第2話
「お、お嬢様……いくらなんでも、寒すぎます……っ」
「我慢なさいアンナ。推しへの愛の炎があれば、マイナス二十度なんて常夏と一緒よ」
「推し……? 常夏……? お嬢様、ついに寒さで頭が……」
王都を飛び出してから十数日。
国境を越え、ガレリア帝国の最北端に位置する辺境領へ足を踏み入れた途端、景色は一変した。
見渡す限りの銀世界といえば聞こえはいいが、空は分厚い灰色の雲に覆われ、刺すような吹雪が馬車の窓をガタガタと揺らしている。
それだけではない。私は窓ガラスに触れ、微かに眉をひそめた。
(……ひどい瘴気。それに、魔獣の気配も濃い)
祖国では私が毎晩こっそり浄化していたため、王都周辺の民は瘴気の恐ろしさを忘れて平和ボケしていたが、本来、手付かずの瘴気というのは大地を腐らせ、生き物の体温を奪い、凶悪な魔獣を生み出す原因となる。
この極寒の辺境領は、まさにその最前線。隣国から押し寄せる瘴気と魔獣を、辺境伯であるレオンハルト様が自らの武力と軍勢のみで必死に食い止めている防波堤なのだ。
(あんなポンコツ王子の国なんてどうでもいい。私の膨大な魔力は、今日からすべて最推しのために使うって決めたんだから!)
やがて馬車は、険しい岩山の頂にそびえ立つ漆黒の城郭――辺境伯の居城、ヴォルフスブルク城の正門へと到着した。
王宮の華美で無駄だらけな装飾とは違う、戦うためだけに作られた質実剛健な要塞。その無骨さにすらキュンキュンしてしまう。
「止まれ! 何者だ! ここをガレリア帝国辺境伯領と知っての立ち入りか!」
門兵たちが鋭い声とともに槍を交差させた。当然の反応だ。こんな吹雪の日に、他国の貴族の馬車がアポなしで突撃してきたのだから。
震えるアンナを馬車に残し、私は最高級の毛皮のコートを羽織って、優雅な所作で馬車を降りた。
「突然の訪問、お許しくださいませ。私はエレナ・ヴァン・ローゼン。……つい先日まで、隣国の王太子と婚約しておりました者です」
身分を明かした瞬間、門兵たちの間に動揺が走る。「公爵家の令嬢!?」「なぜあの大国の次期王妃がこんな最果てに!?」とざわめきが広がった、その時だった。
「――騒々しい。何事か」
吹雪の音を切り裂くように、低く、しかし恐ろしいほどよく通る声が響いた。
重厚な鉄の門が開き、数人の騎士を引き連れた大柄な人影が歩み出てくる。
漆黒の軍服の上に、雪除けの分厚い銀狼の外套を羽織った長身。
プラチナブロンドとも呼べる輝きを持つ銀糸の髪に、吹雪よりも冷たく鋭い、氷青の瞳。
戦場を生き抜いてきた者だけが持つ圧倒的な覇気と、彫刻のように完璧な黄金比の顔立ち。
(い、生きてるゥゥゥゥ!! 動いてるゥゥゥ!! 顔が良い!! 画面で……じゃなかった、肖像画で見るより三次元の破壊力エグい!! 足長っ! 肩幅広っ! 大胸筋の厚みだけで白飯三杯いける!!)
心の中の私がペンライトを両手に持って荒ぶり、歓喜の舞を踊り狂っているが、そこは公爵令嬢として叩き込まれた鉄の自制心である。
私は一切の表情を崩さず、ふっと儚げな視線を落とし、完璧に美しいカーテシー(淑女の礼)を決めた。
「お初にお目にかかります、辺境伯レオンハルト閣下。……このような無作法な訪問をお許しください」
「ローゼン公爵家の令嬢が、なぜここにいる。貴女は隣国の王太子の婚約者のはずだが」
レオンハルト様は鋭い警戒の目を向けながら、静かに問い詰めてきた。
ううっ、冷たい声もたまらない。罵られたい。いやいや、今は本題だ。
「……婚約は、破棄されました。わたくしは『声を出せぬ無能』として国を追放された身。もはや帰る場所も、身分もございません」
私は懐から、王太子アルベルトの直筆サインと王家印が入った「婚約破棄および国外追放の公式文書」を取り出し、両手で差し出した。
側近がそれを受け取り、レオンハルト様の元へ運ぶ。
文書を一読した瞬間、氷の公爵の美しい眉間が、信じられないものを見るように深く、深く刻まれた。
「……『真の歌姫たるマリアの癒やしの歌声に比べ、エレナの鼻歌は不快極まりないため、無能として追放する』……だと? あの愚鈍な王太子は、自国の要であるローゼン公爵家の令嬢を、こんな狂った紙切れ一枚で放逐したというのか?」
「はい。事実でございます」
(おお〜! さすが推し! 王太子のイカれ具合を一瞬で見抜いた! 知性もカンストしてる!!)
レオンハルト様は大きなため息をつき、ひどく頭痛がするような手つきでこめかみを押さえた。
「あの国の王宮は魔獣に脳を食われたのか? 公爵家を怒らせれば国が割れることすら理解していないとは……。だが、国を追われたのは事実なのだな。それで、なぜよりによってこの最北の地へ?」
「……レオンハルト閣下。わたくしは……」
私はそこで一度言葉を切り、潤んだ瞳で彼をまっすぐに見つめ上げた。
悲劇のヒロイン感マシマシの、とっておきの表情である。
「わたくしは、ただ静かに生きたいのです。華やかな王都も、偽りの愛も、もうたくさん。この厳しい大自然の中で、凍えるような寒さに身を委ね、過去を忘れてひっそりと生きていきたい……。図々しいお願いとは承知しておりますが、どうか、この領地の片隅に身を置くことをお許しいただけないでしょうか」
(本音:推しの顔を毎日拝めるなら下働きでも馬小屋の掃除でもやります養ってくださいお願いします!!)
私の言葉を聞いたレオンハルト様の氷の瞳に、ほんのわずかに動揺の色がよぎった。
極寒の雪の中、か細い(ように見える)ドレス姿の令嬢が、祖国に裏切られ、絶望の果てに自分の領地へ逃げてきたのだ。冷徹と呼ばれる彼だが、決して非道な人間ではないことを私は知っている。
「……ここは、お嬢様が考えているような甘い場所ではないぞ。毎日が魔獣との死闘だ。見ろ、土地は凍りつき、まともな作物すら育たない」
「構いません。わたくしは、もう何も望んでおりませんから」
レオンハルト様はしばし黙り込み、私の震える肩(演技ではなく普通に寒い)と、後ろで青ざめている侍女のアンナを交互に見た。
やがて、短く息を吐き出す。
「……まずは中へ入れ。他国の公爵令嬢を城門の前で凍死させては、外交問題になる。温かいスープと、ストーブの利いた部屋を用意しろ」
「はっ!」
(やったああああああ!! 推しの城に潜入成功ゥゥゥゥ!!)
案内された客室は、確かに質素ではあったが、大きな暖炉に火がくべられ、冷え切った体をじんわりと温めてくれた。
ほどなくして運ばれてきたのは、具がほとんど入っていない薄いスープと、黒く硬いパン。
アンナは「公爵家のお嬢様になんてものを……」と涙ぐんでいたが、私は逆に、そのスープを見て胸が締め付けられる思いだった。
(……辺境伯ほどの地位にある方の城で、こんな食事しか出せないなんて。それだけ、瘴気による冷害と土壌汚染が深刻なんだわ)
先ほど間近で見たレオンハルト様の目の下には、うっすらと疲労の影があった。
おそらく、連日連夜、領民を守るために魔獣討伐の最前線に立ち続け、まともに眠る時間すら確保できていないのだろう。
私は硬いパンをスープに浸し、一口かじりながら、心の中で硬く誓った。
(決めた。絶対にレオンハルト様を楽にさせてみせる。私の力でこの土地を浄化して、ふかふかのパンと美味しいお肉を毎日推しに食べさせてあげるんだから……!)
翌朝。
私は行動を開始すべく、広大な城のバルコニーへと向かった。
ここからなら、領地全体を見渡し、瘴気の流れを読むことができる。
さあ、最推しへの「重すぎる愛(物理)」を込めた、本気の歌声を披露する時だ――。




