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帰りを待つ場所

昼下がり。

美砂子は河原町のカフェの窓際に座っていた。

店内には穏やかな音楽が流れている。

美砂子はスマートフォンを手に取った。

仕事関係の連絡が何件か届いている。

だが内容を確認しても頭に入らなかった。

画面を閉じる。

窓の外では人々が行き交っていた。

観光客。

買い物客。

学生たち。

誰もが自分の日常を生きている。

美砂子はコーヒーに口を付けた。

ふと、昨日の小乃の顔が浮かぶ。

百年近い人生を生きてきた老女。

その記憶の中には、まだ健吉と和子が生きていた。

美砂子は静かに窓の外を見つめた。

そして再び、遠い昭和の時代へ思いを馳せる。


――昭和十九年 秋。

杉ノ谷の山々は少しずつ色付き始めていた。

健吉が出征してから数か月が過ぎている。

和子は無事に女の子を出産していた。

小さな命だった。

よく泣き、よく眠る。

和子は赤ん坊を背負いながら畑へ出ることもあった。

戦争は続いていた。

働き手の少なくなった集落では、一人で生きていくことは難しい。

だが幸いにも、小乃をはじめ近所の人々が何かと力を貸してくれた。

「今日はうちで見といたる」

「畑は手伝うさかい」

皆が少しずつ支えてくれた。

そんな、ある日の午後だった。

和子が縁側で赤ん坊をあやしていると、小乃が坂道を駆け上がって来た。

手には一通の封筒が握られている。

「かこちゃん!」

和子は驚いて顔を上げた。

「どうしたん?」

小乃は息を弾ませながら笑う。

「手紙や!」

和子の胸が大きく鳴った。

差出人を見る。

震える指で名前をなぞる。

奥村健吉。

確かにそう書かれていた。

和子は急いで封を開いた。

紙には見慣れた文字が並んでいる。

――わしは元気にしとる。

――南の島は暑うてかなわん。

――お前も身体に気ぃつけてくれ。

――子どもは無事に生まれたやろか。

――男やろか、女やろか。

――帰ったら抱かせてもらわなあかんな。

和子は何度も何度も手紙を読み返した。

文字が滲む。

気付けば涙が頬を伝っていた。

赤ん坊が小さな声を上げる。

和子はそっと抱き上げた。

まだ何も知らない小さな娘。

健吉が一度も会ったことのない娘。

和子は赤ん坊の顔を見つめた。

小さな鼻。

優しい目元。

その顔に、健吉の面影が重なる。

和子は涙を拭いながら微笑んだ。

「あんたに、よー似てます」

誰に聞かせるでもない。

遠い南方にいる夫へ向けた言葉だった。

秋の風が静かに縁側を吹き抜けていった。


夕暮れが近づいていた。

美砂子は木屋町通をゆっくり歩いていた。

高瀬川の水面には西日が揺れている。

川沿いの柳が風に揺れ、どこかの店から食器の触れ合う音が聞こえてきた。

人々は思い思いに行き交っている。

だが美砂子の意識は、また遠い時代へ向かっていた。


――昭和二十年 。

長い冬が終わり、杉ノ谷にも遅い春が訪れていた。

山桜が咲き、田畑には新しい緑が広がっている。

だが村の空気は、以前とは少し違っていた。

出征した若者たちから届く手紙は減っていた。

届いても短い。

そして途切れる。

そんなことが増えていた。

ある日の夕方。

和子は赤ん坊を背負いながら共同井戸へ向かっていた。

そこで数人の男たちの話し声が聞こえる。

「南の方は、だいぶ悪いらしいな」

「負けとるんと違うか」

「そんなこと口にしたら憲兵に怒られるぞ」

男たちは声を潜めていた。

和子は立ち止まる。

胸の奥がざわついた。

健吉も南方にいる。

手紙はもう何か月も届いていなかった。

聞こえてきた言葉を振り払うように首を横へ振る。

大丈夫。

あの人は帰って来る。

そう信じるしかなかった。

季節は流れた。

夏。

蝉の声が山々に響く。

八月六日。

広島に新しい爆弾が落とされたらしい。

そんな噂が村にも届いた。

誰も詳しいことは分からなかった。

ただ、今までにない何かが起きたことだけは伝わってきた。

数日後。

再び大きな爆弾が落ちたという話が広がる。

そして八月十五日。

村人たちは公民館へ集められた。

小乃もいた。

和子も幼い娘を抱いて座っている。

部屋には重苦しい空気が漂っていた。

机の上にはラジオが置かれている。

やがて雑音混じりの声が流れ始めた。

誰も聞いたことのない言葉。

聞き慣れない言い回し。

難しい言葉ばかりだった。

それでも村人たちは理解した。

戦争が終わったのだ。

誰も歓声を上げなかった。

誰も万歳をしなかった。

ただ静かだった。

小乃は後になっても、その時の静けさを忘れられなかった。

和子は娘を抱いたまま俯いている。

あの人は帰って来るのだろうか。

それとも――。

終戦を告げる声が流れる中、

和子の胸にあったのは喜びではなかった。

ただ一つ。

夫の無事を願う気持ちだけだった。

公民館の窓の外では、

真夏の蝉が鳴き続けていた。


美砂子は川沿いをゆっくり歩いていた。

水面に揺れる光を見つめながら、昨日の小乃の言葉を思い出していた。

戦争が終わっても、あの子は、夫が帰って来るのを、待っていたはず。

美砂子は足を止めた。

待つということ。

帰って来ると信じること。

それは、ただ時間を過ごすことではない。

その人が帰って来る場所を、守り続けることなのかもしれない。

美砂子は、静かに川面を見つめた。

これからこの小さな川が、何十年もの時を越えて、いくつもの人生の記憶を繋ぐ場所になることを、美砂子はまだ知らなかった。












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