帰る約束
翌朝。
美砂子は京都府立図書館を訪れていた。
岡崎公園の木々は初夏の風に揺れている。
図書館へ入る前、美砂子はふと足を止めた。
視線の先には、平安神宮の大鳥居が見える。
鮮やかな朱色が青空に映えていた。
昨日まで、自分は七十年以上前の出来事を追っていた。
だが京都の街は何事もなかったように今日を生きている。
美砂子は小さく息を吐くと、図書館の自動ドアをくぐった。
目の前にはマイクロフィルム閲覧機。
昨日、小乃から聞いた話が頭から離れなかった。
昭和十九年。
健吉が召集令状を受け取った年。
美砂子は係員から受け取ったフィルムを機械にセットした。
スイッチを入れる。
白いスクリーンに、古い新聞の記事が映し出された。
紙面には戦況を伝える大きな見出しが並んでいた。
『撃滅』
『必勝』
『一億総決起』
『本土防衛』
勇ましい言葉が紙面を埋めている。
この頃の歴史を知っている美砂子にとって、それは日本政府に都合の良い記事ばかりだった。
美砂子はフィルムをゆっくりと送った。
紙面には戦況を伝える記事だけではなく、京都の日常を報じる記事も並んでいる。
『学徒動員 府内各校で勤労奉仕』
『金属回収にご協力を』
『出征兵士壮行会』
『灯火管制の徹底を』
見出しを追うたびに、美砂子は眉をひそめた。
戦争は遠い戦地だけの出来事ではなかった。
京都の街もまた、その中にあったのだ。
記事には、学生たちが工場で働く様子が写真付きで掲載されていた。
笑顔を見せる少年たち。
だが、その笑顔の裏に何があったのかは分からない。
別の記事には、出征する若者たちを地域住民が見送ったと書かれている。
日の丸の小旗を振る人々。
美砂子は思わず手を止めた。
健吉もまた、こんな風に送り出されたのだろうか。
杉ノ谷の人々に見送られながら。
和子と、小乃に見守られながら。
スクリーンに映る文字は、どこか遠い世界の出来事のようだった。
だが、その紙面のどこかに、健吉と和子が生きていた時間が確かに存在していた。
万歳の声が、遠い記憶のように美砂子の中で響いた。
――昭和十九年 夏。
杉ノ谷の朝は、いつもと変わらず静かだった。
山々は深い緑に包まれ、川のせせらぎが谷あいに響いている。
だが、その日だけは違っていた。
集落の入口にある広場には、多くの人が集まっていた。
男たち。
女たち。
子どもたち。
皆、健吉を見送るために集まっていた。
健吉は国防色の軍服を身にまとい、集落の人たちから贈られた千人針と小さな荷物を肩に掛けている。
慣れない服装のせいか、どこか落ち着かない様子だった。
それでも顔には笑みを浮かべていた。
「健吉、身体だけは気ぃつけろよ」
「すぐ帰って来い」
村人たちが次々に声を掛ける。
健吉は照れ臭そうに頭を下げた。
「おおきに」
その隣には和子が立っていた。
少し大きくなったお腹を両手で支えている。
小乃は少し離れた場所から、その二人を見つめていた。
誰も口にはしなかった。
だが皆が分かっていた。
これが最後になるかもしれないことを。
やがて迎えのトラックがやって来た。
土埃を上げながら、ゆっくりと広場へ入ってくる。
辺りが静まり返った。
健吉は和子へ向き直る。
しばらく言葉が出てこなかった。
やがて照れたように笑う。
「すまんな」
和子は首を横に振った。
「謝らんでええ」
健吉はお腹へ目を向けた。
「元気な子を産んでくれ」
和子は小さく頷く。
「分かってる」
「男でもおなごでもええ」
健吉は笑った。
「元気やったら、それで十分や」
和子も笑おうとした。
だが上手く笑えなかった。
健吉はそんな和子を見つめ、そっと肩へ手を置く。
「すぐ帰る」
その言葉が本当かどうか。
二人とも分かっていた。
それでも、そう言うしかなかった。
やがて出発の時間が来る。
健吉はゆっくりとトラックへ乗り込んだ。
村人たちが手を振る。
「行ってこい!」
「頑張れ!」
万歳の声が山あいに響いた。
小乃も手を振った。
和子も手を振っていた。
涙は見せなかった。
ただ、じっと健吉を見つめていた。
トラックが動き出す。
ゆっくりと坂道を下っていく。
健吉は荷台から何度も手を振った。
その姿が少しずつ小さくなっていく。
やがて山道の向こうへ消えた。
誰も声を出さなかった。
静寂だけが残る。
その時だった。
和子の肩が小さく震えた。
小乃は初めて見た。
あんなに気丈だった和子が、声を殺して泣く姿を。
山から吹く風が、二人の間を静かに通り過ぎていった。
美砂子はふと瞬きをした。
気が付くと、目の前にはマイクロフィルムの白いスクリーンがある。
閲覧機の低い作動音だけが静かに響いていた。
知らず知らずのうちに、健吉たちの時代へ入り込んでいたらしい。
美砂子はゆっくりと息を吐いた。
スクリーンには相変わらず古い新聞の記事が映し出されている。
だが、その紙面の向こうに生きていた人々の姿を、今は少しだけ想像できる気がした。
健吉。
和子。
そして小乃。
歴史の中に埋もれていた名前たちが、少しずつ血の通った人間として形を持ち始めている。
美砂子は閲覧機の電源を切った。
白い光が消える。
静かな閲覧室が戻ってきた。
窓の外は、新緑の木漏れ日が揺れている。
図書館を出る。
平安神宮の朱色の大鳥居は、昼下がりの柔らかな光で輝きを増していた。
散歩をする人。
ベンチで談笑する学生たち。
行き交う外国人観光客。
昭和十九年の杉ノ谷と、令和の京都。
その間には八十年以上の歳月が流れている。
だが、不思議なことに美砂子には、それほど遠く感じられなかった。
健吉が見上げた空も。
和子が涙を流した山々も。
確かに、この京都のどこかに続いている。
美砂子は肩にバッグを掛け直した。
まだ終わっていない。
むしろ、本当に知りたいことはこれからだった。
あの写真の中で微笑んでいた外国人の軍人。
そして、その隣で無表情に立っていた若い芸者。
二人の間に何があったのか。
緑の風が頬を撫でる。
美砂子は再び歩き出した。




