第4話
エレナが極寒の辺境を春の楽園へと変え、氷の公爵とロマンスのフラグをへし折る勢いで限界突破していた、まさにその頃。
祖国である王都は、建国以来かつてないパニックの渦中にあった。
「……くさい」
「空が、淀んでいる……っ。なんだこの空気は、息が、息が詰まる……!」
翌朝、王都の住民たちは異臭で目を覚ました。
いつもなら抜けるように青い空が広がるはずの頭上は、どす黒く、紫色に濁った重い雲――いや、『瘴気』の層にべったりと覆い尽くされていた。
太陽の光は遮られ、真昼だというのに夕暮れのように薄暗い。ドブ泥と腐った卵を混ぜたような悪臭が立ち込め、魔力耐性の低い平民たちは次々と咳き込み、地面に倒れ伏していた。
王城も例外ではない。
豪華絢爛だった大広間のシャンデリアは瘴気にあてられて黒く変色し、庭園に咲き誇っていた希少な薔薇は、一夜にしてドロドロの汚泥に変わっていた。
「殿下! アルベルト殿下!! 大変でございます!!」
王太子の執務室に、騎士団長が血相を変えて転がり込んできた。
「朝から騒々しいぞ。どうしたというのだ」
「け、結界が! 王都を覆っていた『浄化の結界』が完全に消滅しております!! このままでは数時間以内に瘴気が城内にまで充満し、近隣の森から魔獣がなだれ込んできます!!」
「結界が消えただと?」
優雅に紅茶を飲んでいたアルベルトは、眉をひそめて窓の外を見た。
確かに空は暗いが、彼はさして慌てる様子もなく鼻で笑った。
「ふん。エレナの奴め、城を出た腹いせに、王宮に設置してあった結界の魔道具でも壊していったのだろう。陰湿な女だ。だが案ずるな、我々には『真の歌姫』であるマリアがいるではないか」
アルベルトの隣では、ふかふかのソファに深々と腰掛けたマリアが、呑気にマカロンをかじっていた。
「マリア、出番だぞ。お前のその素晴らしい癒やしの歌声で、この鬱陶しい空模様をパッと晴らしてやってくれ」
「え〜? 朝から歌うんですかぁ? まぁいいですけどぉ。殿下のお願いなら、マリア、頑張っちゃいます!」
マリアはコホンと可愛らしく咳払いをして、王城の最も高いバルコニーへと向かった。
眼下には、瘴気に苦しみ、助けを求めて城門に群がる領民たちの姿がある。騎士たちも、今か今かと『真の歌姫』の奇跡を待ち望んでいた。
「いきますよぉ〜。あー、あー」
マリアは両手を胸の前で組み、目を閉じて、王太子が絶賛した『癒やしの歌』を歌い始めた。
『〜〜♪ はなびらがぁ〜、かぜにぃ〜、ゆれてぇ〜♪』
甘ったるく、吐息混じりの、媚びるような声。
確かに酒場で男の気を引くには十分な声かもしれない。だが、そこには大気中の魔素を震わせるほどの『魔力』が微塵も乗っていなかった。
一分経過。
三分経過。
一曲歌い終わる。
……何も起きない。
「え?」
「ど、どういうことだ……? 瘴気が、晴れないどころか、さらに濃くなっているぞ!?」
アルベルトが焦りの声を上げた。
実際、マリアの歌声は瘴気を浄化するどころか、中途半端に空気を揺らしたせいで、森の奥に滞留していた瘴気まで城の方へ引き寄せてしまっていた。
「おかしいな。マリア、もう一度だ! もっと声を張って、魔力を込めて歌うんだ!」
「も、もう一回ですかぁ? 私、喉が繊細だからあまり連続で歌うと痛くなっちゃうんですけど……。ええと、♪きらきらぁ〜、おほしさまがぁ〜♪」
『ギャアアアアアアアアッ!!!』
その時、マリアの歌を遮るように、城壁の向こうから身の毛もよだつ咆哮が響き渡った。
瘴気をたっぷりと吸い込んで巨大化した『泥の魔物』や、凶暴化した『瘴気蝙蝠』の大群が、マリアの歌声を「自分たちを呼ぶ餌の合図」と勘違いして、王都へ一斉になだれ込んできたのだ。
「ひぃっ!? な、なんですかあれ!! 気持ち悪い!!」
「殿下! 魔獣が城壁を越えました!! 騎士団だけでは抑えきれません!! はやく、はやく浄化を!!」
「わ、わかっている! マリア、早くしろ! なぜ浄化されないんだ!」
「わ、私に言われても知りませんよ! 私の歌は『癒やし』であって、あんなドロドロした化け物を消す力なんてありません!!」
マリアは半狂乱になってアルベルトを突き飛ばし、バルコニーから部屋の中へと逃げ込んだ。
「な……お前は『真の歌姫』ではなかったのか!? エレナよりも強い力を持っていると……!」
「そんなの、殿下が勝手に言ってただけじゃないですかぁ! 私はただ、殿下が『君の歌声は素晴らしい』って褒めてくれるから合わせてただけで!!」
マリアの責任転嫁の叫びに、アルベルトはついに血の気を失った。
エレナの歌は、なぜ自分たちに聞こえなかったのか。
それは、彼女の魔力が高密度すぎたためだ。
エレナがいなくなった途端に、これほどまでの瘴気が国を襲うということは。
「まさか……。あの無能だと思っていたエレナの鼻歌が、この国の巨大な結界を一人で維持していたとでもいうのか……?」
膝から崩れ落ちるアルベルト。
そこに、怒号とともに執務室の扉が蹴り破られた。
「アルベルトォォォォォォォ!! 貴様、一体何ということをしてくれた!!」
血走った目で剣を引きずりながら現れたのは、この国の国王――アルベルトの父親だった。
彼は地方視察から急遽引き返してきて、王都の地獄絵図を目の当たりにし、さらには「アルベルトが公爵令嬢を追放した」という報告を聞いて激怒のあまり卒倒しかけたのだ。
「ち、父上! 誤解です、私はただ、エレナが聖女にふさわしくないと――」
「黙れこの暗愚が!! ローゼン公爵家は建国以来、我が国の瘴気を浄化し続けてきた『要』だぞ!! その直系で過去最高の魔力を持つエレナ嬢を追放するとは何事だ!!」
「し、しかし、公爵家から抗議は来ておりません! エレナは自主的に国を出て……」
「貴様が『サイン入りの王命文書』を突きつけたのだろうが!!!」
国王がアルベルトの顔面に例の文書の控えを叩きつける。
そこには、『王家の権限において、エレナ・ヴァン・ローゼンとの婚約を破棄し、国外退去を命ずる』という、アルベルトの直筆サインが燦然と輝いていた。
「この文書がある限り、公爵家は『王家の命令に従っただけ』となり、我々は一切の責任を追及できん! むしろ不当な婚約破棄として、莫大な慰謝料を公爵家から請求されるだろう!! ……お前は、自らの手でこの国を滅ぼしたのだ!!」
「そ、そんな……」
ドス黒い瘴気が窓の隙間から這い入り、悲鳴と怒号が飛び交う王城。
かつて栄華を誇った王太子と、彼に寄り添っていた男爵令嬢は、迫りくる魔獣の足音に怯えながら、互いに「お前のせいだ!」「殿下が悪いんじゃないですか!」と見苦しく泣き叫び、泥沼の底へと落ちていくのだった。
――一方、その頃。
「レオンハルト様! こちらの領地で採れた小麦粉とお野菜で、シチューを作ってみましたの! さあ、あーんしてくださいっ!」
「エ、エレナ、私は自分で食べられるぞ。それに、お前のような尊き淑女に料理など……」
「いいから! 推しの咀嚼する顔を至近距離で拝むのが私の幸せなんです! ほら、あーん!!」
「あ……あーん」
極寒だったはずの辺境の城では、ほかほかのシチューの香りと、限界突破したオタク令嬢の弾むような声が、平和で温かな空間を満たしていた。




