第1話
「声も出せぬ無能な人形め。エレナ、貴様との婚約は今この場をもって破棄する!」
王城の最も大きく豪奢なシャンデリアが輝く夜会の大広間。
華やかなワルツの旋律を切り裂くように響き渡った王太子の声に、何百人もの貴族たちが一斉に息を呑んだ。
広間の中央。豪奢な絨毯の上で、王太子アルベルトはひとりの令嬢の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったように見下ろしている。
彼の腕の中にいるのは、最近「癒やしの歌声を持つ」ともてはやされている男爵令嬢のマリアだ。彼女はアルベルトの胸に顔を埋めながら、チラリとこちらへ同情と優越感の入り混じった視線を向けてきている。
対して、何十人もの冷ややかな視線を一身に浴びているのは、公爵令嬢である私、エレナ・ヴァン・ローゼンだった。
完璧なカーテシーの姿勢のまま顔を上げた私は、一切の感情を排した無表情で王太子を見つめ返した。
誰もが、私が悲惨な宣告に絶望し、今にも泣き崩れると思っているだろう。
王太子に縋り付くか、あるいは嫉妬に狂って男爵令嬢を罵倒するか。周囲の貴族たちは、扇の陰でヒソヒソと下世話な囁きを交わしている。
だが、私の胸中は彼らの予想とは全く違う、嵐のようなパッションに支配されていた。
(よっしゃあああああああああああああああああああ!!!!)
顔の筋肉を総動員して「悲劇の令嬢」の仮面を保ちながら、私は心の中で天に向かって渾身のガッツポーズを決めていた。
(ついに! ついに言ったわねこのポンコツ王子!! 待ってた! この瞬間を三年間ずっと待ってたわ!!)
王太子アルベルトが私を忌み嫌う理由はただ一つ。
私が「声を持たない無能の歌姫」だからだ。
我がローゼン公爵家は、代々強大な魔力を持ち、その魔力を「歌」に乗せて大地に捧げることで瘴気を浄化し、国に豊穣をもたらす役割を担ってきた。
もちろん、私にもその力は受け継がれている。否、歴代の公爵家の中でも、私の魔力はあまりにも膨大で、純度が高すぎたのだ。
その結果何が起きたか。
魔力のない凡人や、アルベルトのような魔力感知の低い人間が私の歌を聞くと、高密度すぎる魔力が鼓膜で弾かれ、ただの「掠れた鼻歌」や「低周波のノイズ」にしか聞こえないのである。
私が毎晩、王都の地下神殿で喉から血が出る思いで瘴気を浄化し続けていたというのに、アルベルトは私を「歌えない出来損ない」「愛想のない人形」と呼び、見下し続けてきた。
そこへ現れたのが、男爵令嬢のマリアである。彼女の魔力は極めて薄くスッカスカだったが、そのおかげで誰の耳にも「甘くて可愛らしい、ちょっと癒やされる歌声」として届いた。
「マリアの歌声は、疲れた私の心を癒やしてくれる。それに比べてお前はどうだ? いつもむっつりと黙り込み、美しい声ひとつ出せない。未来の王妃として、民を導く歌姫として、お前はあまりにも不適格だ!」
アルベルトの罵倒に、マリアが「殿下、そんなに強く言ったらエレナ様が可哀想ですぅ……」と涙目で縋り付く。
(うわぁ、テンプレ通りの見事なクズっぷり……! でも今日だけは許す! おかげで私は、これでようやく『自由』になれるんだから!!)
私がこの不条理な扱いに耐え、毎晩の浄化作業というサービス残業を無給でこなしてきたのには理由がある。
それは、王家からの婚約という重すぎる縛りがあったからだ。こちらから婚約破棄を申し出れば公爵家全体に累が及ぶ。だからこそ、アルベルトのほうから有責で婚約を破棄してくれるこの瞬間を、私はずっと虎視眈々と狙っていたのだ。
そしてもう一つ。私には、王太子妃という地位など鼻で笑うほど、どうしても行きたい場所、逢いたい人がいた。
――隣国、ガレリア帝国辺境伯にして、氷の公爵と呼ばれるレオンハルト様。
冷徹無比と恐れられる彼だが、かつて外交の場で一度だけ見かけたその姿は、銀糸のような髪に、凍てつくような氷青の瞳、そして完璧な黄金比の顔立ち。
私にとっては、まさにド直球、魂を撃ち抜かれた「最推し」であった。
(自由になれば、レオンハルト様の治める辺境へ行ける……! 噂では瘴気と冷害で困窮しているらしいけれど、私の魔力さえあれば推しの領地を花畑にすることなんて造作もないわ!!)
推しの顔を思い浮かべた瞬間、口元が緩みそうになるのを必死に奥歯を噛んで耐える。
私はすっと目を伏せ、この世の不幸をすべて背負ったような、か弱く美しい声で口を開いた。
「……殿下。そのお言葉、決して後悔はなさいませんね?」
「ふんっ。後悔などするものか。真の歌姫であるマリアがいれば、この国の瘴気などたちどころに消え去るわ。お前のような無能は、さっさと荷物をまとめて王城から出ていくがいい!」
「承知いたしました。では、後日の揉め事を避けるためにも、殿下のサイン入りで『王家からの婚約破棄と、エレナ・ヴァン・ローゼンの国外退去を命じる』という公式文書を今ここでお認めいただけますか?」
「ああ、いいだろう! 喜んで書いてやる!」
アルベルトは側近に急いで紙とペンを持たせ、サラサラと署名をして私に投げつけた。
ひらひらと床に落ちたその紙を拾い上げ、インクの染みと王家の紋章を確認した瞬間。
(クーリングオフ不可! 契約成立ゥゥ!!)
私は脳内で盛大なファンファーレを鳴らしながら、その紙を大切に胸元へしまった。
これで、私が国を出ても公爵家が咎められることはない。むしろ「王命」で堂々と国を捨てられる最強のパスポートを手に入れたのだ。
「では、私はこれにて失礼いたします。殿下、そしてマリア様。……どうか、その『癒やしの歌』で、この国を“最後まで”お守りくださいませ」
最後に一礼し、踵を返して大広間を出る。
私の足取りがあまりにも軽やかで、去り際に見せた微笑みが異常なほど晴れやかだったためか、背中越しに一瞬だけアルベルトが「えっ?」と戸惑う気配がしたが、もう知ったことではない。
王城を飛び出した私は、待機させていた馬車に飛び乗るなり、侍女のアンナに叫んだ。
「アンナ! 出発よ! 国境へ向かって! 馬車は最高速度でお願い!!」
「お嬢様!? 婚約破棄されたと伺いましたが、いくらなんでも準備が早すぎませんか!?」
「いいの! 荷物なんて推しへの愛と現金があればどうにでもなるわ! さあ、目指すは北! レオンハルト様の領地よ!」
深夜の王都を、私の乗る馬車が猛スピードで駆け抜けていく。
窓から王城を見上げると、私がこれまで維持し続けてきた王都を覆う巨大な魔力のドーム――不可視の『浄化の結界』が、主を失ったことで端のほうからパラパラとガラスのように崩れ始めていた。
明日には、地下に溜まり続けていた瘴気が一気に吹き出し、国中は大パニックになるだろう。
マリアのあのスッカスカの歌声で、どこまで耐えられるか見物である。
「さようなら、ポンコツ王子。せいぜい地獄を楽しみなさい」
夜風に髪を揺らしながら、私はまだ見ぬ北の大地――愛しの「推し」が待つ極寒の領地へと、胸を高鳴らせていた。




