『完全に断たれた』のだ。
「終わりだ……。我が国は、終わった……っ!!」
国王の悲痛な叫びが、瘴気に澱んだ王城に虚しく響き渡った。
そして、王都の地下深く。
最も瘴気が濃く、光すら届かない冷たい地下牢に、かつて王太子と呼ばれた男、アルベルトの姿があった。
「ああっ……! げほっ、ごほっ……! 寒い……痛い……っ!」
豪華な絹の服は見る影もなくボロボロに引き裂かれ、泥と汚物にまみれている。
彼は今、大罪人として、地下から這い出てくる下級魔獣を棒切れ一本で追い払うという、死ぬまで終わらない過酷な強制労働を強いられていた。
すぐ隣の牢からは、男爵令嬢マリアの「もう嫌ぁぁっ! 泥水なんて飲めないぃぃっ!」という発狂したような泣き叫びが一日中響き続けている。かつて癒やしだと思っていたその甘ったるい声は、今やアルベルトの神経を削り、頭をかきむしりたくなるほどの呪いのノイズでしかなかった。
看守たちが、牢の前を通り過ぎながらヒソヒソと噂話をするのが聞こえる。
『聞いたか? 北のガレリア帝国は今、かつてないほどの豊作らしいぞ』
『ああ、辺境伯様の治める地が、一年中花が咲き乱れる楽園になったってな。……なんでも、我が国から追放されたエレナ様が、真の歌姫としてかの地を祝福されたとか……』
『エレナ様が……。ああ、あの方さえこの国にいてくだされば……!』
その言葉が耳に届いた瞬間、アルベルトは棒切れを取り落とし、冷たい石の床に這いつくばった。
(エレナが……あいつが、真の歌姫だった……? 俺が、この手で追放した、あいつが……ッ!?)
アルベルトの脳裏に、かつて夜会で彼を静かに見つめていた、エレナの完璧に美しい姿がフラッシュバックする。
『殿下。そのお言葉、決して後悔はなさいませんね?』
あの時、彼女は最後にそう念を押したのだ。
自分がどれほどの宝を足蹴にし、どれほど愚かな選択をしたのか。
その事実を最悪の形で突きつけられたアルベルトの目から、どす黒い後悔の涙がボロボロと溢れ出した。
「う、あ……あああああああっ……!! エレナ……! エレナァァァァァァッ!!」
しかし、どれほど泣き叫ぼうと、どれほど後悔しようと、彼女が戻ってくることは永遠にない。
アルベルトは、自分自身が下した決断の代償として、暗く冷たい地下牢の底で、狂気と瘴気に蝕まれながら惨めな一生を終えるのだった。
――彼の絶望の叫びなど、光に満ちた北の楽園には、欠片すら届くことはない。




