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名前を呼ぶ声

昭和二十年、秋。

杉ノ谷に、一本の電報が届いた。

朝から冷たい風が山の間を抜けていた。

稲刈りを終えた田畑には、冬の気配が近づいている。

戦争は終わった。

それでも、村の人々の暮らしがすぐに変わることはなかった。

帰って来るはずの家族を待つ。

そんな日々が、まだ続いていた。

和子もその一人だった。

小さな娘を抱きながら、毎朝、坂道の向こうを見る。

郵便配達の姿が見えるたび、胸が少しだけ高鳴った。

もしかしたら。

今日こそは。

そんな思いを、何度繰り返しただろう。

その日も、和子は縁側で娘の着物を繕っていた。

すると、表から声が聞こえた。

「いはりますか?」

和子の手が止まる。

聞き慣れない声だった。

縁側から顔を上げると、村の郵便局員が立っていた。

その手には、一枚の紙が握られている。

和子の胸の奥が冷たくなった。

なぜだろう。

まだ何も聞いていないのに。

その紙を見た瞬間、何かを感じてしまった。

「電報です……」

和子はゆっくり立ち上がった。

腕の中の娘が、小さな声を上げる。

「はい」

自分でも驚くほど、かすれた声だった。

郵便局員は目を伏せた。

そして、静かに首を横へ振った。

その瞬間。

和子の周りの音が消えた。

風の音も。

鳥の声も。

遠くで聞こえる子供たちの声も。

何も聞こえなくなった。

ただ、腕の中にいる娘の温もりだけが残っていた。

震える手で、電報を受け取る。

短い文字。

冷たい言葉。

そこには、夫の名前があった。

奥村健吉。

戦地にて――。

和子は最後まで読むことができなかった。

紙が指の間から落ちる。

「……嘘や」

小さな声だった。

誰に言うでもなく。

誰かに否定してほしいような声だった。

「あんた……帰って来るって……」

和子は娘を強く抱きしめた。

「帰って来るって……ゆうたやないの……」

泣き声は出なかった。

涙もすぐには出なかった。

ただ、胸の中で何かが静かに崩れていく。

秋の風が、開いた縁側から吹き込んだ。

そこには以前と同じ景色があった。

山も。

畑も。

家も。

何も変わっていない。

変わってしまったのは、和子の中にある未来だった。


それから数日。

小乃は以前と変わらず、何かと和子の世話を焼いていた。

「無理したらあかんで」

「子どもは、みんなで育てるもんや」

その言葉に、和子は何度も救われた。

けれど――。

夜になると、静かな家の中で、胸の奥が苦しくなった。

縁側。

健吉から届いた手紙。

一度も抱かれることのなかった娘。

そこには、幸せだった時間の跡が残っていた。

和子は毎晩、眠る娘の顔を見つめた。

「お父ちゃんに、会わせてあげたかったな……」

小さく呟く。

返事はない。

ただ、娘の寝息だけが聞こえていた。

季節が少し進んだ頃。

村の中で、戦地から戻ってきた男たちの姿を見るようになった。

家族との再会。

笑顔。

泣き声。

喜びの声。

和子も遠くからその様子を見ていた。

でも、その度に、胸の奥が痛んだ。

自分には、もうその日が来ない。

そう思うと、涙が出そうになった。


ある夕方。

小乃が、気晴らしに市内へ芝居を見に行こうと、その番付表が載った新聞を持って来た。

でも、まだ、和子はそんな気にはならなかった。

ふと、和子は、小乃が置いて行った新聞を手に取った。

紙面には、戦後の混乱の中で生きていくための仕事の知らせが並んでいる。

その中に、小さな文字があった。

「住み込み 女中募集」

場所。

京都。

先斗町。

和子の指が止まった。

先斗町。

聞いたことはある。

華やかな街。

自分とは縁のない場所だと思っていた。

でも――。

娘を育てていくためなら。

和子は静かに新聞を畳んだ。

その夜。

眠る娘の横で、和子は長い間、考えていた。

この家を離れること。

健吉との思い出を置いていくこと。

それは、簡単なことではなかった。

けれど。

ここに残れば、自分はいつまでも「あの人を待つ人」のままだ。

娘には、未来を見せてあげたい。

和子はそっと娘の小さな手を握った。

「行こか……」

誰に言うでもなく呟いた。

「お父ちゃんが見たことない、新しい場所へ」

秋の夜。

杉ノ谷の空には、静かな月が浮かんでいた。


その朝の杉ノ谷の空は、薄い雲に覆われていた。

和子は小さな荷物をまとめていた。

着替え。

娘の布団。

結婚式の日に氏神神社で撮った健吉との写真。

そして、戦地から届いた一通の手紙。

それだけだった。

家の中を見渡す。

何年も暮らした場所。

健吉と笑った日々。

娘が生まれた縁側。

ここには、たくさんの思い出が残っている。

でも、もう戻ることはできない。

和子は静かに戸を閉めた。

外には小乃が待っていた。

「本当に行くの」

和子は小さく頷いた。

「うん」

「この子のためやから」

小乃は何も言わなかった。

ただ、和子の腕の中にいる小さな娘を見つめた。

「健ちゃんに……似てるな」

その言葉に、和子の目が少し潤む。

「うん よう似てるわ 目元なんか そっくりや」

二人の間に、しばらく沈黙が流れた。

やがて、和子は歩き始めた。

娘を抱き、ゆっくり坂道を下りていく。

何度も通った道。

畑へ向かった道。

健吉を見送った道。

でも今日は、和子自身がこの場所を離れていく。

小乃はその背中を見つめていた。

遠ざかっていく母と子。

もう声が届かなくなりそうになった時。

小乃は初めて、その名前を呼んだ。

「千代子ちゃん!」

和子の足が止まる。

腕の中の娘は、まだ何も分からない。

小乃は涙をこらえながら笑った。

「元気でな」

少し間を置いて。

いつものように優しい声で言った。

「また、あおな」

和子は振り返った。

何か言おうとした。

けれど、言葉にならなかった。

ただ深く頭を下げた。

そして再び歩き出した。

小乃は、その小さな背中が見えなくなるまで立っていた。

杉ノ谷の坂道を下っていく二人の姿を。

いつまでも忘れなかった。

この日。

村を出て行った小さな女の子の名前を、

小乃は何十年経っても覚えていた。


夜の先斗町は、多くの人で賑わっていた。

店先の灯り。

行き交う人の声。

格子戸の向こうから聞こえる笑い声。

美砂子は、その中をゆっくり歩いていた。

何十年も前。

ここに、戦争で夫を亡くした母親が幼い娘を抱いてやって来た。

何も持たず。

ただ、生きるために。

美砂子は足を止めた。

目の前には、今を生きる人々の姿がある。

けれど、この華やかな街の片隅にも、誰にも知られない人生の記憶が積み重なっている。

人が生きた記憶は、時代が変わっても、誰かの心の中に残り続ける。







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