第3話
翌朝。
私は侍女のアンナが目を覚ますより早くベッドを抜け出し、客室の分厚いカーテンを開け放ってバルコニーへと出た。
「……ひどい有様ね」
吹き付ける凍てつく風を、魔力で作った薄い障壁で弾きながら、私は眼下に広がる領地の景色に息を呑んだ。
本来なら美しい雪景色なのだろうが、大地にはどす黒いモヤ――高濃度の『瘴気』がべったりとへばりついていた。植物は完全に枯れ果て、大地は腐り、空までが澱んで見える。
祖国で私が毎晩浄化していた瘴気など、ここの濃度に比べれば可愛いものだ。
こんな過酷な環境で、レオンハルト様は来る日も来る日も戦い続けてきたのか。
最推しの苦労を思い、私の胸がキュンッと痛む。……いや、ただ痛めている場合ではない。
その時だった。
城の物見櫓から、鼓膜をつんざくようなけたたましい鐘の音が鳴り響いた。
『魔獣の群れだ!! 北の谷から瘴気狼の群れが来るぞ!!』
『数は!?』
『ざっと三百……いや、それ以上です!!』
城の庭に、武装した騎士たちが次々と飛び出してくる。
誰もが疲労困憊で、傷ついた体を引きずっている者すらいる。それでも彼らは武器を手に取り、悲壮な覚悟で陣形を組もうとしていた。
その先頭に、あの美しい銀糸の髪をなびかせたレオンハルト様が現れた。
巨大な氷の魔剣を引き抜き、愛馬にまたがるその姿は、絵画から抜け出してきた軍神のように勇ましい。
(あああっ! 朝から甲冑姿の推し!! 尊い!! でもあの目の下の隈を見るに絶対徹夜してる!! ダメよ、推しにこれ以上の残業はさせられない!!)
私はバルコニーの手すりに乗り出し、大きく息を吸い込んだ。
祖国にいた頃は、私の魔力は強大すぎた。
あの国の薄っぺらい結界の中で本気で歌えば、魔力の波動で王都中のガラスが粉々に砕け散ってしまう。だから私は常に魔力を九割九分抑え込み、細々と「掠れた鼻歌」のようにして歌うしかなかった。
ポンコツ王子や男爵令嬢に「声が聞こえない」と嘲笑われても、国を守るために耐えるしかなかったのだ。
だが、ここは違う。
果てしなく広がる大地。濃密すぎる瘴気。
ここなら、私の有り余る魔力を、一ミリも抑え込むことなく全解放できる。
「――お聞きなさい」
私が発した声は、決して大きくはなかった。
しかし、魔力を乗せたその一音は、大気を震わせ、吹雪の音すら打ち消して、城下はおろか迫り来る魔獣たちの耳にまで真っ直ぐに届いた。
出撃しようとしていたレオンハルト様が、弾かれたようにこちらを見上げる。
その氷青の瞳と視線が交差した瞬間、私は彼へのありったけの愛と、魔力を限界まで込めて歌い始めた。
紡がれるのは、古よりローゼン公爵家に伝わる浄化と豊穣の旋律。
『――冬の夜を越え、光は地に満ちる。凍れる闇を打ち払い、命の芽吹きをここに――』
鼓膜ではなく、魂と大地そのものを震わせる、圧倒的な歌声。
私の体から、眩い黄金色の魔力の波が、波紋のようにブワッと領地全域へ広がっていった。
「な、なんだこれは……っ!?」
「光が……空から光が降ってくる……!」
城の騎士たちが、呆然と武器を取り落とす。
黄金の波が通り過ぎた瞬間、大地にへばりついていたどす黒い瘴気が、朝日に照らされた霜のように「ジュッ」と音を立てて消滅していった。
それだけではない。
私の歌声が響くたび、カチカチに凍りついていた大地が音を立てて溶け始める。
黒い土から、鮮やかな緑の草が一斉に芽吹き、枯れ木には瞬く間に花が咲き乱れた。
さらに、ただの草花だけでなく、領民たちが植えていたにもかかわらず冷害で枯れていたはずの小麦や野菜の苗までが、規格外の魔力を浴びてボンッ! ボンッ! と凄まじい勢いで成長し、一瞬にして実りの秋を迎えてしまった。
「ギャンッ……!?」
北の谷から押し寄せていた凶悪な瘴気狼の群れは、私の歌(浄化の光)を浴びた途端、身にまとっていたどす黒い靄を完全に剥ぎ取られた。
彼らは「あれ? 俺たちなんでこんなところで牙剥いてたんだっけ?」というようなキョトンとした顔になり、キャンキャンと尻尾を巻いて、そそくさと森の奥へ帰っていく。
わずか数分。
私が一曲歌い終える頃には、ヴォルフスブルク城の周辺は、極寒の辺境から一転して、ぽかぽかとした陽光が降り注ぐ春の楽園へと変貌していた。
「ふう……。やっぱり、思い切り声を出せるって気持ちいいわね」
朝のラジオ体操を終えたような爽やかな気分で私が深呼吸していると、背後のバルコニーの扉が「バンッ!!」と勢いよく開かれた。
振り返ると、そこには息を乱したレオンハルト様が立っていた。
城門の前からバルコニーまで、驚異的な身体能力で駆け上がってきたらしい。
「エ、エレナ……嬢……」
あの常に冷静沈着な氷の公爵が、目を限界まで見開き、信じられないものを見るように私を見つめている。
風に乱れた銀髪。かすかに汗をかいた端正な顔立ち。驚愕に揺れる氷青の瞳。
(近ッ!! 顔が良い!! 美の暴力!! そして私の名前呼んでくれた!? ボイスレコーダーどこ!?)
脳内では大興奮でペンライトを振り回していたが、私はあくまで「奥ゆかしい公爵令嬢」の仮面を被り、コテッと小首を傾げた。
「あら、レオンハルト閣下。朝の発声練習をしておりましたが、お騒がせしてしまいましたか?」
「朝の……発声練習だと……?」
レオンハルト様はフラフラと私のそばまで歩み寄ると、バルコニーの下を見下ろした。
そこには、瘴気が完全に消え去り、百花繚乱の花畑と化し、なぜか巨大なカボチャや小麦がたわわに実っている、どう見ても異常な大地の姿がある。
「……先ほどの黄金の光。そしてこの奇跡。まさか、お前がやったのか?」
「はい。我がローゼン公爵家は、代々『歌』で瘴気を祓う役目を担っておりますので」
「馬鹿な……。私は他国の使者から『真の歌姫は男爵令嬢であり、公爵令嬢は声も出せない無能だ』という報告を受けていたぞ」
「ああ、あれはですね。私の魔力が高密度すぎたため、あの方々の耳には雑音にしか聞こえなかったようなのです。私の魔力を受け止めるには、アルベルト殿下の器(魔力)では、少々……いえ、決定的に足りなかったと言いますか」
私が控えめに事実を告げると、レオンハルト様はしばし沈黙し、やがて大きな手のひらで顔を覆った。
「……あの国の王家は、自ら『本物の女神』をこの極寒の地に放り出したというわけか。正気の沙汰ではない」
「女神だなんて、とんでもございません。ただの捨てられた無能な令嬢です」
私が自嘲気味に微笑むと、突然、レオンハルト様が私の両手を、その大きくて熱い手でギュッと包み込んだ。
「ひゃっ!?」
「エレナ。お前の力は、この死にかけていた領地を……いや、ガレリア帝国全土を救う光だ。無能などと、二度と口にしないでくれ」
(あああああああ!! 手!! 手握られてる!! 熱い!! 好き!!!)
「もしよければ、ずっとこの城にいてくれないか。お前が望むものはすべて私が用意する。どんな扱いを受けてきたかは知らないが、私が、お前のすべてを庇護しよう」
真っ直ぐに私を見つめる、氷青の瞳。
その中には、確かな熱と、出会ったばかりとは思えないほどの深い情が宿っていた。
推しからの、事実上のプロポーズ(※本人は領地の保護者としてのつもり)である。
「……はいっ! わたくし、閣下のためならどんなことでもいたしますっ!」
(やったあああ! 永久就職キターー!! これで毎日推しを拝み放題、ご飯食べさせ放題よ!!)
私とレオンハルト様が見つめ合い、城の騎士たちが「おおおおお!! 豊穣の歌姫万歳!!」「公爵様バンザイ!!」と感涙に咽び泣きながら花畑で歓喜のダンスを踊っている、まさにその頃。
――私の結界が完全に消失した祖国・王都では、いよいよ「取り返しのつかない地獄」の蓋が開こうとしていた。




