9話 リノ
人知れず称賛を贈っているかのような、岬に寄せる微かな波音。
息を飲んだバスティがハッと我に返ると、ブカブカの縦縞法衣が、うつ伏せで倒れていた。
癖毛のおさげは解け、粉々の木片が散乱している。
「リ……おぃっ! どうしたっ!?」
ネイムレスの姿を確認できず、名前への警戒を怠らない。
その時、掴んでいたルイーナの両手首から、フッと力が抜ける感覚に気がついたバスティ。
相棒の目を見ると、さっきまでとは違い焦点は合っているが、まだ虚ろで意識が混濁しているようだ。
「ぅ……あ? バス、テ『しーっ!』……?」
とりあえずの無事を確認すると「っ!」言葉にならないバスティは急反転し、走り出す。
へたり込んだルイーナの視界に、バスティの背中越しに倒れるリノの姿が飛び込むと、今が非常事態であることだけはすぐに理解した。
同時に、やるべきことが明解であると察した直後、身体が勝手に動いていた。
麻の肩掛け袋を下ろし、おもむろに制服のジャケットを脱ぎ「これを! 腰に掛けてあげて!」と、振り向くバスティに全力で投げ渡す。
「声を掛け続けて意識を! 魔法薬を調合して持っていく!」
麻袋を全開に上から逆さに振り乱すと、散乱する所持品からポーションを手に取り、集中し始める。
(魔力臨界……どころじゃない、空っぽだ! あれじゃ応急循環もできないよっ! お願い間に合って!)
魔法使いが魔力を失うことは、つまり生命の源を絶つこと。
握りしめたポーションを媒体に、その成分に魔力を流し込む。
希少職である魔法使い用の魔力回復薬は流通などしておらず、彼女達は市販の一般薬を調合して余力管理をしている。
出力不能のルイーナが学習成果を実感できる、数少ない初歩技術を試みる。
受け取ったジャケットを片手に急ぐバスティ。
うっすら届くかがり火が作る影の深さが、足場の悪さを伝える。
(名前を呼べないことがこんなに不便だったなんて!)
息を切らせて走りながら脳裏に蘇るのは、初めてリノの名を呼んだ、あの日のこと——
〜〜8年前・マシルス中庭〜〜
「リ……フォ……ネ……ノ……です……」
「え? リフォネ?」
「……ちがぅ」
バスティとリノ。
出会いのきっかけは、今朝入所した孤児の1人として紹介されたことだった。
聞き取れないほどか細い声は、まるでそよ風に揺れる鈴の音。
微妙に視線が合わない上目使いと、下る太めの眉尻。
4つ年上であるルイーナに隠れ、何かに怯えているようだった。
魔物被害により、天涯孤独となる前から引っ込み思案だった理由は、その名前にあった。
リリフォアンネリノ。
5歳児が名乗り、他人が呼ぶには、長いのだ。
親しくなる以前に避けられ、次第に塞ぎ込みがちになり、友達はできなかった。
両親が健在だった頃に由来を聞いたことがあったが、これでも短縮したのだそうだ。
危うく決まりそうだった文字数は、108。
愛する我が子に贈る、考え得る願いの全てを込めて。
自身にとってそれは、モノクロ世界への招待状だった。
「ぅ〜ん……呼びにくいなぁ……」
バスティは首を捻り呟いた。
子供の素直な反応は、残酷でもある。
(だよ、ね……)
ここでの生活にも、馴染めそうにない。
そう悟り、視線を芝に落とした……その時。
リノ。
頭の中に響く、2文字。
「今日から、リノ、だな!」
初めての愛称に、目を丸くして顔を上げると、そこには昼下がりの太陽のような笑顔の、お兄ちゃんがいた。
この瞬間、リノの世界が色づく。
撫でる風は優しく、花壇のユリは美しく、繋いだ手は温かい。
はにかむ少女は、いつの間にかたくさんのマシルス生達に囲まれていた——
〜〜もうすぐ、手が届く〜〜
ザザァッ! 土煙が薄闇に舞う。
バスティは側面から滑り込み、倒れるリノの腰にルイーナのジャケットを宛てがい、出血箇所を覆い隠す。
「おぃっ! リッ……しっかりっ!」
ゆっくりと仰向けにしたリノの顔色を確認しようと、左腕で守るように頭を抱きかかえる。
冷えはじめた首。かろうじて小刻みに震える唇。浅いのか止まっているのかわからない呼吸。
肩をゆすると、垢抜けない太めの眉がピクリと動いた。
「バスティ……おにぃ、ちゃん……」
「っ! 名前っ……もう呼んでも、いいのか?」
「恐いのは……もう、いない……」
小さな頷きから伝わる重さが、想像よりも軽いものであったことを、バスティは実感した。
「みんな呼び合って、励まし合える……リノなんかより……‘もーっと’強くなれる……よ」
「リノ! 今、ルイーナが薬、くれるからなっ」
長年の憂いを取り除き、民間人を守った司令官の覇気は無い。
「抱っこ……お嫁さんみたい……夢、叶っちゃった……」
『大きくなったら考えるよ——』
バスティの照れ隠しが、過酷な日々を過ごすリノを支えていた。
穏やかに微笑む、あどけない表情。
軍人には、早すぎるのだ。
魔法使いには、早すぎるのだ。
いちばんを、求めてはいないのだ。
「手……握って……」
「おぅっ……おうっ!」
この状況において何もできない無力さを痛感しながら、バスティは力いっぱいに応える。
「まぁるいお月さまと……おんなじ顔の、お兄ちゃんに……最後の魔法……見てて、ね」
(……さいごのまほう……?)
魔力臨界。バスティはその概念の末路を、ルイーナから聞き及んでいた。
「リノ! 休め! 寝たら、大きくなれるぞ!」
とっさに出たのは、ルイーナがよく言い聞かせていた言葉。
(こんな時に……っ! 僕はリノに、何をしてあげた? 何ができるっ?)
バスティの言うことを聞かないわるい子を初めて演じ、紡ぐ。
「いつか誰かに、笑ってほし、くて……毎日練習、した魔法……」
リノは潤む瞳を力無く閉じると、制止する間もなく、とっておきの魔法を詠唱した。
「バスティ……お兄ちゃん……だ〜ぃすき」
ズザァァッ!
文字通り飛び込んできた人影は、特急で魔法薬を仕上げたルイーナだ。
「リノッ!」
薄緑色から鮮やかな桃色へとなった液体を、小さな口元に流し込む。
(飲んでっお願い! リノ!……リノ……)
それは頬を伝い、荒れた地面に溶けていく。
「リノ、リノッ! リノォ!!」
ルイーナの叫びが、項垂れるバスティの耳に響き渡る。
リノと繋いだバスティの手に、一輪のユリの花が添えられていることに気づくのは、もう少し後になってのことだった。
満天の星空は、満月をそっと讃えている——




